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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第二章 花嫁がやって来た
9/71

9 キスのうちに入らない

「はずれ、ね」

 風に乗って微かな呟きが耳に届く。

 あたしは誰がその言葉を呟いたのか分からなかった。きょろきょろと辺りを見回すけど、言葉を話すことが出来そうなものは目の前の女性だけだった。

 暗い廊下には四人の人影。所々、窓から差し込む光が斜めに線を描いている。その中で小さな埃が時々きらきらと光っていた。

 後ろでは王とリュシアンが立ち止まって話し込んでいる。その声は猫の耳でも拾えないくらい小さい。

「何かおっしゃいました? ――はずれ、とか?」

 あたしが尋ねると、ローズ姫はにっこりと笑う。くやしいけど、ふんわりと暖かくって、本当に素敵な笑顔だった。

「あら? 聞こえてしまったの。独り言でしたのよ? ふふ、――随分町外れなのね、このお城は」

「ええ……そうですね」

 なあんだ、お城のことね。たしかにこの辺は王宮と比べたら随分田舎だものね。お店なんか一軒も無いし、城から見えるのは畑だけで、観光できる場所も無い。

 姫はくすりと笑うと、あたしに向き合った。かと思うと、「ええと」と少し言いよどんだ後、慎重に尋ねる。

「ところで、あなたって、侯爵殿の……恋人なのかしら?」

「恋人?」

 そうだったらどれだけいいかしら。でも……あれ?

 恋人という言葉に、空色のリボンが瞼の裏に突然浮かび上がった。

 そういえば……リュシアンって恋人がいるんじゃなかったかしら? デートだってしないし、文通だってしないし。あまりにもそんなそぶりが無かったからすっかり抜け落ちてたけれど。

 思い出したとたん、沸々と怒りが湧いてくる。

 なによ、リュシアンったら! 恋人よりお金を取るっていうワケ? これは、後できちんと問いつめないと!

 あたしはその子の代わりに力一杯宣言する。

「あたし、いえ、ワタクシは違いますけれど、主人には恋人がおられるようですよ」

 妨害しようって言ってるんじゃないわよ? だってその子が可哀想でしょ?

「あら……そうなの」

 あたしの返事に姫は拍子抜けしたようだった。でもローズ姫の表情は少しも変わらず柔らかいままで、あたしは意外だった。

「?」

 あれ? 悔しかったり、悲しかったりしないの? 結婚しようっていう相手でしょ?

 不思議に思ってじっと見ていると、彼女は少しだけ慌てたように表情を曇らせる。そして言い訳するように言い募った。

「ああ……そのお相手の方には申し訳ないと思いますわ。私のために別れて頂くなんて。でも、私、過去のことは気にしませんのよ。きっと侯爵殿も、これからは私のことだけを愛して下さるでしょうし」

「……?」

 あたしは自分が抱える気持ちと比べてみて、どうしても何か腑に落ちない気分になる。あたし……空色のリボンの女の子のことを知ったとき、すごく落ち込んだのに。

 最初から、そんなものだって割り切ってるのかしら。でも、王様に言われたからって……。

 悶々と考えながら見つめるあたしを気まずそうに見返すと、ローズ姫は手に持ったレースのハンカチでこめかみを押さえる。

「ええと――ところで、あなた。侯爵殿って、いつもどのお部屋でお仕事をしていらっしゃるのかしら? さぞかし立派な書斎をお持ちでしょうね? あとで案内して頂ける?」

「書斎……ですか?」

 なんだか唐突に感じたのは気のせいかしら。それに……書斎? 一番にそこ?

 あの部屋は、人が居ない時はいつも鍵がかけられているのだ。シャルルにきつく言われている。掃除も勝手にはしちゃいけない決まりになっているから、たまの掃除のときは、埃っぽくって大変だった。あたしが鍵のことを言うと、姫は残念そうに眉を下げる。

「そうなの」

「見せてもらえるように頼んでみましょうか?」

「いえ、いいわ。直接お願いしてみるから」

「書斎に何か?」

 気になって尋ねると、ローズ姫は少し首を傾げて、にっこりと笑った。

「私、お仕事ができる男の方に憧れてますのよ。だからお仕事中の侯爵殿を見てみたかっただけですわ。きっと――素敵なんでしょうね」

 そう言うと、姫はあたしの肩越しにリュシアンの方を見つめて、ほうとため息をついた。



 応接間に三人を通してあたしは厨房へとお茶を受け取りにいく。近づくにつれ甘いクリームの香りが漂ってくる。確かジョアンがケーキを焼いているはず。あたしの大好物だけど、今日はとても入りそうにない。心に重しを乗せられているような気分だった。

 なんだか……胡散臭いわよね。やっぱり。理由は分からないけれど、嵐の前に髭がぴりぴりするような、嫌な感じがつきまとう。リュシアンにちゃんと忠告しておかないと。

 聞いてくれるといいけれど……あの顔じゃ。

 あたしはさっき見たリュシアンの真っ赤な顔を思い出して、カッとなる。

 なあに、あのでれでれした顔。たしかにローズ姫、美人だったけど……そうよ、大体リュシアンには恋人がいるんでしょっ?

 でも、その女の子も、お金持ちの美人には敵わないのかしら。いくらずっと傍に居たとしても、こんなに簡単に奪われちゃうのかしら。

 気が付くとあたしは見たことも無いその女の子に自分を重ねていた。

 だって、なんだか悔しかった。――あの様子じゃきっとローズ姫はリュシアンのことそんなに好きじゃない。会ったばかりだからそれは当然かもしれない。でも、勘で分かる。あの人は想いを寄せられることに慣れ過ぎてて、愛されることを当たり前に思い過ぎてて……自分から愛そうとはしないだろう。

 あたしはリュシアンに幸せになって欲しいけど、それは、お金持ちになることだけじゃ駄目だと思う。相手の人にちゃんとリュシアンを好きになってもらわないと。

 だって、そうじゃないとあんまりに悲しい。

 そこまで考えて、ふと気がついた。

「ああ……あたし」

 いくら頑張っても、認められないようだった。

 見たことの無い恋人や、ローズ姫の態度。あたしはそれらを言い訳にこの縁談を無かったことにしてしまいたいみたいだった。どうしてもリュシアンとローズ姫が結婚するのは嫌だった。

「あたし……リュシアンに幸せになってもらいたいのよね?」

 こっそりと呟くと、壁がその声を反射してあたしに問いかける。考えてるうちにあたしは、自分がどうしたいのかまったく分からなくなってしまった。


 *


「ああ、もう!」

 カタカタとワゴンが鳴る。あたしはその上のケーキを見ながらぶつくさと文句を言っていた。

「まったく……ジョアンったら!」

 だってね、あたしの分のケーキがなかったのよ! そりゃね、食べられないってさっきは思ったけど、見たらとってもおいしそうだったんだもの。食べたら少しは元気が出るかもしれないし、元気が出ればいい考えも浮かぶかもしれないじゃない。

 手に持ったトレイの上をじっと見つめる。

 ああ……よだれがでそうだわ。

 真っ白なクリームに包まれた、その黄色いふわふわのスポンジケーキを想像すると、思わずごくりと喉が鳴る。

 その中に包まれた季節の果物が、これまたクリームとよく合って絶品なのよ。今の季節なら林檎? なし? それとも栗? ああ、どれも捨て難い。

 ……食べたい、食べたいわ!

 あたしは必死でその気持ちを抑えながら応接間へとそれを運んだ。


 部屋に入るとパチパチと暖炉の火が音を立てていた。会話はあまり弾んでいないようだ。

 テーブルを囲んで花柄の刺繍の入った布ばりの一人掛けのソファが四つ。その三つに姫を間に挟んで二人の男がしっかりと腰を下ろしていた。

 王がぽつりぽつりと当たり障りない話題をリュシアンに振っている。けれど、リュシアンは王と何かあったのか、目を合わせようとしていない。間には変な空気が漂っていた。

 顔が映るくらいにしっかり磨き上げたテーブルの端にトレイを置くと、名残惜しい気持ちでケーキとお茶を配る。ああ……誰か残してくれないかしら。

「ほう、これは」

「あら、おいしそう」

 王にも姫にも好評だった。それはそうよね、あのシャルルの舌を満足させるくらいのものなんだもの。

 うーん、どうやらおこぼれは期待できないみたい。となると、リュシアンからもらうしかない訳で。

 あたしがじっと見つめると、リュシアンはその視線に気づいたのか、ふいと目をそらす。いつもなら彼が見ていない間にかすめ取るんだけど、今日はさすがにお行儀が悪すぎる。

 リュシアンはフォークを手に取ると、ケーキをゆっくりと口に運んでいく。

「――ああ」

 思わずため息が出て、視線が集まるのを感じ、慌てて口を塞ぐ。リュシアンがさらに一口。ケーキは半分になった。

「アリス……」

 リュシアンの声にはっとすると、目の前にケーキがある。いつの間にか近づいてしまっていたらしい。「今日はだめだよ。あとでもう一回焼いてもらうから」

 小声でそう言われ、仕方なく一歩下がる。

 リュシアンは早くケーキをあたしの目から隠してしまおうと思ったらしい。残りのケーキを急いで口に運ぶ。白いかけらが目の前から消え去った。

 ――ああ。なくなっちゃった。

 名残惜しく皿を見つめていたけれど、ふと目線をあげると、リュシアンの口元にクリームが少しくっついていた。真っ白なクリームが一瞬で目に焼き付いた。

「あ!」

 我慢の限界だった。


 ぺろり


「――――!」

 あたしの目の前でリュシアンが声にならない悲鳴を上げ、ソファから転げ落ちた。

 え?

 リュシアンは真っ赤に熟した果物みたいになって、口を押さえている。

「…………」

 王も姫も唖然とした顔であたしを見ている。

 なに? 何かまずかった? ケーキ食べちゃうよりも?

 助けを求めてリュシアンのポケットを見ると、ボタンの隙間から少しだけ顔を出したシャルルがにやにや笑っていた。

「あ、ああ、あのっ、今のは!」

 リュシアンが思いっきり吃りながら、叫ぶように言う。

 その慌てようにあたしは驚く。何をそんなに慌ててるの? いつものことじゃない?

 猫のときに同じことしても、ザラザラして痛いって言ってたけど、こんな反応はしなかった。人の舌ならなんてことないだろうに。

「……わかっている、彼女は猫だから仕方ないんだ。ローズも分かるな?」

 王が気を取り直したようにうんうんと頷くと、隣の姫にも機嫌を取るように言い聞かせる。

「別に気にしませんわ。猫なんですから。キスのうちにも入らないでしょう」

 姫は気にしないと言いつつも、気分を害したらしい。なぜかあたしをじっと睨んでいる。

 え、キス? って何のこと? 今のがそうなの?


 リュシアンはあたしをきっと睨むと、「ちょっと失礼します!」と王と姫に断って廊下へと出る。

 パタンと扉を閉じると、リュシアンは大きなため息をついて改めてあたしを睨んだ。顔の色は未だに真っ赤だった。

「困るよ、いくら何でもあんなことされたら。そんなに僕とローズ姫のこと妨害したいの?」

「妨害?」

 そんな、こんなに我慢してるっていうのに! 心外だわ!

「どうして? 何がまずかったの? だって、ケーキが食べられなくって、クリームがおいしそうで……我慢できなかったんだもん!」

 あたしがそう言うと、リュシアンは目を丸くして固まり、やがてがっくりと肩を落とした。

「…………こんなことならケーキを譲ればよかった…………」

「アリスったら素敵よぅ。リュシアンったら最高にいい顔してる! こんな顔見れて、私……幸せ」

 シャルルがポケットの中からとろけた顔を出し、片目を瞑り、その尖った歯をきらりと光らせた。

 それにしても――一体なんでリュシアンは怒ってるの? 訳が分からずにいると、シャルルがリュシアンを見上げて言った。

「今更だけど、普通の女の子と同じと思わない方がいいわよ? きっと彼女分かってるつもりで分かってないことが多いんだから」

 リュシアンはむっつりと黙り込むと、あたしをその青い瞳で見つめながら今日一番の大きなため息をついた。


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