7 時の止まった庭
『じゃあ、アリス。行って来るからね。ちょっと今日は遅くなるかもしれないけど、マリーに頼んでるから』
あたしは結局毛布に包まったままその声を聞いた。
どうしてリュシアンはあんなに優しいんだろう。あたしの嫌がる事はしないって決めてる。『君が望むまでは何もしないから』『もう絶対に無理にあんな事しないから』と昔誓ったままに。昨日の夜だって、本当は分かってたはず。あたしが本当に嫌がってなんかいないってこと。知ってるなら、あたしが泣いてても、強引に抱きしめてくれれば良かったのに。
優しいリュシアンの事は大好き。だけど、時々そんな風に思ってしまう。彼がすごく臆病に見えてしまうのだ。あたしの立てた垣根くらい飛び越えて、彼の想いをぶつけて欲しいって願ってしまう。大事にされてるくせに、贅沢だって分かってる。だけど――……
もやもやとした気持ちを抱えて、あたしはムクリと起き上がった。
「お風呂……入って来ようかな」
とりあえず顔を洗って、みっともない顔を何とかしたい。きっと腫れてるだろうし。
「みゃー」
ベッドを降りると、猫がこちらを見上げていた。口元に何かが付いているのを見て、指先で拭うと、それはソースみたいだった。そういえばとベッドの隣に置いたテーブルを見た。昨日の夕食は全部平らげられていた。ケーキだけがぽつんと残っている。甘い物は猫の好みには合わなかったらしい。
昨日リュシアンが買って来てくれた、あたしの好物のケーキだ。それを見て、ヨランドを連れて来ることであたしが怒るのを見越してたのが分かって、余計に腹が立ったのを思い出す。
「怒るって分かってるなら、連れて来なければ良かったのに」
あたしはやっぱり悔しかった。縄張りを荒らされた、今思い返すと、そう感じてしまったんだと思う。ここの中だけでは、リュシアンはあたしだけのものなのに。あたしだけを見ていて欲しいのに。
城でお仕事をされたら、あたし、寂しくてたまらなくなってしまう。彼が外にいる時と同じような気持ちになってしまうのだ。それが辛かった。
待てる。そう言ったのはあたし。だけど、寂しくてしょうがない。
結婚しても同じかもしれない。結婚がゴールだと思っていたけれど、結婚しても、きっと今と何も変わらない。それがこの頃分かってしまったせいかもしれない。仕事に打ち込むリュシアンは生き生きとしていて素敵だった。でもあたしは何も変わっていない。それが嫌だった。置いて行かれてるみたいで、辛かった。空しかった。やって来た仕事のパートナーの顔をしたヨランドを見て思った。リュシアンを助けてあげられるのはこういう人なんだって。だから、あなたに何が出来るのって笑われた気がしたのだ。
あたしは何も出来ない。そして、リュシアンはそれでいいと言う。本当に? 本当にそれでいいの? お荷物のままのあたしで、本当にいいの?
――ねえ、誰か、教えて。
むしゃくしゃした時は土を弄る。あたしは風呂はやめて庭に出ることにした。猫が後ろからついて来たけれど、あたしが土いじりを始めると、とたんに興味を失ったようで、日向に陣取って丸くなった。
土からひょっこり顔を出した雑草を抜く。整然と整えられる庭。変わらない風景。いつもはすっきりするはずなのに。今日は違った。変わらない事が不気味に思えてしまった。まるで、ここは、あたしのこの庭は、時間がとまっているかのようだ。そして、その中にいるあたしも同じ。
「あたし、何のために生きてるの?」
ふいに疑問が胸の底から沸き上がる。そして、口を次いで出た。
「人生に目的などないというのに」
どこからか答えが返って来た。ぼんやりと声のする方を見ると、高い鉄の柵の向こう側、一人の初老の男性が立っていた。
整えられた白い髪。ふっくらとした体型。優しげな光をたたえた水色の目がこちらを見て微笑んでいる。
「あなた、誰? ――神父様?」
そう尋ねたのは、彼の服装がそれと分かるものだったからだ。黒の祭服を着ていて、頭には尖った頭巾。手に長い錫杖を持っている。
「そうですよ」
「なんでこんなところにいるの?」
「この辺りには教会がございませんから、祈りを求める方の為に巡回しているのです。あなたも祈られますか?」
なぜだか頷いてしまいたくて、あたしは柵へと近づいた。手が入るか入らないかの細い柵越しに、向かい合う。
聖職者――この国では、貴族と同じくらいに高貴な身分を持つ人間だ。それなのに、この人は薄汚れた祭服を着ていて、足元の靴はボロボロ。顔は日に焼けていて、シミと皺がたくさんあった。でも、表情が柔らかくて、妙に好ましい顔だと思った。
「人生に目的なんかないって、どういうこと?」
あたしがさっきの言葉を気にして問うと、神父は「聞こえていたのですか」と少々驚いた顔をしたあと、真面目な顔をして答えた。
「生きていくのに壮大な目的が必要な気がして、躓いてしまうのは、若い方にはよくあることです」
「そうなの、ですか?」
くだけた調子で続けて尋ねそうになって、慌てて言い直した。なんだかこの人は敬わなければいけないタイプの人だ、そう思った。
「がむしゃらに走って来て、立ち止まった時に――そうせざるを得ない時に、人はどこを向けばいいか分からなくなることがあります。その時に、皆同じように悩んでしまうのかもしれません。あなたは、心が疲れているみたいですね。ほら、目を閉じて下さい」
あたしは大人しく目を瞑る。
「自分の力だけで何とかしようとせずに、全て神にゆだねるのです。神はいつでもあなたを見守っていらっしゃいます。大丈夫。あなたは一人ではない」
目を開けると、神父の温かな笑顔があった。
それは不思議な感覚だった。
一人ではない――その言葉が妙に身に染みたのかもしれない。
「さて、そろそろ私は帰らねば。――あなたに神のご加護がありますように」
「待って」
去って行ってしまおうとする神父を呼び止めた。
「あなたは誰なの?」
「アルマン=ペローと申します。お嬢さん」
柔らかい声で言われると、お嬢さんという響きも気にならなかった。
「また来てくれる?」
なんでそんな事を聞いてるのだろうと思いながらも、問うていた。
「いいえ。ここにはたまたま迷い込んだのです。こんなところに人が住んでいるとは知りませんでしたから、驚きましたよ」
「じゃあ、どこに行けば会える?」
ペロー神父はおやと眉を上げた。
「また祈りたいのですか」
「さっきのはお祈り?」
「そうですよ」
あたしは悩む。祈りたい? そうではない。話を聞いてもらいたいと思っただけなのだ。シャルルにしてたみたいに。そう思ったとたん、急にひらめいた。そうだ、この人、どこかシャルルに似てるんだ。姿も、口調も何もかも違うけれど。
『――神様はいるわ。そしていつも私たちの事をちゃんと見守っている。本当に信じていれば恐れるものは何もない』
ふいにシャルルの言っていた言葉と先ほどの神父の言葉が同調して、胸が懐かしさに震えた。
この人なら、シャルルみたいに、あたしの話を否定せずに聞いてくれるかもしれない。そのまま受け止めて聞いてくれるかもしれない!
「話を聞いて欲しいの」
気が付いた時には、縋るように頼んでいた。
「なるほど、懺悔をされたいのですね」
「懺悔……?」
そういうことなのかしら? した事がなかったので分からなかったけれど、頷く。すると、神父はどこからか取り出した一枚の紙切れをあたしに手渡した。小さな文字で『聖シャプドレーヌ教会』と書いてある。裏を見ると、所在地と簡素な地図。トゥール州の文字を見て、一瞬体が強ばった。
「私は、巡回していない時はそこにおります。御用がお有りでしたら、そちらへいらして下さい」
ペロー神父はそう言って微笑むと、あたしに背中を向け歩き出した。
姿が見えなくなるまで、あたしはそこで呆然と神父を見送った。
時の止まった庭にそよそよと風が吹いた。木漏れ日に顔を撫でられてようやくはっとする。仕事――庭の手入れに戻ろうとすると、真っ黒な固まりに躓きそうになる。ぎょっとして飛び退くと、それは猫。さっきまでのほほんとしていた彼は、今、怯えた顔をして地面に臥していた。
「ど、どうしたの!?」
猫なので当然答えが帰って来るとは思っていなかったけれど、動揺して尋ねていた。猫はあたしにしがみつくように抱きついて来たかと思うと、ぶるりと一度大きく震え――その後すぐに伸びてしまった。