6 仲直りの失敗
「この部屋を使って下さい。粗末なところで申し訳ない」
「こんな立派な部屋……十分です。不相応なくらいですわ」
夜も大分更けた頃、僕はマリーに急いで掃除してもらった客室の一つに、突然の客人を送り届けた。
居室に足を踏み入れた彼女――ヨランドに声をかける。
「今日は本当に申し訳ないことをしました。アリスにはきつく言い聞かせますので」
「いいえ、私の言葉が悪かったのです。それより……ご主人の方が大変そうですけれど」
ヨランドは僅かに気まずそうに僕の手をじっと見た。そこには出来たばかりの引っ掻き傷。人の爪ならば血を見る事はないけれど、ミミズ腫れは痛々しいし、実際痛い。
「平気です」
手を差し伸ばそうとしたヨランドから僕は傷跡を隠すと、軽い会釈をして身を翻した。
そして、急ぐ。
仲直りをしに僕たちの部屋へと。
アリスが投げつけた水差しは、幸いにも本人にぶつかる事はなかった。しかし中の水は、ヨランドの服を台無しにしてしまった。あいにく彼女が着る事の出来る着替えなどこの城にはない。来客用の寝間着くらいしか用意出来ず、結局は服が乾くのを待って、一泊してもらうことになったのだ。
アリスは猛反対したけれど、僕は彼女を説得した。さすがに今日のはアリスが悪いし『ヨランドさんに謝って』と促したら、僕に怒りの矛先が向けられた。頭を下げさせようとした僕の手を引っ掻いたのだ。
見かねたマリーにも説得されて、アリスはヨランドの宿泊に渋々了承したものの、その後つむじを曲げて部屋に閉じこもっている。
喧嘩自体はいつもの事だ。ただ、アリスが暴力に訴える事は珍しく、拗れそうだとぼんやり思った。和解には一晩はかかるかもしれないが、仕方ない。頑張ろう。明日の仕事に響くかもしれないな、そんな事を考えながら僕は部屋の扉を開いた。
喧嘩の後、彼女が逃げ込むのはいつもベッドの中だった。
彼女はいつものように広いベッドの上で、毛布を頭から被っている。人の形をした固まり。でも中身は不機嫌な猫。
先ほど届けさせた食事には手が付けられた形跡はない。隣にある彼女の好物のケーキも丸々残っていた。夕食抜きだから随分飢えてるだろうに、意地でも食べるつもりはないのだろう。食べ物で釣れないとなると、やっぱり懐柔は難しそうだ。
「アリス」
返事はない。
『あたしは、怒ってるのよ!』
その無言の背中がそう言っている。
僕は小さくため息をつくと、上着を脱いでそっと毛布の端を持ち上げる。機嫌を損ねた猫は撫でてあげるのが一番効果的だから。
毛布の中を移動して、その小さな背中の熱が伝わるか伝わらないかの位置で寄り添う。
「どうしてそんなに怒ったの?」
努めて優しく尋ねても、返答はない。
「ヨランドさんはよくやってくれてると思うよ」
「……」
「どうやったらもっとパンが売れるかって、考えてくれてるんだろう? 全部僕たちの店の為だろう?」
「…………」
アリスはそんな正論を聞きたいわけではないらしい。じゃあ、やっぱり、原因は。そう思って、恐る恐る薮をつついてみる。
「アリスは……ヨランドさんに妬いてるの?」
小さな猫は予想通りに跳ね起きた。
「そ、そんな訳無いでしょ! 妬いてなんか――……あ」
強がった言葉と裏腹に、大きな瞳からぽろぽろと涙が溢れだし、やれやれと僕は彼女を腕の中に抱きしめる。
「君が不安に思うような事は、何もないよ。でも、不安にさせてごめん」
「で、でも、アノヒト、あからさまにリュシアンに気があったんだもん」
「気のせいだよ」
「気のせいじゃない! 女の勘を甘く見ないで! あたしを挑発したのだって、こうやってお城に泊まるために仕掛けたに決まってるじゃない! ここにやって来る女はろくな女がいないの。なのにリュシアンったらいつもいつもデレデレデレデレしちゃって!」
「…………い、いつも? え? って?」
「ローズ姫が来たときのこと!」
僕はあまりに昔の事を持ち出されて一瞬呆然とする。ええ? 根に持ってたんだ? 一年以上前の事を?
「リュシアンは結局色っぽい女の人に弱いんだから!」
図星を突かれて僕は一瞬詰まる。そこをアリスは見咎めて、一気に攻め込んで来た。
「アノヒトに言い寄られたらやっぱりフラフラしちゃうでしょ? 断れないんでしょ?」
「そんなことない」
ムッとしつつ僕は否定する。
「でも――打ち合わせなんて、お店でやればいいのに、お城に連れて来ちゃったじゃない! ここは、あたしとリュシアンの大事なお城なのに!」
アリスは僕の腕から逃れて、ベッドから飛び降りる。ああ、もう。手に負えないな!
僕の言う事をまったく信じない、そのあまりの頑さにさすがに腹が立って来て、つい語調も厳しくなる。
「君が寂しがるから、早く帰って来たっていうのに……そんな言い方するわけ? じゃあ、今度からはお店で打ち合わせを済ませてくればいい? それだと、帰ってこれないかもしれないけど」
次の瞬間、アリスの顔に影が走り、僕は感情に任せて吐いた言葉を呪った。
再び泣きそうな顔で身を翻して駆け出そうとした彼女を僕は捕まえて、再び腕の中に囲う。
「離してよっ――リュシアンの馬鹿!」
「ごめん。余計な事言った」
「……」
下を向いたまましゃくり上げ始めたアリスに、胸を突かれた。未だにこんな風に彼女を傷つける自分の幼さが憎い。アリスが不安定なのは、分かってるのに。支えてあげなければいけないのに。
僕は彼女の顎を持ち上げると、唇を重ねる。銀の髪を撫でながら、柔らかい唇を食むと、ようやくアリスの涙が治まった。やがて首に彼女の腕が回される。僕は彼女の腰を引き寄せ、そしてそのままベッドに押し倒す。
燭台の光を消そうと、顔を上げた、そのとき。
「みゃー」
琥珀色の瞳がこちらをじっと見つめていた。
「え?」
思わず目を擦る。でも、見間違いではなかった。
――猫。黒猫だ。
彼――なぜだか雄だと直感で分かった――は、僕とアリスを舐めるように観察して、そしてニヤリ、と笑った。比喩でもなんでもなく、口を歪めて笑ったのだ。
僕はその顔に酷く動揺した。そして、自分の手がどこにあるのかを思い出して、「う、わっ」と慌てて両手を上げる。何もしてないよ、とまるで言い訳するみたいに。そうしてから気が付いた。猫に言い訳? なんて馬鹿馬鹿しい!
甘いはずの時間を妙な風に中断されて、苛立ちながらも気になって問う。
「お前、どこから紛れ込んだ?」
猫に向かって尋ねている矛盾に自分でもおかしくなる。どうもアリスと過ごした時期が長くて、猫が言葉を理解出来るのが当たり前に思えているらしい。
気が削がれて、アリスの上から身を起こすと、彼女が「あ……忘れてた」と暢気な声を上げた。
「気が付いたのね。良かったぁ。さっきはごめんね」
彼女はごろんとうつ伏せになって猫と目を合わせると、妙に嬉しそうに猫の頭をガシガシと撫でる。猫は少々乱暴な彼女の手にも逃げずに、大人しく撫でられていた。
「今日迷い込んでたの、この猫。ねえ、飼ってもいいでしょう?」
彼女の問いかけは、一応〝お願い〟しているように聞こえる。けれど、その実、もう僕が何と言おうと飼うと決めているのは、経験上分かってしまう。
「え、ええ……っと……あれ、迷い込んだ? 今日?」
その事に触発されるものがあった。僕は急にシャルルの手紙を思い出して、混乱する。
「ってことは、これ、魔法の猫? シャルルが手紙で送るって言ってたけど……送られて来たのってこれの事?」
しかし、アリスはきょとんとして、首を振った。
「シャルルが? ううん、普通の猫よ。しゃべらないもん」
あ、そっか。確かにさっきのは見事すぎるくらいに猫の鳴き声だった。じゃあ、偶然、迷い猫がやって来たって事なんだろうけど……偶然にしては……。
僕が思考を猫に移したのがアリスは気に入らなかったのだろう。アリスは「それより、リュシアン、続きは?」そう言って、ねだるように首に腕を回し、体を寄せて来た。こんな風に分かりやすく誘われる事は滅多になく(いつもは本音とは逆の行動をするので、分かりやすいと言えば分かりやすいんだけど)、僕はあっけなく誘惑に負けそうになって……はたと気が付く。どこからか明らかに琥珀色のあの視線を感じた。
「でも――猫が見てるし」
あの笑顔に、妙に動揺している自分に気が付いた。きっと見間違いに決まっている。決まっているのに。
「見てないってば。ほらもう眠ってるもん」
言われて視線をやると、猫はベッドの隅で丸くなって目を閉じている。だけど僕はその目が薄く開いているような気がしてしょうがない。
見られたからってなんだ? 猫に? そう自分に言い聞かせても、心のどこかに拒絶反応が起こる。
耐えきれずに部屋の外に出そうと猫の首根っこを掴むと、彼はシーツに爪を引っかけて抵抗した。そして僕を睨んで、唸る。どうやら部屋から出るつもりがないらしい。
するとアリスが猫の気持ちを代弁する。
「外は寒いの。春の夜はまだ冷えるし。気にせずに、ここで寝かせてあげたらいいじゃない」
少し苛立ちの混じった声と共に、アリスは今度は僕の腕に抱きついた。温かくて柔らかな感触に頭が茹だる。――だけど、琥珀色の二つの瞳がこっちを見ている。興味津々、そんな色をたたえて、こっちを見ている。気になって、彼女を押し倒すことができない。
「いや、でも、なんか落ち着かないし!」
「じゃあ、この子が出て行くまで何もしないって言うの!? そんなの待ってたら、夜が明けちゃうでしょ! そして、またあたしを置いて行っちゃうんだ!」
アリスの声が、ヒステリックな声に変わる。そういえば、さっきまで喧嘩してたんだった! と思い出したときには後の祭り。せっかく消火したはずの火事が再燃してしまった。
「――もういいわよっ! リュシアンの根性無し! 猫なんて、あたしだけ見てれば気にならないのに! ――そ、それとも、あたしってそんなに魅力ない!?」
最後、アリスは悲鳴に似た声で叫ぶと、そのまま毛布を被ってカタツムリのように閉じこもってしまった。
しくしくとアリスの泣き声が響く部屋で、僕は途方に暮れる。
(ああ、もう! お前のせいだろ、出てけよ!)
僕は小声で猫に言い聞かせるけれど、当然無駄なこと。ちらりと僕を睨んだだけで、なんだかつまらなそうにあくびをして、本気で寝入ってしまう。
再び拗ねてしまったアリスは、その後、いくら甘い言葉でなだめてもこちらを向いてはくれなかった。