12 狂った体内時計
『やっぱり誰も居なかったのか。ドゥには手伝ってもらった? ……ああ、そう。もう使ったんだ。じゃあ本当に居ないんだろうな。うん、今日は護衛はいいよ。僕はオーランシュでトロワと合流するから、ドゥは残っててくれる? うん、ああ、そうだね。念のため、相談しておくかな』
寝惚けた耳に大好きな声が届いた。リュシアンの声? 確かめたいな。でも眠い。瞼が重くてしょうがない。体も重くてたまらない。ベッドに埋まったみたいで起き上がれない。どうして? リュシアンの顔、見たいのに。
なんとかまどろみを振り切ろうとしたけれど、結局は深い眠りに攫われた。浅い眠りと深い眠りの間をうろうろとして気が付いた時には、部屋にはもう誰も居なかった。
「りゅしあん?」
ぼうっとしたまま問うけれど、当然誰も答えてくれなかった。
カーテンは開けられていた。外を見ると赤くて丸い朝日は消えて、もう普通のギラギラした太陽に変わってる。目を刺すような光に視界がちらちらして、窓から目を逸らした。
日差しの強さにすでにお昼が近いのかもしれないと思って、時間を無駄にしたことにため息をつく。
もともと朝は強くないけれど、このところの眠気はどうかと思った。お昼寝もしてるというのに、夜もまだ眠い。体の中の時計が狂ってしまっている感じ。とにかく眠いだけで、体調の悪さは特に無いんだけど――なんだか、まるで呪いにかかってるみたいで、気持ち悪い。
「おかしいわね」
首を傾げつつ、起き抜けに水を飲む。それは日差しで温められて温かったけれど、体に染み渡って少しだけ頭がすっきりした。
「――お嬢様? 起きられましたか? いいお天気ですから、今日は一緒にお洗濯をしましょうね!」
マリーがバタバタと足音を立てて現れる。扉が開くとイーヴがするりと部屋に入ってきた。ベッドに飛び乗ると、あたしの手に顔をすり寄せる。あたしはそれに応えるように黒い頭を撫でた。
「リュシアンは?」
マリーはベッドからシーツを引っこ抜きながら笑顔で言った。
「お仕事ですよ。今日は王都まで行かれるそうです」
「王都?」
「女王様と大事なお話があるそうで」
「ふうん」
シーツを失ったベッドには転がれない。そっとベッドを抜け出すと、床に素足を付けて立ち上がる。床の冷たさが心地よい。室内履きを差し出されるけれど、履いてみると蒸れて気持ちが悪かった。
寝間着もなんだか寝汗で湿っぽい。ああ、早く着替えたい。
「今日、暑いわね」
「そうですかね?」
不思議そうな声にじっと見ると、マリーは厚手の長袖のメイド服を着ていた。冬物だ。見ているだけで暑そうだと思う。こんなにいい陽気なのに、どうしてそんな恰好してるのかしら。
「お召し物はどうなさいます?」
「夏物のワンピースってまだ出てないわよね? あれがいいんだけど」
「夏物ですか? 半袖の?」
マリーは怪訝そうに顔をしかめると、「失礼します」と言って、あたしの額に手を乗せた。
「ああ、なるほど。お熱があるみたいですね」
あ、それで怠いんだ。納得した。この間も熱があるってリュシアンに言われたし……風邪をこじらせちゃったのかしら? あれ? でも風邪って普通寒気がしない?
「今日は大人しく寝ておいて下さいね。お医者様を呼びますから」
「でも、せっかく苗が届いたのに」
注文していた花の苗が昨日届いたのだ。今日はそれを植え込むつもりで居た。今植えたら、夏にきっと綺麗な花が咲く。せっかくのいいお天気だし、出来るうちにやっておきたい。
「大丈夫ですよ、一日置いても枯れませんから。お元気になられてからでいいでしょう。お洗濯も手伝わなくっていいですから」
「う、ん」
でも、何かやっていないと落ち着かないのよね。それに十分眠ったから、なんだかごろごろしてるの勿体ない。お出かけしたいのに――と思った時、あっと思い出した。
窓際の筆記机に近寄ると、引き出しを漁って小さな紙切れを取り出す。
「どうなさったのです?」
「ねえねえ、マリーは教会には行ってるの?」
マリーは目を丸くしたけれど、すぐに答えた。
「安息日にはミサに通ってましたが、ユペールに教会が無いですから、このところはご無沙汰ですねぇ」
「じゃあ、近いうちにあたしと一緒に行きましょ。今度の安息日でもいいし! 連れて行ってくれる?」
マリーの目はまん丸のままだった。彼女は考えあぐねて、結局困ったように提案した。
「さすがに外出は、私の一存じゃ決められないですね。何かあってじゃ遅いでしょう。まず――リュシアン様にお願いされては?」
「でもリュシアン、このごろ安息日もなにもないじゃない。お祈りはずっとしてるみたいだけど、教会に行ってるの見たことないもの」
「確かにそうなんですが。お忙しいのは分かるのですがねぇ……それにしてもどういう風の吹き回しですか」
あたしがペロー神父の事を話すと、マリーは不安そうな顔になった。
「聖シャプドレーヌ教会――ですか」
聞き覚えがあるらしく、マリーは眉を寄せた。
「確か、小さな教会ですね。トゥールの」
マリーの声は、トゥールという地名で少し小さくなった。トゥールはカルバン侯爵の領地。つまり、あたしにとっては危険地域だ。
「うん、でも、外れの方だから、大丈夫かもしれないって。ユペールのすぐ傍だし。地図で見たら近かったの」
それに同じトゥール領内だとしても、バルザックにはもっと大きな教会がある。お城みたいな立派な聖堂があって、貴族はたいていそっちに形だけのお祈りに行くのだ。
あたしはそういうのしか知らなかったから、外れにある地味な教会に余計に興味を持った。そこでどんな話が聞けるのか。この間みたいに、なにか心に響く言葉を聞くことができるんじゃないかって思えた。
「うーん、でもねぇ……。やっぱりリュシアン様にご相談されて下さいよ」
「だって会えないし、待ってたらいつになるか分かんない」
「起きておく事は無理ですか?」
問われて少し考える。でも何となく無理な気がした。
「うーん、努力はしてるの、これでも。でもいつの間にか寝ちゃうんだもん」
「じゃあ、日暮れ前に帰ってきてもらえるように、頼んでおきましょう。ほら収穫が終われば、リュシアン様も少しは時間も取れるはずですしね」
マリーは独断するつもりは無いようだ。その事で、マリーがリュシアンを主人だと思ってるってことが分かる。言葉遣いひとつでも、あたしには丁寧でリュシアンには乱暴。なのに、こんな時はちゃんと判断を仰ぐんだ。それがちょっと嬉しかったので、あたしはしょうがないと素直に頷いた。
「でも、リュシアンに聞いたら駄目って言いそうよね。なんたって一応トゥールだし」
マリーの言いつけ通りにベッドの上でゴロゴロしながら、あたしはひとりごちる。
この半年、リュシアンはあたしの外出をほとんど許してくれなかった。もちろん、彼と一緒にオーランシュにとかいう簡単なお出かけはあったけれど、一人で気ままに散歩する事すら出来なかったのだ。だから庭にこだわったのもある。少しでも楽しく散歩したくって。
厚くて高い城壁は外部からの侵入を防ぐだけでなく、まるであたしを外に出さないためにもあるみたい。
まあある意味お尋ね者みたいなものだから、当然と言えば当然なんだけどね。でも――
「つまんないー。せっかく面白い話を聞けそうなのに。過保護なのよね、リュシアンも、マリーも。そう思わない?」
もちろんあたしのためって分かってる。本人達には言うつもりは絶対ない。だけどやっぱり窮屈だった。愚痴りたくなって、イーヴに話しかけてみる。
「みゃあ!」
イーヴはまるで同意するようなタイミングで可愛らしい鳴き声を上げて、あたしを見上げる。そしてすぐに顔を下げる。彼の目の前には魚の入った器が置いてあった。早めの夕食だ。
猫らしく魚が好きみたいで、マリーにニシンの塩漬けを炙ったものを用意してもらった。生であげたら食べなかったのだけど、焼いたらきちんと食べてくれた。不思議に思いながらも、その食べっぷりの良さを観察する。
やがて頭と骨と内蔵を残して、イーヴは食事を終える。妙に食通だわと思いつつも、あたしもそこは苦くて嫌いなので無理には勧めなかった。
ぐるぐると喉を鳴らしながら足元に纏わりつくイーヴを抱き上げる。抱きしめると、小さくて暖かい感触に癒された。
膝の上に乗せて、滑らかな背を撫でて。幸せそうに撫でられているイーヴを見ていると、猫だった頃が懐かしく思えた。
「あーあ。猫っていいわよね――」
呟いたとたん、ひらめいた。あ、そうか!
「そうよ、猫になって行けばいいじゃない」
だったら、馬車を用意してもらう事も無い。自分の足で駆けて行くことができる。門から出る事が出来なくても、猫なら抜け出せる隙間を知っていた。外で誰かに見つかっても普通の猫のふりをしてればいい。それはとてもいい考えに思えた。どうせ昼間はリュシアン帰って来ないんだし。うるさそうなマリーも庭仕事で邪魔しないでって言ったらきっと誤摩化せる。
そう思い立ったら、興奮で急に胸がどくどくと躍り始めた。
「――月食の実って、どこにあったかしら? 貴族から没収したヤツ!」
善は急げとばかりに、あたしは早速部屋の捜索を開始した。