3 新装開店
オーランシュの街に着くと、噴水のある広場にあるこぎれいなパン屋が目を引いた。
焼いた煉瓦を積んで作ったチョコレート色の壁に、クリームみたいな白い屋根。大きな窓から店の内部を覗くと、焼きたてのパンがずらりと並んでいる。アリスに意見を聞きながら、なるべくおしゃれな外観を目指した結果、こんな感じになった。やはり街で育った彼女のセンスは、僕たちとはずいぶん違って垢抜けているようだった。まるで、おとぎ話に出てくるお菓子の家だ。
パン屋さんの娘さんが売り子として店内を急がしそうに歩いている。白いエプロンと白いブラウス。そしてその襟元には店のシンボルとしている、空色のリボンが揺れている。
これは僕の経営する店。前からあったパン屋さんを新装開店して共同で新しい店を開くこととなったのだ。
以前から言われていた事業拡大、その実現に踏み出せたのは、共同経営の提案があったからでもあった。
まず僕は事業拡大どころか、城に呼び寄せたマリーの代わりにパンを売る店員を探す必要があったし、パン屋さんのご主人も客が分散するより、引き入れた方がいいと考えていたようだった。僕の売るパンには味にも定評がついたし、誰が命名したのか『王子様のパン』と名前も売れて軌道に乗っていたから(もちろんこの名前は凄まじく恥ずかしいのだけれど、いつの間にか定着してしまっていた)、そのブランド力は喉から手が出るほど欲しかったのだそうだ。
普段食べるパンと、特別なときに食べるパンというように、パンを買う客の層が違うので、今までそれほど問題にはなっていなかったが、今後どうなるかは分からないし、もしかしたら客を奪い合うことにもなりかねない。それは僕にとっても、パン屋さんにとっても好ましい事態ではなかった。僕には彼らの協力は必要だし、彼らにとってもうちの粉は必要な訳だから。
今まで通りに二種類のパンを売る。だけど、それを同じ店舗で売るのだ。つまりは、僕は粉屋に戻る。僕は新しく人を雇う人件費をほかにまわすことができて助かっていたし、パン屋さんも新しい顧客を引き込むことができて、共同経営は両者にとっておいしい話だった。
店に入ると、心配していた売り上げは上々のようだった。女性と子供が多く、僕を見ると「あ、下町の王子様だ!」と囁き合う。僕は営業用の笑顔を浮かべたまま、店の様子を観察した。
ずらりと並んだ棚の上ではふっくらとした白いパンが湯気をたてていて、空腹になりかけたお腹を刺激した。そして隣には少々味は落ちるけれど、古い麦を使ったパンが並べてある。
その隣。薄くバターを塗って、砂糖をまぶしているその菓子パンが、今日から売り出した新しい商品だった。残り少しになったそれを見て僕は胸を撫で下ろす。これはバルザックの店舗に出すための試作品を作っていた途中、偶然出来上がったものだった。単価が上がるのでバルザックで売る菓子パンのように高価な果物は使えないけれど、砂糖をまぶしただけの菓子もどきのパンは、この街では子供と女性の間で人気が出るのではないかと思ったのだけど……。
「ひとまずは当たったかな?」
僕は続けて店の視察を軽くすませると、奥にいたパン屋さんに挨拶と売り切れそうな菓子パンの追加をして、実家に足を向けた。
「ただいま」
振り返った父の手元には相変わらず籠があった。腰の悪い父は、未だにそうやって貧しいながらもなんとか生計を立てている。僕の仕送りを無視して、昔通りの生活を続けようとしていた。その理由は明らか。――アリスとの結婚を認めたくないからだろう。
「リュシアンか」
僕の顔を見ると、また説得に来たのか、というような苦々しい顔を浮かべた。
『わしは、ユペールには行かんぞ』
相変わらず、そんな意思が全身からにじみ出ている。やっぱり頑固だな。苦笑いしながら、作業中のドゥに声をかけた。今日の用事は父の説得ではない。
「順調?」
「お、ご主人様じゃねーか」
マリーにしつけられて、一応そんな風に僕の事を呼び出したけれど、呼び名と態度が全くかみ合っていない。もう慣れたけれど。たとえ態度がこんなでも、雇い主には忠実なことは、この半年でよく分かっている。
「もう、いっそのこと、リュシアンでいいよ。僕はご主人様って柄じゃないし」
ドゥは頭をタオルですっぽり包み込み、あごで結んでいた。その丸い顔は真っ赤。まだ夏でもないというのに、服に汗染みができるほどだ。そういえば、ずいぶん暑がりで、冬でも薄着だったなと思い出す。
彼は汗を拭いつつ、僕の後ろを覗き込み尋ねた。
「あれ? 嬢ちゃんは連れて来なかったのか?」
「うん。熱あるみたいだったし」
「熱?」
「微熱だけど。それより今日はバルザックにも用事があったから、そっちの方が理由としては大きいかな」
「ああ、そっか、あぶねーもんな、あの辺」
僕は頷く。あの辺りは彼女にとって未だ危険地帯だった。いつ彼女の両親に連れ戻されるかわからない。
ドゥは話しながらも手を休めない。水車小屋で挽いた粉を、袋につめる肉体労働を淡々と、しかし手際よくこなしていた。
小麦を挽くゴロゴロという音を響かせる巨大な臼の側では、椅子に座ったひょろりとした男——トロワが優雅に茶を飲みつつ休憩中だ。いや、その手元にある書類を見る限りは、本当は違うのだけれど。
「どんな感じ? 手がかりはあった?」
トロワに向かって尋ねると、彼は蛇に似た目をこちらに向ける。
「ああ。ご主人」
「リュシアンでいいって」
「その件は、マリーを説得したほうがいい。俺たちは彼女に逆らえない」
睨みつけられているような感覚さえ覚えるけれど、ドゥが言うには、これは普段からそうらしい。
「早速だが、やっぱり見つからないようだ。分担してあちこち聞き込みをしているが、行方は全く知れない」
「……そうか」
この二人には、粉屋の手伝いと、父の護衛と、それから……女王に頼まれた仕事を手伝ってもらうことにしていた。つまり僕と一緒に猫の行方を追ってもらっている。主に、街での目撃情報を拾ってもらっていたのだけれど。
「となると、やっぱり……」
「貴族が絡んでいるのだろう。隠蔽のにおいがぷんぷんする」
トロワが僕の言葉を引き取りながら頷いた。
貴族たちは人身売買の罪で糾弾された王をあっさり見捨てたけれど、だからといって女王についたりはしなかった。女王が愚痴を漏らすのを聞いたけれど、扱いやすい傀儡を用意するべく、画策しているという。
なにしろ女王は王とは正反対で非常に潔癖な方だ。今まで王が見逃していた数々の悪事が表に出てしまう可能性は簡単に想像できる。
彼女は自分につかない貴族を遠ざけるかわりに、教会を味方につけた。力を失いかけていた聖職者たちと手を組んだのだ。
そして手はじめに発表されたのが、聖典で書かれている十の戒律。緩めに解釈されたものが厳密にと見直されようとしている。それは、貴族たちにとって脅威になるに決まっていた。
「女王が始められた政策が関わってるんだろうな」
僕がつぶやくと、ドゥが後ろから口を挟んだ。
「『姦淫するべからず』か。街から商売女が消えるとなるとなー。困る男は大勢よ」
ドゥが憂鬱そうにそう言うと、
「お前はいつか、あのもったいない嫁に殺されるといい」
トロワがすぐに呪いの言葉を吐いた。未だにこのドゥの奥さんを見た事はないけれど、いったいどんな人なんだろうと、彼らの会話を聞いていると興味はそそられる。ずいぶん心の広い人に違いないとは思うけれど。
「あれは過去のことだってばよー。……お前、ばらすなよ? 絶対!」
「さあな。口止め料は高いが」
「うおっ、勘弁しろ。クビになってから小遣い削られてるんだ!」
二人がやり合っている横で、僕は大きなため息をついた。
女王はドゥが言ったような職業の取り締まりを強化した。そして、同様の理由で魔法の猫の保護を始めたのだ。
同時に始めた政策のせいで、貴族は警戒心を最大にしている。娯楽が——魔法の猫が取り上げられてはたまらないと隠しているに決まっていた。
「今度はどう打っていく?」
トロワは地図を差し出す。
「西の方の領主にも話を聞かないといけないとは思ってる」
僕は地図を受け取り、下端の都市を指差す。ユペールは北にあり、王州を超えて南となると、どうしても泊まりがけになる。
「その間、嬢ちゃんはどうするんだ?」
ドゥがわずかに心配そうな顔をした。アリスの様子から、何か感じるものがあったのかもしれない。
「うん……」
天井を見上げると、『だ、だいじょうぶよっ!』と強がって、無理に微笑むアリスの顔が浮かんでしまう。
結局僕は、「……ちょっと考えさせてくれる?」と答えを保留した。
表に繋いでいた馬がヒヒィンといなないたのを機に僕は立ち上がる。
「じゃあ僕はそろそろ行くよ。日が暮れる前に城に戻りたいから」
次はバルザックの視察だった。ついでに粉を運ぶつもりだったので、汚れないようにとエプロンを借りると、ドゥとともに荷馬車に粉の入った袋を運んだ。
「そういや、バルザックの売り子はなかなかいい働きしてるんだろ?」
途中、ドゥがにやにやしながら僕にすり寄った。
「あ、ああ」
思い出して少々げんなりする。
「お、もしかして、嬢ちゃん連れてこなかった本当の理由はそっちか?」
「んなわけない」
「ヨランドはいい売り子になるだろう」
トロワも粉を運ぶのを手伝っていた。後ろで珍しく柔らかい雰囲気で頷いている。
まあ、そうなんだけど。実際、彼女目当てで男性の客がやってくる事も多かった。バルザックの街並でも浮かない上品な女性を紹介してくれた二人には感謝している。
どういう関係かはよくは聞いていないけれど、昔の仕事仲間だという事らしい。という事は、王の元で働いていたのだろうか? などと思うけれど、王のあの嫌らしい顔を思い浮かべると、何となく立ち入った事を聞きづらいのだ。
「ヨランドはお前さんを気に入ってるみたいだったがなあ」
「そ、そんな事ないと思うけど」
「若い侯爵様で、立派な城付き、女王のお墨付きで、将来有望。見てくれもよくて、そして独身となりゃ、そりゃ女も寄ってくるだろうよ。いいなあ、俺とかわらねえか?」
ドゥは少々切実な声を出すが、すかさずトロワが鋭く突っ込んだ。
「お前はやはり何回か死ね。罰当たりが。だいたいその外見で図々しいと思わんのか」
トロワは全く容赦ない言葉をドゥに投げつけるけれど、ドゥはいつもの事なのか、肩をすくめてあっさりかわした。
「言ってみただけだろーが。冗談のわかんねーやつだな! 夢くらい見せてくれても良いだろうよ!」
二人のやり取りを喜劇のようだと思いながら、僕は苦笑いをして、ヨランドという女性を思い浮かべる。黒髪に紫色の瞳を持つ、美しい女性を。
年を聞くのは失礼だから聞かなかったけれど、おそらくは二十代後半から三十代前半ではないだろうか。ドゥやトロワとあまり変わらないような気もする(ちなみに彼らは今年三十だと言っていたが)。
そしてドゥが言う事は全くとんちんかんな事でもない。
『あんた、あんな小娘じゃあ、満足できないでしょう?』
艶っぽいささやき声が耳に蘇る。僕は立ち上がると一つ大きく息を吸って、馬車に乗り込んだ。