文化祭とその後の日々。
……身体が痛い。特に腰と背中が。
あれ、なんだこの水音。まるでシャワーみたいな音だ。
シャワーみたいな音は定期的に音を変えている。強く聞こえていたかと思うと音は小さくなり、その後またしばらくして強くなる事の繰り返し。
どこかで聞いた事のある音なんだよな。あ、食器を洗っている時の音だ。なんだ、洗い物をしているのか。
「……」
水に沈めたゴムボールが勢いを付けて水面に浮き上がるように、俺の意識も暗い闇の中から引き上げられていく。
目を開けると見慣れた部屋の天井が広がっている。薄暗い部屋の中一人のっそりと上半身を起こす。
「いてて……」
上半身を起こすと同時に腰を撫でる。背中や脇の辺りにも違和感を覚え、気が付けば頭の近くて手を組み天井に向けて真っ直ぐ伸ばしていた。
力の入れすぎなのか小刻みに腕が震えるが、右へ左へと身体をひねり、強張った筋肉をほぐしていく。しばらく身体を捻ったりしていると身体にずっしりと圧し掛かっていたダルさがかなり軽減された。
頭のほうもスッキリし始め、次第に気を失う前までの事が頭に浮かぶ。その記憶からまた前と同じように倒れてしまったということまで理解できた。
いつまでも此処に居る訳にはいかない。俺には知りたい事が山ほどある。今が何日の何時だとか、他にも沢山。今俺が解ると言えば、窓の外は暗く、夜であると言うことだけだ。
ベッドから起き上がるとゆっくりと移動を開始する。
薄暗い部屋ではあるが、開け放たれた扉から入り込んでくる僅かな明かりのおかげで目を凝らせば薄暗闇の中でも目は利き、扉の角で足の指をぶつけるような危険性はない。
ゆっくりと水音のする方へ、ダイニングへと向かった。
洗い物の音のほかにテレビの音も聞こえる。寝ている俺を気遣ってか、かなりボリュームは絞ってあるようだ。
リビングの扉を開けると蛍光灯の明かりが目に沁みる。思わず目を細めた。
「久遠寺君!」
眩しさに慣れた目に一番に飛び込んできたのは制服姿の委員長だ。
「ようやく目覚めたか、寝坊助め」
次に目に付いたのは四十二型の薄型テレビの真ん前に置いてあるソファーから仰け反ってこちらを見ているレンの姿だ。
額でも押して危険なおもいでもさせてやろうかと考えが浮かんだが、俺が手を下すまでもなくレンはバランスを崩し焦った表情を浮かべ空中でバタ足をし格好悪くなんとか正常な体勢に戻った。
「えっと、テレビの日付からして俺は二日近く寝てた?」
ソファーに腰掛けつつ、レンと委員長に聞くと二人とも頷いた。
周りの暗さからもう良い子が布団に入る時間かと思ったが、テレビ左上に表示されている時刻はまだ十九時を回ったばかりだ。
「そ。久遠寺君が倒れて今日が二日目。世の中の流れとしては特に大きな変化もなく、身近な変化と言えば文化祭二日目が終わったところよ」
またも少しだけ浦島太郎のような体験をしてしまっていたようだ。
「学校には此方から上手く伝えてあるから心配は要らないわよ」
背後からはフーコメリアの声。洗い物が終わった様でエプロンを壁にかけているところのようだ。
委員長、レン、フーコメリア。どうやら三人に怪我らしい怪我は無い様で安心していると、急に委員長が俺の腕を掴んでくる。
「さ、行くわよ」
「い、行くって何処に?」
「髪よ、髪。流石にその頭じゃ学校には行けないでしょう?」
委員長が一体何を言っているのか解らず、ガラスに映る自分の髪を見ると言葉を失った。
「なっ、なんで、これは、ちょっと!?」
長めの前髪を半分程の長さを切られた記憶があるのだが、今の髪の長さはそれ以下。綺麗に前髪の長さは揃い、親に前髪を切られた子供のようになっている。
ハッキリ言ってダサすぎる。これならまだ倒れる前の方が何割もマシだ。小さい子ならまだ可愛らしいで済むだろうが、思春期の青年が二歳児、三歳児と同じような髪型をしているのは正直、正視に耐えない。キャラ作りに必死なお笑い芸人のようだ。
「いやぁ、少しでもマシにしようかと手を加えたんだけどね、く、久遠寺君が頭を動かすやら、バランスが悪いやらで、あはははは……」
視線は泳ぎ、言い訳もしどろもどろ、最後には乾いた笑いで誤魔化す委員長。ゆ、許せん。
「な、なんて事をしてくれたんだ、委員長! こんな頭じゃ学校はおろか、外にも出れないじゃないか! 俺が元の髪型に戻るために何ヶ月部屋に引きこもっていろと言うんだ! 委員長も俺と同じ苦しみを味わうか? そのツインテールの片側をバッサリ切り落としてやろうか、そうすれば委員長は歩く為のバランスが取れなくなり、俺と同じ……いや、それ以上の期間、部屋に引きこもっていなければならないだろう!」
「ちょっと久遠寺君、言ってる事が無茶苦茶よ!? 別に私は『髪』で左右のバランスなんか取っていないし、仮に切られたとしても髪型を変えるわよ!」
委員長はツインテールを左右に引っ張りながら言う。そんなまさか。
「ええぃ、うっとおしい、早く連れて行け、オーカ! テレビの音が五月蝿くて聞こえないではないか!」
レンが俺を追い払うように手を振る。それに従うように強く委員長が俺の手を引き、外へと出る。
「なんだよ委員長、はっ、まさか、こんな場所で髪を切るというか、素人の手段としては最後となる、マルボーゥズにする気では!? や、やめてくれ! それなら今の市松人形のような頭でも十分だ!」
「マルボーズだけなんでそんなに発音がいいのよ……だぁーいじょーぶ、その道の『プロ』に任せるからね」
委員長はそう言ってウインクするが、確か美容室なんて俺の知っている限りでは遅くても二十時までやっているかどうかだ。今から移動したとしても間に合うのか微妙なところだ。そんな俺の脳裏に一人の人物像が浮かび上がる。
「まっ、まさか、その道のプロって……駄目だ! 近所のあのおばさんだろ! 嫌だ嫌だ、あのおばさんに髪を切られた小学生の末路は俺も知っている。アフターがすべて同じ、そのおばさんが髪を切った子供を六人並べれば簡易型あの六つ子の兄弟の出来上がりで有名な、あのおばさんに頼むのだけはやめてくれ! 俺も六つ子の仲間入り、きっと出っ歯なシェーや小柄な子供の騒動に巻き込まれる!」
「あぁ、確かにあのおばさんはそうよね。知ってる? あのおばさんの最近のこだわりはとても高い位置でモミアゲを一刀両断よ」
「おっ、俺にテクノカットは似合わないッ!」
俺が狼狽していると委員長は声を上げて笑った。
「だから、大丈夫だって、今回頼むのは上の階に住む美容師のお姉さんなんだから」
「そ、そうなのか?」
「うん、私もちょくちょくお世話になってるのよ? で、ちょっと今回久遠寺君がふざけてて前髪が酷い状態になったんだけどーって話したら快く調整を名乗りあげて貰えたわ。もう連絡は通してあるから大丈夫よ」
携帯電話を振る委員長。俺は戸惑うばかりで、気が付けば委員長に連れられ、足を踏み入れたことの階の知らない部屋の前に立っていた。
扉なんかは俺の家と変わらないのだが、もはや此処は異空間だ。もう少し落ち着いて……そう思っていると委員長は友達の家に遊びに来たかの様な手軽さでさっさとインターフォンを押してしまう。
『はい?』
インターフォン越しに若い女性の声。
「あ、春日野です」
『おー、桜花ちゃんね』
「頼んでいた……」
『おっ、ようやく連れて来たのね、オッケオッケー。すぐ鍵開ける』
なんかノリの良さそうな人というのは解った。待つこと数十秒、玄関の鍵が音を立てた。
「はーい、いらっしゃーい」
扉から現れたのはよれたTシャツにジャージ姿の女性で、到底オシャレな美容師さんには見えない。
「ケーコさん、よろしくお願いしますね」
「うっし、任された!」
委員長にケーコと呼ばれた女性はガッツポーズをして俺の手を引いた。
「じゃあ私はこれで」
「あれ、桜花ちゃんもう帰っちゃうの?」
「はい、明日も文化祭で早いので。久遠寺君がどんな風になるかは明日のお楽しみで」
二言ほど委員長はケーコさんと話すと俺を置いて家に帰ってしまった。
「えっ、ちょ、い、委員長……?」
「さぁーて、どんな風にするかねー」
邪悪な笑みを浮かべたケーコさんに俺は部屋の奥へと引きずられていった。
「うぅッ、頭がスースーするよぅ……」
すっかりと軽くなった頭を撫でながら、涙を拭う。やけに蛍光灯の明かりがまぶしいぜ。
「うんうん、若い子の頭はそれぐらいスッキリしていなきゃッ!」
一仕事終えたケーコさんは手に付いた細かい髪の毛を払いながら、子供のように笑った。
髪の切り方などで美容師の腕が良いとか悪いとか判断できるような目は俺には無いが、手際はとても良くあっという間に俺の頭は寂しく、ケーコさん宅のダイニングの床は俺の髪の毛で埋め尽くされた。
「額が広いことを気にしていたみたいだけど、コレぐらいならまだ許容範囲だって。オフレコだけど、店の方にはもっと酷いのだって来るんだから。クッキーのはまだセーフライン」
ケーコさんは口元に手を持っていき、小声で俺にそう伝えた。
流石、接客業と言うべきか。初対面だったというのにケーコさんの気さくな雰囲気は親しみやすく、たった一時間程度話しただけだと言うのに、随分と構えることなく話すことが出来た。
「えっと、それで御代の方は……?」
「お金?」
ダイニングに散らばった俺の髪の毛を塵取りで集めていたケーコさんはきょとんとした表情を浮かべた後、お腹を抱えて笑い出した。
「いいって、お金なんて。今回はコッチの個人的な事情で切っただけだし。いやー、前々からクッキーを見るたびにあの長い前髪を切りたくて切りたくてウズウズしてたんだよね。若いのに冒険もしない髪型で勿体無いなーって思っていたし」
ケーコさんはそういって俺の頭を小脇に抱え、ぐりぐりと頭をこね回す。痛い、けれど至福のとき。理由は解るだろう。
「そうだねー、どうしてもって言うならまた長くなったら切らせてよ。今度はお店でね」
机の上においていた鞄からケーコさんは手の平サイズの四角いケースを取り出し、中身を一枚取り出し俺に差し出した。
受け取った紙にはケーコさんの勤め先の住所と電話番号と定休日が書かれていた。どうやら名刺というものらしい。
「ほっといたらまた前の頭に戻っちゃうからね。来る前にコッソリと割引券とか渡すから」
両手を合わせ、拝み始めたケーコさん。もしかしたら俺が考えている以上に色々あるのかも知れない。
あまり長居をするのもあれだし、適当なところで切り上げ、一目を避けるように、階下の自宅へと戻った。
――進路、クリーン。物音を立てずに潜入完了。あとは素早く自室へと戻るだけ。居間からはボリュームを上げたテレビの音と、レンの馬鹿笑いが聞こえる。レンは居間だろう。そしてフーコメリアは……。脱衣所の方に明かりが見える。時間的にもサービスシーンのようだ。
俺は静かに脱衣所へ向けて足を踏み出した。
……いや違う! なんで俺は脱衣所に向かおうとしていたのだ。向かうのは自室ね、自室。
慣れた場所だからこそ間違えることもある。慣れとは本当に恐ろしいものだ。では、足音を消して、いざ脱衣所に……。
「クッキー、玄関先で何やっているの?」
ガチャリとフーコメリアとレンの使っている部屋の扉が開き、中から寝巻き姿のフーコメリアがでてくる。まだ髪は完全に乾ききっていないのか、少しだけ濡れているような感じだ。
「へっ、あれ、ふ、フーコメリア……あっちは……」
「あっち? あ、ごめんなさい。消し忘れていたわ。それにしても随分とスッキリしたものね。一瞬、誰かと思ったわ」
まじまじと俺の顔を見つめるフーコメリア。その視線に耐えられなくなり、俺は視線を逸らす。
「ふふっ、あ、髪の毛洗い落としたら? 多分短い毛が落ちきっていないと思うわ」
フーコメリアに言われ、頭をひと撫ですると短い髪の毛が手のひらにくっついていた。確かにコレでは枕に沢山毛がついてしまいそうだ。一度風呂にでも入ろう。
脱衣所などの鏡で、短くなった髪をじっと見つめる。
……全然似合って無くない? なんだろう、この違和感だらけの頭は。見れば見るほど額の広さなどが気になる。えぇい、頭を洗ってスッキリしよう。
「~、~~♪」
程よく身体も温まり、ずっと寝ていて凝り固まった筋肉も大分良くなった。
そうだ、俺が倒れた後、どうなったのか詳しく聞かなきゃ。みんなの様子から無事ハッピーエンドのようだが。俺の頭を除いては。
濡れた所為で余計に髪が細く見え、人前に出れる頭なのだろうかと思える髪型をした男が鏡に映っている。
はぁ、明日学校行くの恥ずかしいな。
「……」
寒い。いくら温まったとはいえ、真っ裸でいるのは辛い。パンツ履こう。
「がおーのばっぶ♪」
ガラリと脱衣所の扉が開く。テレビCMで流れていたフレーズを口ずさみながらレンが脱衣所の扉を開け、俺の顔を見つめ固まる。
「なっ……なっ、な……」
パクパクと口を開き、俺の顔を指差す。
「何者だぁぁッ!?」
俺が口を開くよりも先にレンはバスタオル掛けとして使っている突っ張り棒を手に取り、振り下ろしてきた。
身体が固まらず、反応できたのは奇跡だろう。突っ張り棒を振り下ろすレンの脇をすり抜け、脱衣所から出たのは良いが、切り返す一撃が俺のプリチーな尻を叩く。
「痛ぇッ!?」
突っ張り棒で尻を叩かれ、衝撃が骨盤を揺らす。この歳になってお尻ペンペンは勘弁して欲しい。
「よくもまぁ……人の家に侵入し、堂々と風呂に入れるものだなッ!」
は? このチビ何を言っている? 俺が俺の家で風呂に入って何が悪い? まさか、コイツ俺を泥棒か何かと勘違いしてるんじゃ?
「ちょっと待てレン、まーさーかとは思うが、俺を泥棒と勘違いしてるんじゃないだろうな……」
「なっ、貴様それ以上寄るなッ!」
珍しくレンが狼狽している。この様子はあれだ。ようやく俺が誰だか解ったのは良いが、勢いで攻撃してしまった為に引っ込みが付かなくなったパターンだな。
「てめー、素直にゴメンなさいしろやこのヤロー!」
これはレンにもお尻ペンペンの刑に処す必要がありそうだ。決してやましい事など無い。
「よっ、寄るな破廉恥漢ッ!」
「……二人とも何してるの?」
横から心底困惑しているような空気を纏ったフーコメリアの声。俺はようやく自分の状態に気が付いた。
慌てて前を両手で隠しても、もう手遅れである。
「くっ、クキー、わ、私のプリンをやる、……えぇい、わかった、下の黒いのもやる! だっ、駄目だぁ、ふっ、フーコメリアッ!」
「ちょっと、私を巻き込まないで頂戴」
「後生だ、助けてくれフーコメリアッ! こんなことならいっそ殴り飛ばしてくれたほうがどれだけ楽かッ!」
「今回ばかりはフォローできないわよ……私もこんな状態になったクッキーなんて見たことが無いから。そもそも、今回の原因はレンにいくつもあるわ。お風呂が開いてもなかなか入らなかった事や、扉を開ける前に確認をしなかった事、冷静に考えて堂々とお風呂に入る泥棒なんて居るわけがない、髪を切ってクッキーの雰囲気がかなり変わったぐらいわかるでしょう?」
「ぐっ、そ、その話はまた後で嫌と言うほど聞いてやる! 今はこの場をなんとかするのを手伝ってくれと言っている!」
「無茶振りもいいところだわ」
「こ、この役立たず! こ、こうなったら……おっ、オーカを呼ぼう、オーカを! きっと奴なら、きっと奴なら何とかしてくれるッ!」
「明日も文化祭の準備で早いって言ってたじゃない。この二日間早起きをしているみたいだし、この時間ならきっと寝てるわ。こんな事で叩き起こすのは可哀想よ」
……おかしい、おかしいだろ、コレって。
今までも似たような場面でかなり惜し……いや危ない場面は沢山あった。だが、今回みたいなバッチリハッキリは初めてだ。普通こういう場合ってラブでコメディーな法則としては俺が真っ裸のレンを見るってお約束じゃないんだろうか? 間違っても俺が真っ裸で、レンが着衣しているなんてありえないし、おまけにフーコメリアにまで見られるなんて。あぁ、これは夢だ、夢なんだ。
寝よう、寝てしまおう。すべて忘れるために。
「なんで、二人はもっと早くに教えてくれなかったんだッ!」
朝の冷たい空気が肌を突き刺す中、俺は携帯の地図を頼りに走っていた。服装はランニングウエアではなく学校の制服。
そろそろ一日が動き始めようとしているようで、仕事場へと向かっているであろう車が見受けられる。時刻にして午前五時過ぎ。まだ辺りは暗い。
昨日早く布団に入ったおかげか、それとも一日以上寝ていた所為か、爺さんもビックリするような時間に目が覚めてしまった。
何か食べるものをと台所を漁っているとフーコメリアを起こしてしまった。そしてフーコメリアから俺が倒れて、目覚める間の事をすべて聞いた。
依本さんが放った三度目の矢は見事、化け物の首元にある赤い光を貫いた。
フーコメリアの予想通り化け物は姿を維持することが出来ず、核であった魔法使いのお姉さんを残して霧散したらしい。
逃げる体力も残っていなかった依本さんと魔法使いのお姉さんは捕まり、事情聴取のようなものを俺が倒れている二日にわたり受けているようだ。そして本日、二人はフーコメリアの世界に戻され、色々な裁きを受ける事になるらしい。
その話を聞いて俺は居ても立ってもいられなくなった。フーコメリアも予想はしていたようで、すんなりと二人がいる場所を教えてくれた。
携帯の地図アプリを駆使して進んでいると、これまであまり足を踏み入れることの無かった小道へと入った。
途中までは仲の良かった小学校同級生の家に向かう時に使っていたルートだったのだが、見慣れた住宅街の曲がり角を二つ曲がると其処からは未知の領域が広がっていた。
地図を片手に知らない場所を進み、新たな知識の吸収に少しワクワクしながら進むこと数分、現在地と目的地のマーカーが重なった。
「ここか……」
目の前にはお世辞にもモダンとはいえない雰囲気のアパートがある。今時少し珍しい木製の塀で少し時代を感じる。ところどころ塀の一部である木製の板が腐って穴が開いていたりしてそれが余計に時代を感じさせるのだろう。
塀の雰囲気から建物も木製、風呂トイレだけでなく玄関までも共同のアットホームな建物を想像したのだが、建物は鉄筋コンクリート製の二階建て、部屋数は合計八つ。探せば他に似たような物件を見つけられそうなありふれた形の建物だった。
依本さんはこのアパートの二階に住んでいるらしい。建物中央の階段を上り二階に上がり、目的の部屋の前に立った。
少し早すぎるような気もしたが、フーコメリアから聞いた情報によれば別に時間を気にする事は無いらしい。チャイムを押そうとしたときに指先にべっとりと付いた赤茶色い汚れに気が付いた。きっとこれは先ほど階段の手すりに捕まった時に付いた汚れだ。思ったより階段の傾斜がきつく足を滑らすとは思わなかった。
腰の辺りで汚れを拭き取ると意を決してチャイムを押す。自分の家のチャイムの音と比べると随分と軽い感じのするチャイムだ。
やっぱり時間的にも早かったとか、チャイムが鳴っていないのだろうかとか、部屋が違うのではという不安が湧き上がりながら待つこと数十秒、玄関の鍵が開く音がし、ゆっくりと扉が開いた。
扉が開き、俺を出迎えたのは依本さんじゃなく、フード姿の人物だった。
「……珍しい客人だな、体調の方はもう大丈夫か?」
フードで顔が隠れているとはいえ、声質からある程度若い女の人であるという事は解った。
「まったく、前もそうだがお前は少し無茶が過ぎるぞクオンジ」
盛大なため息をつきながら、目の前の人物は俺の肩を叩く。
「……おかげさまで」
ありきたりな答えを返し、考える。やけにフレンドリーな人だな、もしかして知り合いか? そう思った俺は前に何処かで会った人か思い出そうとしたが、まったく思い出せない。
「……あぁ、すまない。君は私とこうして面と向かって話すのは初めてだったな、私はエルリレット。君の事は色々と知っている」
エルリレットさんはそう言って右手を差し出してきた。白く細い綺麗な手だ。
「そ、それはどうも……」
「そう警戒してくれるな。それにしても薄情な奴だな、君は。前の騒動の時に声を掛けた事があるというのに」
エルリレットさんはそう言って首を竦める。話を聞く限り、エルリオットさんは前回の騒動のとき、倒したスライムみたいなのを回収していった魔族の一団の一人だったようだ。
確かにその内の何人かに声を掛けられた経験はある。その何人かの一人がエルリオットさんだったとして、全員顔を見せないフード姿でどう個人を判別し、覚えろというのだろうか。
「さて、この話はここまでだ。君がこんな所まで来たことからおおよその検討はつくが、何か用件があるのかな?」
まだ一言も言葉を口にしていないのに、すごく喉が渇く。唾を飲み込んで喉を少しでも潤そうとしたが、余計に喉の調子が悪くなったような気がする。
「依本さん達、まだ此処にいるんですよね?」
「エモト……? あぁ、彼女達の事か。あぁ、向こうの準備が手間取っているらしく、準備が整うまで此処で大人しくしてもらうことになっている。最低でも昼過ぎ辺りにはなんとかなるだろう」
意を決して口を開くと、エルリレットさんは少し間を置いて質問に答えた。エモトという名前がなかなか依本さんに結びつかなかったようだ。
「無理を承知で言います。今日一日、一日だけ依本さん達を自由にしてはもらえないでしょうか?」
「……」
エルリレットさんは顔の角度を少し下げ、黙り込む。反応を見ただけで解る。かなり分の悪い頼み事ってのは理解しているけど、それでも無理を通してこの願いは聞いてもらわなければならない。
「……今日は文化祭の最後の日です。依本さんはクラスメイトとしてその準備をやってきました。『文化祭がとても楽しみだ』とも言っていました。恐らくというか、百パーセントそちらの世界に戻ったら二度とこっちに戻って来ることが無いこともわかります、だからこそ、本当に最後になる文化祭を依本さんにも参加してもらいたいんです。だから、今日一日だけでも依本さん達を自由にしてください!」
依本さんが元の世界に戻されるとフーコメリアから聞かされて、寂しくなる、もっとこっちに居て欲しいとは思ったが、それが到底無理な事であるのは解る。
フーコメリアやレンがこっちの世界にずっと居られる事が『特別』であって、『普通』であれば今回のようにあっちの世界に戻されるのが当然である。それが解らないほど俺は子供じゃない。だけれども俺は解ってはいるが、納得できるほどに大人じゃない。
依本さん達がずっとこっちの世界に居る事は無理な事ならば、せめて何か一つでも多くこっちでの楽しい思い出を作って欲しい。そう思った俺はこんな朝っぱらからこんな無茶苦茶なことを頼みに来てしまったというわけだ。自分でも本当に馬鹿げた事をしてるとは思うけれども。
「くくっ、あっはっはっは!」
それまでずっと黙っていたエルリレットさんがお腹を抱え、笑い始める。
「いや、こちらとしても君が彼女達の為にここに来るんじゃないかとは考えていた。そして精々、話をさせてくれと言ってくるだろうとは予想していたが、まさかその更に上の事を言ってくるなんてな。きっと君はその願いが叶うまで粘り続けるのだろう。こちらも君には大きな借りがあるし、私がなんとかしよう」
「へっ……?」
あまりにも話が旨く転がりすぎて驚きを隠せない。そんな俺の様子を見てか、エルリレットさんは笑いながら俺の肩を叩く。
「何を驚いた顔をしている、お前の願う形になったんだぞ。私だってそこそこ我侭を言える立場なんだ、お前の願いを叶える位容易いものだ。私の言葉が信用できないというならそうだな、誓いにこれを渡しておこう」
エルリレットさんは胸元からペンダントを取り出して俺に投げ渡してくる。危うく取りこぼしそうになったが、なんとか落とさずにキャッチ。
渡されたペンダントはお世辞にも高価そうなものには思えなかったが、ペンダントに刻まれた細かい傷などがとても長い時間エルリレットさんがペンダントを大事にしていたか解る。
「見ただけで大事なものだって解ります、こんな大切なもの預かれませんよ」
「いや、これが証となる、それは君の願いが叶ったときに返してくれ。ちなみにそれは私の大切な友から貰ったものだ。そして形見でである。私としてもそれを無くすのは非常に辛い。だからこそ君の願いを必ず叶えよう」
「えっ、かた、形見? そんなに大切な物なら投げ渡さないでください!」
形見と聞いてよりこのペンダントの重量が増した気がする。
「おっと、そう長くお前の相手をしている時間はない。そいつの為にも私は交渉をしなければならない。それとそれは無くすなよ、君の願いが叶い、私のそれをお前が無くしていたときは……」
「ホントそんなに大事なら持っていて貰ってもかまいませんから、言葉だけで十分です!」
「いや、それでは信用に値しない!」
めんどくせぇ。超めんどくせぇ。
その後何度か同じようなやり取りをしたが、結局エルリレットさんにペンダントを渡されることになった。個人的には取り扱いたくない爆弾を渡された気分だ。
小銭入れの中身を全部鞄のポケットにぶちまけ、爆弾をその中に入れた。そして鞄のファスナー付きのポケットに封印し、学校に向かうことにした。
交渉に長期戦になるかと制服を着ていたのだが、交渉の驚くほどスピード成立に時間を持て余している。早めに家を出たなんてレベルの時間じゃない。あまり早く着いても暇だ、少しコンビニで立ち読みをして時間を潰そう。
発売したばかりの漫画雑誌を読んでいると時間を忘れてしまい、余裕があったはずの時間が無くなった。まさか早く家を出て遅刻しないように走るハメになるとは。
コンビニから全力疾走。息を切らしてとてもカラフルに彩られた校門を潜る。押していた時間をなんとか余裕のある時間に戻すことが出来たみたいだ。
「すげぇ、お祭りみたいだ」
我ながらなんと言う間抜けな台詞だろうか。文化祭だ。文化『祭』。祭りであっている。
校門から見ただけでも校舎の至るところが綺麗に飾られてあり、興味を引く看板も多い。こんな沢山の興味を引くもの、今日一日だけで回れるだろうか? 寝ていた二日間が悔やまれる。
下駄箱のある昇降口は外側は綺麗に飾られているが、大きな引き戸の扉の向こうはほとんどいつもと変わらない。それもそうか、一般客の校舎の入り口は此処じゃないし、流石にこのちょっと臭いのキツイ場所を一般開放って訳にもいかないか。
とてもフローラルな香りが漂うので息を止め、手早く中履き用のシューズに履き替え教室へと向かう。校舎の壁はいつもと変わらない。教室のある本校舎へと一般立ち入りは認められていないので、案内のポスターなどで飾る必要がないからだ。もし、此処も一般開放されるのであればこのヒビやシミの広がった壁も随分と色鮮やかになっていた事だろう。
スイスイっと廊下で雑談する集団の脇をすり抜け、教室に入る。
「はよーさん」
朝の挨拶は気分次第。今日の気分はそれだったわけだが、クラスメイトの視線が一度集まりみんなの動きが止まる。
「……」
俺は思わず扉を閉めた。
周りの反応が無さ過ぎる。おかしい、もう少し何か反応があっても良さそうなのに。例えば二日間も休んでいたんだ、馬場辺りは笑いながらサボり魔なんて言って来そうな雰囲気なのに。馬場は一度こちらを向いて、何事も無かったかのように他の奴らと会話を再会したぞ。
「ごめーん、ちょっとそこ、いいかな」
「あ、悪い」
友井さんが俺の後ろに立っていた。教室の入り口を塞いでしまっていたようで、俺が半歩右にずれると脇をするりと通って教室に入っていってしまった。
「……」
教室に入った友井さんは俺の席にたむろって居る奴らに声を掛け、自分の席に戻った。友井さんに声を掛けられた一人が立ち上がりこちらに向かってくる。なんか入るタイミングを失ってしまった俺としてはありがたいお出迎えだ。
「……誰か用?」
「えっ、俺、久遠寺……」
「あー、アイツまだ来てないんだわ」
えっ、まさか、俺、別人と思われてる?
「ッ~~~~!! やめろよ、腹、腹痛い……」
「めっ、眼鏡を取れば実は美人じゃなく、前髪切ったら別人扱いってッ!」
俺の机の周りには過呼吸で死に掛けている奴らがいっぱい。
別人扱いされて戸惑っている時に、準備を終えて戻ってきた委員長が驚いた様子で俺の名前を呼んでくれた為になんとか俺が髪を切った久遠寺久喜だということが証明された。
「いやー、まさかサボっていた久遠寺がこんな頭で来るなんて誰もわからねーよ」
馬場が俺の額を執拗に叩いてくるのでその手を振り払う。
「でも本当に別人だね」
友井さんや安達さんまでそんな事を言って俺をからかってくる。
「もうやだ、俺帰る!」
「まぁまぁ、久遠寺のダンナ、わたしの意見としては前の髪型よりそっちの方がいい感じですぜ」
「ヘッヘ、あっしもそう思いますぜ」
「安達さんも友井さんもなにキャラさ……」
久遠寺キングダムのメンバーやら近堂さん達に髪のことで弄られて居たのだが、その拷問のような時間は当日組が準備の為に教室を出て行った事で終わりを告げた。
教室に残ったのは準備組の面々。あと三十分もすれば文化祭最終日が始まるというのに、他のやつらのテンションは低い。
「どうしたんだよ、文化祭最終日だろ?」
「久遠寺は二日間居なかったから見て回るものが多くていいだろうけど、俺達なんか昨日の昼ぐらいからずっと暇してるんだぜ?」
馬場は主の居なくなった机の上に座り、身体を左右に揺すっている。暇なのはわかったがそれはやめた方がいいぞ、馬場。机の脚が可愛そうなぐらい軋んだ音を立てているだろ。
「出し物上だと一日や二日で見て回れるのかって思うけど、これやこれとかこれは上映時間っつうか、始まる時間が決まってる」
岸枝はそういって案内のパンフレットに書かれている各出し物の欄を指で弾いていく。
「時間になったらこれを見るとして、その時間まではここやそこ、こっちなんかで人入りの少ない場所や、この先混雑しそうな場所を回るとだ……」
まるで遊園地でのアトラクションに乗る順番を決めるように、効率的に回る場所を指していくと、残ったのは飲食系が数種類。
「……確かに似たような飲食系ばかりだし、そんなに沢山食えないよな……」
「そそ、そんな感じで俺らはコーリツ的に回りすぎて暇すぎるんだよ。今日なんて午後から始まるコレとテキトーに何か食うぐらいしか予定ねーしな」
「まぁ、今日はクッキーが居るし、もう一度効率的に文化祭を回るのも良いよな」
岸枝はそう言って立ち上がると俺に文化祭のパンフレットを投げ渡してきた。どうやら気になる場所を選べというわけか。
恐らく表紙は美術部か漫画研が作成したであろう、とても上手い絵が描かれてある。表紙を開くと手書きの教室案内が書かれている。
俺達のクラスの出し物の場所なんて案内を見なくともすぐ解るって言うのに、なぜか案内の中から場所を探してしまう。漫画家が自分の書いた漫画がきちんと雑誌に掲載されているかチェックしているみたいだと、一人笑いを堪えた。
「これで心配事の一つが片付いたわけだけど、もう一つの方の心配事はどうなるかねぇ……?」
元々細い目を更に細め、首を傾げる安達さんに問い返すと俺の方を指差した。
「心配事その一はクッキー、君の事です。あんなに頑張って準備して、いざ明日が本番って時に高熱を出して寝込んだ君ですよ」
そういえばフーコメリア達が俺が倒れた後、フォローしたというような事を言っていたな。そうか、俺は熱で倒れた設定ね、了解。
「ってかさ、久遠寺、長かった髪を切ったからカゼ引いたんじゃね? 頭から冷えたんだろ」
「馬場、それはない。で、もう一つの心配事の方は?」
きっぱりと馬場に言い放つと、安達さんにもう一つの心配事を聞く。
「あー、あと依本さんなんだけど、こっちも昨日、一昨日と休みなんだよ。ほら、この前引越しがどうとか言ってたじゃない? たぶんその関係じゃないかなって思う。依本さんも文化祭楽しみにしていたし」
「……あ、あぁー。依本さんがねぇ……」
俺としては依本さんが学校に来ない、いや来れない理由を知っていたので、安達さんからその事を聞かされても驚きは少ない。
「その反応、桜花そっくり。桜花もそうだけど、クッキーも実は依本さんから何か聞かされているんじゃない?」
委員長も依本さんが学校に来れない理由を知っていて、似たような会話の流れになり、上手く誤魔化すことが出来なかったようだ。委員長こういうの苦手そうだもんなぁ。
「いや、知らないって。あ、案外俺と同じで文化祭を楽しみにしすぎて熱を出してしまったっていう理由とかじゃないかなぁ」
「えぇー、クッキーじゃあるまいし、それはないんじゃない?」
「いや、多分俺はそうだと思うね、案外依本さんは遠足の前日とかに張り切って、翌日の準備とかを完璧にするタイプだと俺は思う。遠足のしおり取り出して、タオル良し、シート良しとか指差し確認したりして」
俺が開いてる机に向けて指差呼称を行う。流石に指差呼称はしないだろうけど、多分前日にしっかりと準備を終わらせるのは合ってると思う。
「あっ、なんとなくわか……らないな」
「うそだろ、岸枝。あの依本さんが遠足とかの朝に、あれがない、コレがないってバタバタ家の中を走り回るタイプだと思うか? きっといつもより十五分早く家を出るって、絶対! 口じゃ遠足なんてかったりーぜなんて言っていても内心ワクワクしているタイプだよ、依本さんは」
「あー……」
岸枝が俺に向けて非常に残念だといわんばかりの視線を向けて来る。俺がその視線の意味を知ったとき、もう手遅れだった。
「ほっほーう、なんかとぉーっても楽しそうな話をしてるなぁ、クオンジぃ」
がっしりと肩を掴まれ、恐る恐る振り向くと、頬をヒクヒクさせた依本さんがそこに居た。
「あーあ、あいつら可哀想に……」
そうつぶやいて、依本さんは本当にそう思っているのかと疑いたくなるような笑顔を浮かべている。
依本さんが来たことではしゃいでいた久遠寺キングダムのメンバーは今、此処には居ない。
どうも店の売り上げは絶好調で、売り上げ面で表彰を受けることが出来るかも知れないらしく、どうせやるなら何か結果を残そうと熱血した実行委員両名と近堂さん達の手によって連れて行かれてしまった。今頃きっとビラ配りなどをさせられているのだろう。
俺と依本さんは、見逃してもらい、二人で文化祭を見て回ることになった。個人的にも依本さんとはしっかりと話しておきたかったし、好都合だ。
「俺を見間違えたバチだな。前長流久美髪大明神を」
「さっすが大明神、すげぇな」
依本さんと二人、噴出すように笑い、お互いの肩を叩き合う。
「それにしても久遠寺、本当に今回は済まなかった」
依本さんは表情を引き締め、俺の目を真っ直ぐ見つめ、頭を下げた。
「いいって、気にしてない。それに依本さん達も利用されていたんだろ?」
「……それは、そうだとしても!」
「難しい話はあっちの人らがなんとかしてくれるだろうし、今、俺に出来る事は一つ」
俺は依本さんの手を取った。
「全力で文化祭を楽しむ事さぁッ!」
「ちょ、クオンジ!」
きっと今日で依本さんと話す事はおろか、会う事さえもないだろう。だからこそ、少しでも多く、依本さんにはこっちでの楽しい出来事を覚えておいて欲しい。
「さてさて、やって来ましたは敷地外れのプールでございます」
依本さんを引き連れやって来たのは、東小松高校文化祭でも恒例となっている出し物の一つ、水泳部のラーメン屋だ。
「プールって、そういえばプールを使えば何かしら面白い出し物が出来るよなぁ」
「そうそう、毎年恒例なんだよ、水泳部の出し物は」
「へぇ、毎年やっているならかなり安心できそうなクオリティだよな」
依本さんと一緒にプール前のコンクリートを進み、目的の場所に到着した。
「おい、クオンジ、これって……」
「あぁ、毎年恒例、水泳部によるラーメン屋だ」
「なんでだよ! 普通ならプールの水を使って何かできるだろ!」
俺は依本さんの耳の近くに顔を寄せる。
「……だから、使ってるんだよ、プールの水を」
「使ってるって……まさか?」
依本さんははっとして先ほど水泳部員から買った発泡スチロール製の器の中身を見る。
「……んなわけあるか、馬鹿らし」
ずずっとラーメンを啜る依本さん。俺も伸びない内に食べる事にした。
「普通に旨かったな、ラーメン」
「でしょう? そりゃ水泳部員達のエキスがいっぱい出たプールの水を……」
「それはもういいって」
「ありゃ、そうですか。ちなみにあれは数種類のインスタント麺のスープを混ぜただけの奴らしいんだけどさ、その分量は水泳部だけの秘密で、他のやつらが聞いても、さっきみたいに誤魔化されるらしい。通称ダシ汁ラーメンって言うんだ」
「へぇ、そうなんだな」
その後、俺達は剣道部が竹刀で肉を叩いて作る、手打ちチキンカツと、陸上部に伝わる伝説のドーピングドリンクと呼ばれるスポーツドリンクを飲んだ。
俺の説明に依本さんは時に驚き、時に突っ込みを入れながら、楽しんだ。
「……なんで最後お姫様とお妃様がバトルするんだよ」
「ほら、最近の映画もたくさんそういうのあるし」
演劇部による演劇も見たりして文化祭を楽しんでいると、昼を少し回った所だった。
「ついでだし、クラスの方も見て回るか? せっかく連日苦労して完成させたんだ、一度は『お客』として冷や……様子を見に行かなければならねーよな!」
「オーケいざいざ参ろうか」
依本さんに誘われ、クラスのお店へと足を運ぶと、驚くべき光景が広がっていた。
「うそお!」
お持ち帰りが出来るという事をセールスポイントにしようと、テイクアウト用の注文口には長蛇の列が出来ていた。途中で指差し数えていると数え間違いをしてしまいそうになるほどには人が並んでいる。
ファーストフードのドライブスルーを真似しただけだが、割と効果はあったみたいだ。
それだけじゃない、委員長達が試行錯誤し簡単だけども美味しい商品を作った事や、きっと今もどこかでビラ配りなどをしている久遠寺キングダムのメンバーの頑張りの一つ一つがこうしてしっかりとした形になっているんだろう。そう思うと大変で面倒くさい事もあったが、こうしてやり遂げることが出来て本当に良かった。
「こりゃすげえや」
並んでいる人を追い越しながら教室の中へと入った。教室の中は空いていて直ぐに案内担当のクラスメイトから俺と依本さんは席へと案内された。
周りをキョロキョロと見回している頃に、水とメニューを持った短気さんがこちらの机へとやってきた。
「やっほー、依本さん。見慣れない男の人と一緒だからもしかして彼氏じゃないかって一瞬盛り上がったけど、よく見たら久遠寺だったって、オチね。久遠寺死ね!」
「ちょっと、フロアチーフは誰!? 今さらっとウエイトレスには似合わない暴言吐かれたんだけど!?」
「他のお客様のご迷惑になりまーす。忙しいから久遠寺、手伝えコラ!」
「教育、教育がなっちゃないよ!?」
そんな会話を短気さんとやっていると、丁度お客が俺と依本さんだけになっていた。
「ほら、暴言ばかり吐くウエイトレスさんに絶望してお客さん出て行ったじゃないか」
「いやいや、リア充臭漂わせている奴が来たからに決まってる、というわけで久遠寺、手伝えや」
どうしても俺を仲間に加えたいらしいのか、短気さんは強引に俺を厨房へと引っ張っていった。
「うわぁ、修羅場だねぇ」
短気さんに連れてこられた厨房では忙しそうに近堂さんや委員長、友井さんらが動き回っていた。
「あっちの方は楽なもんだけど、こっちがね」
あっちと教室を指差し、次にテイクアウト注文口を指差して短気さんは言う。
「接客に問題があるからだと思いまーす!」
「この完璧な接客のどこが問題なんだろうね、久遠寺くぅん」
「笑顔、笑顔が怖いッ!」
短気さんに笑顔で凄まれ、俺は視線を逸らす。
「おっ、この声は久遠寺のアニキじゃないですかい。どうです、今ならこんなにもフルーツを切り刻めますぜ!」
「あー、別にぼかぁ、物を切って快感を覚えたりしないんでいいです」
俺の存在に気が付いた友井さんが苺を半分に切る作業を止め、俺を手招きするが、その誘いには乗らない。絶対にある程度フルーツカットを終わらせなければ開放されないだろう。
「それにしても人少なくない?」
記憶によればもう少し当日、お店をやる人が居たと記憶している。
「えーっと、一人二人と作業に不慣れな調理班の人が呼び込みやら宣伝に移っていって、気が付いたらこの状況よ」
エプロン姿の委員長がクリームをかき混ぜながら言う。作業台の高さが合っていないのか、時折首や肩を動かしている。
「それにしても大変そうだな」
店のほうで他の人と話していた依本さんも厨房に顔を出した。
「そうなんですぜ、依本のアネキ、どうです、今ならこんなにもフルーツを切り刻めますぜ!」
「はっはっは、アタシじゃ邪魔するだけだって。邪魔しちゃ悪いから店のほうでこの店内限定メニューでも食べてるよ」
「あ、じゃあ俺こっちの奴」
依本さんがメニューを片手に注文を入れたので、俺もついでに注文をした。
『おっ、鬼ぃぃぃ!』
店の売り上げに少しだけ貢献した俺と依本さんは嬉しい悲鳴を聞きながら、厨房から離れた。
「もーだめ、もう働きたくない」
「指先から果物の匂いがずっとしている感じだよぅ」
「ビニール袋を開き続けて人差し指と親指が痛い……」
死屍累々と言うべきか、全ての材料を使いきり、商売が出来なくなった店の机にはグロッキー状態で机に突っ伏す調理班の皆さん。お疲れ様です。
文化祭終了までまだ少し時間が残っているが、売るものがなければどうしようもない。我がクラスのお店は満員御礼、売り切れにより店じまい。後は終了時間までこうして時間を潰すしかない。
当日組のクラスメイト達も携帯などを弄くりそれぞれが時間を潰している。
「委員長達もお疲れさん」
「ありがと」
「あの三人組、結局最後まで雲隠れしやがって、覚えてろよ」
疲れ果てた様子で手を上げる委員長と、怒りを露にしている短気さん。そう言えば言われて気が付いた。あの三人組見てないや。
「まぁ、居ない方が助かったよ、正直あの状況であの三人の相手をしている暇なんてなかったし」
近堂さんが今しがた買ってきた缶ジュースを飲みながら口を開くと、他のメンバー達も同感といった様子で首を縦に振っている。
「あれ、そういや馬場を見てねーけど……」
依本さんが辺りを見回しながら馬場の姿を探していると、岸枝が口を開いた。
「あぁ、馬場なら高坂や井上らと一緒に居たぞ、多分教室か食堂に居るんじゃないか?」
「なるほどね」
「そういえば、みんな、記念写真撮ろうよ!」
グロッキーだった友井さんがスマホを片手に立ち上がった。友井さんの提案はその場に居た過半数の人間に受け入れられ、いろんなスマホからひっきりなしにシャッター音が鳴り始めた。
江戸時代の人間ならば発狂してしまうほどカメラに魂を吸われ、疲れ果てた俺はこっそりと撮影会場から抜け出し、廊下の窓からにぎやかな中庭を眺めていると誰かに肩を突かれた。
「よ、クオンジ。ちょっといいか?」
「依本さんか。いいけど?」
振り返ると依本さんが居た。依本さんは親指を立て、後ろを二度指し歩き出す。依本さんの進む先には上に行く階段か、下に降りる階段がある。取り合えず場所を移すという事だろう。
「写真はもういいのか?」
「もうお腹一杯だ。久遠寺もそうだったんだろ? それにな……」
依本さんは何かを言いかけ、階段を一段飛ばしで上りはじめる。後を追うように俺も一段飛ばしで階段を上った。
三階、四階と階段を登り、校舎屋上入り口まで登ってきた。確かこっちの校舎の屋上は施錠されており、鍵がないと開かなかったはずだ。
「あ、ここの扉、鍵がないと……」
「鍵がないと?」
依本さんはニヤリと笑い、ドアノブを回す。鍵が掛かっているはずの扉が何故か開く。
「残念、扉を開けるのは鍵がなくても可能なんだよ」
扉の向こう、屋上にはエルリレットさんと、そして街で何度か会ったあの特徴的なしゃべり方のお姉さんが居た。
「魔法ずるくね?」
「まあ、そう言うな。おかげでこうして人目を気にすることなく話す事が出来るだろう?」
「それはそうですけどね。はい、エルリレットさん……これ」
無理矢理渡された爆弾をエルリレットさんの手の平に確実に乗せる。
「確かに返してもらったよ。そしてすまないが時間だ。彼女達を向こうの世界に連れて行かなければならない」
エルリレットさんは申し訳なさそうに俺から視線を逸らした。
「そんなっ、もう少……」
エルリレットさんにもう少しだけ時間を延ばしてくれる様に頼もうと口を開きかけたとき、依本さんがそれを遮った。
「いいんだ久遠寺。今だって相当無茶してくれているんだ。これ以上は流石にな……」
依本さんに言われ、俺は喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
「さて、時間だが、あともう少し、せめて別れの言葉を交わすぐらいの時間何とかしよう。そしてそこの扉の向こうで待っている。私が居ては話せない事もあるだろう」
エルリレットさんはペンダントを首に付けつつ、俺の脇をすり抜け、校舎へ入る扉を潜った。
扉の閉まる音のした後に、お姉さんが口を開いた。
「今回は色々と迷惑をかけてごめんねぇ~。謝っても許してもらえるかわからないけど」
「いえ、気にしていませんから」
「そっかぁ~、それでも……ううん、やっぱ良いや」
お姉さんはぐっと俺の顔を柔らかい手で挟み、顔を近づけてきた。
「う? えっ!?」
「ちょ、リオ姉!?」
「うんうん、君が噂の『クオンジ君』かぁ~。エリちゃんの話によく出てくる男の子、気になって……どこかで見たことあるような顔だと思えば、何度か合ったことのある……えらい子君だぁ」
「ははは……」
あまりのマイペースさに俺は笑うしかない。
「そうだ、この前の約束ぅ。わたしの名前はリオ。君の名前は?」
「久遠寺久喜」
「そっかぁ、クキ君って言うんだ。うん、これでわたしは心残りはないかな」
リオさんはそういうと俺から離れ、依本さんの背後に回りその背を押した。
「わたしは先に行ってるね、残りの時間は全部エリちゃんにあげるよ」
ウェーブの髪を揺らし、リオさんは校舎の中へと戻っていった。
『……』
急に二人きりにされ、会話の話題を探していると依本さんが口を開いた。
「まったく、リオ姉のやつ」
依本さんは屋上出入り口を見つめ、苦笑いを浮かべた。
「いざこうなってみるとなかなか話す話題なんてないもんだなぁ。今回の一連の話だってアタシ達が知っている事は少なく、殆どが予測でしかない。きっとアタシらより奴らの方が多く知っているだろう」
依本さんは屋上の出入り口の方を指して言う。奴らとはたぶんエルリレットさん達のことだろう。
「あー、そうだ。アタシの心残りとしては一つだけある。委員長や友井に足立、岸枝や馬場、他のクラスメイト達に別れが言えなかった事だな」
にこりと笑うと依本さんは俺の肩を叩いて頷いた。俺が代わりに言えという事だろう。なんともプレッシャーの掛かる仕事を回してくれる。
「アタシは魔族の街からみてずっと西にある精霊族の里で生まれた。そこはもう窮屈な里だったよ。しきたりとか、いろんなものにがんじがらめにされてさ」
依本さんは屋上の手摺りに寄りかかり、空を仰ぎながら口を開いた。俺は依本さんの話に静かに耳を傾ける。
「つまらない毎日――そう思って毎日を過ごしていたんだ。そんなアタシの前に現れたのが、各地を渡り歩いていたリオ姉だった。初めて一緒に魔物退治の仕事をしたときはトロい奴だな、程度にしか思っていなかったんだが、何度か一緒に仕事して、その度にいろんな地域の話を聞いてるうちに、アタシも色んな場所に行ってみたいって思うようになっててさ、気がついたら里を飛び出していたよ」
昔を思い出してか、依本さんは笑いながらしばらく雲の一点を見つめていた。
「まぁ、外に飛び出したのはいいものの、理想と現実は違うよな。自由だって思っていたリオ姉の暮らしも、実際は各地のしきたりなんかに縛られ、アタシの思い描いていたのとは全然違ったよ」
歳の変わらない依本さんだが、俺よりもずっとずっと大人びて見えた。そんな依本さんに俺は声を掛ける言葉が見つからず、依本さんの話に耳を傾けていた。
「リオ姉も元々自由に生きたいってその生活を選んだらしく、やはり悩んでいるみたいだった。そんな時にアタシ達の元にこの話が入ってきたんだ。『こっち』の世界で悪い事を企んでいる奴らを止めろ、ってね」
「最初は疑問も感じたさ。なんでアタシ達みたいな根無し草にそんな話を持ちかけるのかって。でも考えてみればそうだ、アタシ達の常識とはかけ離れた場所に誰が好き好んで行くものか。それに何か不慮の出来事が起こったとして、アタシ達みたいな根無し草なら簡単に切り捨てる事も出来る」
依本さんは少し跳ね、背後の手摺りの上に腰掛けた。屋上からの落下防止の為に設置してある手摺りで高さは俺の胸あたりまである。身体能力の高い精霊族の依本さんだからこそ出来る芸当だ。俺には絶対無理。
「結構悩んだけど、結局はその話にアタシ達は乗ったわけだ」
膝の裏を手摺りに掛け、依本さんは蝙蝠のように手摺りにぶら下がっている。楽しそうにも思えるが、手摺りからずり落ちれば最悪校舎四階から地面に真っ逆さま。見ているこっちの方が怖くなってきた。
「こっちに来てからはずいぶんと戸惑うことばかりだったよ。まるっきり生活のあり方が違うんだからな。しばらくはこっちの生活に溶け込むための勉強、勉強。まぁ、その気になれば何でも出来るって話は本当だったよ。ほんの短期間である程度の知識は叩き込めた。多少リオ姉の魔法には頼ったがな」
トントンと自分の頭を指で叩く依本さん。そんな便利な魔法があるならテストの時に頼りたいものだが、フーコメリアがそういった事に手を貸してくれるとは思えない。
「それからリオ姉はこちらで暮らすための金を得るために働き、アタシはこうして学生として学校に通いながら手掛かりを探す生活をしていたわけだ」
「フーコメリア達を探すっていったって、かなり大変な事だったんじゃ……」
「そうでもないな。魔法っていう存在はこの世界では異質な存在だ。その痕跡を隠そうとしてもそうそう隠しきれるものじゃない。現にアタシが学校に生徒として通うことにしたのも、魔力の痕跡が一番多く残っていた地域だからな」
モロバレじゃなかいか、フーコメリア。
「全部が終わった後、依本さんとえーっと、リオさんはどうするつもりだったんだ?」
「あぁ、それはもちろんこっちでリオ姉と静かに暮らして行こうって思っていたよ。最初は悩んだけどな」
そう言って依本さんはぐっと腹筋をするようにさかさまになっていた上体を起こし、手摺りから跳んだ。
「くだらない毎日って最初は思っていたんだけどな、どこかのお節介屋さんのおかげでずいぶんと毎日が騒がしくなったよ」
依本さんは俺の胸を軽く叩いた。
「お前には感謝しているよ、クオンジ。アタシを輪の中に引き込んでくれたことも、そして今日こんなに楽しい思い出を作ってくれた事も。お前が居なければアタシは一人だったかもしれない」
「そんな事ないよ。確かに俺はきっかけを作ったかもしれないけど、こっちでたくさん友達が出来たのは、依本さんの人柄だよ」
「……嬉しい事言ってくれるな、クオンジ。そういえば、忘れるところだった」
依本さんがニヤリと口元を緩める。こういった表情は結構見慣れている。委員長に悪戯を思いついた友井さんや安達さんの表情にそっくりだ。
「クオンジとは一つ賭けをしていたよな?」
依本さんに言われて思い出した。リオさんを助けるために精霊剣いや、精霊弓で魔力が集まっている石を砕こうとしていた時、依本さんの緊張を和らげる為に確か賭けをしたんだ。
――もし次ので矢が狙ってる場所に決まったら俺が一つだけ依本さんの願いを聞くよ。外れたら逆な?
命中したかどうかは俺の目では見ていないが、元気なリオさんが居たことから、俺は賭けに負けたんだ。
「……え、エロいのはなしだからねッ!」
「ふふっ、わかってるよ、クオンジ」
俺は依本さんの言うことを一つだけ聞くことにした。どんな願い事を言われるかわからないけど、依本さんのことだ、そう無茶苦茶な事は言ってこないだろう。
「そうだな、場所が悪い、ちょっとこっちに来てくれ」
手を引かれるまま俺は場所を移動する。
六歩ほど移動して屋上の出入り口付近まで移動した。
「そうだな、一つだけゲームをしよう」
依本さんはポケットから五百円玉を取り出し、左手に握った。
「目を瞑って十秒数えてくれ。その間にアタシはこのコインを左右どちらかの手に握る。そしてクオンジは右手と左手、どちらにコインがあるか当てる単純なゲームだ」
「わ、わかった」
思いもよらぬ提案に面食らいながらも頷く。
「そうだな、もし、アタシが買ったら一つ、お前から記念品をもらう。クオンジが買ったら記念品をやるよ」
「よし、オーケー。東小松市一のメンタリストと呼ばれた俺の力を見せてやる」
「そうかい、じゃあメンタリストさんの実力を見せてもらおうかね。じゃあアタシが1から5まで数える。6から10までクオンジが数えてくれよ」
「了解!」
ぎゅっと目を瞑り、少しでも依本さんの気配を感じるべく、神経を研ぎ澄ませる。
「いーーち、にーーぃ……」
ゆっくりとしたペースで依本さんは数を数える。その間に俺は頭の中で依本さんはどちらに五百円玉を握るか考え始めていた。
「さぁーーん、しーーぃ……」
右だ、右に依本さんは五百円玉を隠す。東小松市一のメンタリストの感がそう告げている。
「ごーーーぉ……」
おっと、次は俺が数える番だ。あと五秒後、きっちりと決めてやるよ、依本さん。
「ろーーッ!?」
ろく、そう数えようとした俺の唇に何かが触れた。やわらかく、少し湿った感じの何かが。
驚いて目を見開くと、かなり近い位置に依本さんの顔が。
「悪いな、クオンジこのゲームはアタシのイカサマ勝ちな」
クルリと俺に背を向け、依本さんは逃げるように屋上の扉を潜った。
ワンテンポおいて、俺が依本さんを追って屋上の扉を潜った時、そこには誰も居なかった。
「ぬあーーーーッ!」
「絶命だな、クッキー」
「あぁ、偉大な父を失ったよ、岸枝」
「マジか、クッキーはこれから補修という奴隷生活を送ることになるんだな」
「それは微妙ー。多少はテスト範囲のプリントの内容は記憶してるし」
学生で好きな奴は居ないと思われる期末テストというボス戦当日一夜漬けという修行を終え、背伸びをしていた俺の肩を岸枝が叩いた。
これからボス戦なのだが、たぶんまったく歯が立たないということはないと思う。優秀な家庭教師のお力添えのおかげだ。
「へっへっへ、久遠寺と岸枝の兄貴、今日はテストが終わったらすべてを忘れるためにパァーっとみんなでお昼食べに行きましょうぜ」
「いいけど、まだその謎キャラブームなの、友井さん」
俺と岸枝の元に寄って来た友井さん、少し離れた場所で委員長と安達さんがこちらに手を振っている。みんなというのはこの二人の事だろう。
「なになに、飯行くの? じゃあ俺も」
一番ボスとの戦いに不安の残る馬場も加わる。いつもどおりの光景だ。
「あれ、予想より馬場っちが元気。自信あるの、テスト?」
「モチのロン! 俺式一夜干しにて鍛えた刀でやってくれる!」
「ほっほーう、じゃあ馬場っちの結果に期待だね」
そんな会話にボスとの戦闘の準備万端、余裕シャキシャキの委員長や安達さんも加わって、最後の悪あがきを始める。
「しかし文化祭の片付けが終わってすぐにテスト、息つく暇もないよね」
「まぁまぁ、これが終わったら冬休みじゃない」
「そーそ、冬休みだけが俺の生きる希望だ」
「はぁ、それにしても依本さんの転校、急だったよね。まぁお家の事情なのはしょうがないけど」
ふと、友井さんが主の居なくなった依本さんの席をみて呟く。
担任からは依本さんが転校したという話は出ていないが、クラスメイトには周知の事実。恐らくテストが終わってから連絡されるだろう。
「そういえばさ、これ内緒話なんだけど、普通リーダーと普通さん、文化祭後から付き合ってるって噂なのよ」
どこで入手してきた話なのか、馬場が小声でそう言うと、友井さんや安達さん、委員長のテンションが上がる。
「嘘、やっぱり? 最近仲が良いなって思ってたんだ!」
「ほら、前に私が二人で出掛けてたって話も正解じゃない!」
そんな話で盛り上がる四人を尻目に、俺と岸枝は苦笑いを浮かべる。
俺や岸枝は文化祭の時に普通リーダーや普通さんらと作業をする機会も多く、二人の雰囲気から近いうちに、と予想していたのでそう驚きも少ない。
「おいおい、なにやら楽しそうな話をしてるじゃねーか。何事だ?」
「聞いてよ依本さん、そこの普通リーダーと普通さん、付き合い始めたって噂なのよ」
「へぇー。こりゃ意外。いや、そうでもねーな。お互いにお似合いじゃねーか。まぁあまりからかってやるなよ。クオンジや委員長と違ってそういう耐性なさそうだしな」
俺達の時間が止まる。
『え、依本さん、何で!?』
「なんでも何も、引越しの片付けがひと段落着いたから登校してきたんじゃねーか」
あっけらかんと答える依本さんに友井さんが食いつく。
「え、でも遠くに引越しって……」
「当初の予定はな。まーでもこっちの方で色々予定が変わって、住む場所が変わっただけだな」
「なによそれ、もう……人と騒がせなぁ……」
「悪いって、こっちも色々ゴタゴタしてて教えられなかったんだよ」
引っ越してもう会えないと思っていた人物の登場に教室内はざわめいている。これではテスト勉強どころじゃなさそうだ。
「まっ、そーゆーわけだから、これからまたよろしくな、クオンジ!」
依本さんはそう言って俺の肩を叩いた。
状況が飲み込めない俺はただただ頷くだけだった。
「なんだよクオンジ、暗い顔して、折角イメージチェンジしたのに台無しだぞ」
そう言って笑う依本さんの顔を見ていたらどうでもよくなってきた。
今はそれだけで十分だ。
結構時間が空いちゃいましたが、東小松市一の〇〇〇! 2 無事終了です。
色々と配分を間違え、最後の方が長くなってしまいました。
今回の騒動、結局詳しい事は解決せずに終わっています。1・2共にフーコメリア達の世界の事にはあまり触れていません。その辺りは本当に最後になる予定の3で触れていく予定です。
ある程度書き溜めてから3を投稿しますのでまた少しお待ちください。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




