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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第二部 第一章 消えた魔法の猫
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4 小さなお客さん

『……ふうん、噂通り、かわいいな。あんな優男には勿体なくねー?』


 新緑の匂いのするやわらかな風に乗って、そんな声が流れて来た。あたしは振り返って、庭を一望した。あたしの植えた色とりどりの花々が日の光を受けて輝く。手入れを頑張った赤や黄色のチューリップ。勝手に自生した白やピンクのひなげし達。葉っぱはさっき撒いた水のせいで煌めいて、所々宝石のようだった。

 誰も居ない。人影どころか、空を飛ぶ鳥も、雲の影さえも見当たらなかった。声の主はどうしても見つからず、首を傾げる。

「あれ? 誰か今いなかった?」

「いいえ、お嬢様」

 マリーが洗濯物をあたしに手渡しながら辺りを見回し、そして首を振る。あたしより随分大柄な彼女の視点でも人影は見つからなかったらしい。

「空耳?」

 猫の姿を失ってから随分経つ。時間が過ぎるに連れて、あたしは猫の時の感覚も失いかけていた。味覚もだけど、顕著なのは耳。随分悪くなった気がする。それでも、普通の人よりは良いのかもしれないとは思っている。

 あたしは木々の隙間から差し込む木漏れ日に目を細める。何かに呼ばれた気がして、地面を見た。足元の猫の形をした真っ黒な影に眉を上げたところ、それが――動いた。

「わっ! 影が動いた!」

 あたしが思わず飛び退くと、影が「みゃー」と鳴く。

 え? 『みゃー』?

「おや、なんだい。猫じゃないか」

 マリーが目を大きく開けると、ひまわりのように破顔する。かがみ込んで、おいでと手を差し伸ばす。猫はぷいと顔をそらすと、尻尾を左右に振った。警戒してるようだ。かと思うと、なぜか突然あたしの方に寄って来て、足に絡まりついた。尻尾を立てて、ふくらはぎに顔をすりつけるその仕草は親愛の情を示してる、はず。あたしも、リュシアンによくやった。

「な、なに?」

 懐かれるような事何もしてないのに! 自分がするのとされるのは随分感覚が違って戸惑った。くすぐったい。マリーは振られた事に腹を立てたのか、腰に手を当てて猫を咎めた。

「なんだい、失礼な猫だね! ――こら! お召し物に毛をつけるんじゃないよ! 洗濯が大変だろう!」

 マリーが叱るけれど、あたしはそれを止めた。

「いいわよ、どうせ作業着だもん。払えば取れるわ」

 マリーはそこであたしの恰好を見てやれやれと肩をすくめる。

「その恰好もどうにかなりませんかね? 女性がズボン・・・を穿くなんて!」

 あたしは自分の服を見下ろした。

「だって庭仕事ってこの方がやりやすいんだもの。膝が楽だし。それに男の子みたいで可愛いでしょ?」

 とやかく言われつつも、あたしはこの恰好が気に入ってる。リュシアンが粉屋で着ていたような、下町で着られる服だ。つばの大きな麦わら帽子、綿で出来た洗いざらしの長袖シャツに長いズボン。それを折り曲げて、長靴の中に突っ込んでいる。虫にも刺されないし、丈夫だし、汚れても洗いやすいから、便利なのだった。なにより、リュシアンも可愛いって言ってくれたし!

 そう言った時の彼の照れ笑いを思い出して、ニコニコしていると、マリーは仕方なさそうにため息をつく。

「お顔が少々だらしないですよ! 大体、リュシアン様はお嬢様に甘過ぎます!」

「だって奥さんだもん」

 あたしがえへんと胸を張ると、マリーは目を吊り上げた。

「いいえ! お じ ょ う さ ま です!」

 あーあ、めんどうくさい。譲らないマリーにあたしは膨れつつ、まだ足元をくるくるしている猫を見る。

「あれ? よく見ると結構綺麗な黒猫よ?」

 瞳は見事な琥珀色だった。細まった瞳孔は濃い茶。雄かもしれない。というのも、涼しげな雰囲気があって、凛々しいといって良い顔立ちだったのだ。

 一瞬毛がまだらに見えたけれど、白っぽいところは泥で汚れているらしい。見た瞬間に思い浮かぶことがあって、ふっと笑みがこぼれた。助けてもらった時のリュシアンの髪みたい。そう思っただけで愛着が湧くのは不思議だった。

「これって……野良猫かしら? 首輪もしてないし」

 それにしては、毛並みに艶がありそうだった。触ってみようとすると、マリーが止める。

「お嬢様、触られない方がいいです。変な病気を持ってるかもしれないでしょう」

 さっきおいでって触ろうとしたのは誰よ。あたしは呆れた。

 フーという声に見下ろすと、まるで意味が分かったかのように猫がマリーに向かって毛を逆立てて唸っていた。

「あれ? 怒ってるの?」

 猫はぷいとマリーから顔を背けると、あたしに飛びかかった。そして、とっさに腕を開いたあたしの胸にしがみつく。

「わっ」

「あ、こら! 服が汚れる!」

 あたしは驚き、マリーは咎める。確かに前足についていた泥が白いシャツにべっとりと着いた。けれど、猫は知らん顔ですましている。

 猫そのもの――そりゃあ、当たり前なんだけど――の気まぐれなその様子に、あたしは苦笑いをすると、まず猫を見つめ、そしてマリーを見つめる。 

「洗えば平気でしょ? ついでにこの子も洗っちゃうわ」

「洗ってどうされるんです」

 問われて、即答した。

「――あたし、この子、飼いたい!」

 そう言った時にはもうあたしは心を決めていた。だって、猫を抱いたとたん、その暖かさと柔らかさに妙にほっとしてしまったのだ。ああ、あたし、すごく癒されてるって――分かってしまったのだ。

 本当は早く赤ちゃんが欲しかった。けど、それは結婚してからって。順番が違うって、ずっと反対されてるし。それなら、代わりに猫くらい飼ってもいいじゃない! それはとんでもなく良いひらめきに思えた。

「お嬢様!」

 後ろから追いかけて来るマリーを無視して、あたしは浴室へ急いだ。


 *


 猫は最初少々暴れたものの、洗っている途中に大人しくなった――というよりぐったり伸びてしまった。慌てたあたしがマリーを呼びに行くと、気を失ってるだけだということ。

 何がいけなかったのかしら? 手順を思い返しても、普通に洗っただけ……だと思う。

 マリーが憐れんだ様子で猫を介抱しながら、あたしに言い聞かせる。

「おじょうさま、さすがに洗濯用石けんで洗ってはいけません。あれは生き物を洗うには強すぎます。せっかくの毛並みも台無しです。きしきしじゃないですか」

「ああ、そういうこと? それで暴れてたのね」

「それから〝たわし〟だと、痛いでしょう」

「あ、……そうか」

 結構ごしごしやってしまった気がする。だって、泥がたくさんついてたし、……つい、洗濯物の要領で。最初は洗濯板を使おうとした事は一応、黙っておくことにした。

 続けてマリーは恐る恐るのように問うた。

「ええと、それから、当然、お湯を使われましたよね?」

「…………」

 もちろん汲みたての水を使ったけど……。もしかしたら、寒かったのかしら? そういえばくしゃみもしていたかも。

 飼われていた経験はまったくもって役に立っていなかった。お世話するのって……大変かも。

「とりあえず、リュシアン様にお願いして、飼ってもよいと言われたらにして下さい。その前に……逃げるかもしれないですけどね。その時は逃がしてあげて下さいよ?」

「やっぱり、き、きらわれちゃったかしら……」

 あたしがしゅんとすると、

「さあ。でも、謝っておいた方がいいと思います。たとえ猫でもね、生き物なんですからね」

 マリーは疲れた様子でそう言うと、ぐっすり寝入ってしまった猫の頭をそっと撫でた。


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