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あたしは、猫。  作者: 碧檎
幕間
43/71

夜眠る前に

「ねえ、リュシアン」

「なんだい」

「あたしね、今日すっごくいいこと思いついちゃったの!」

「……」

「なに? その疑り深い目! ちゃんと聞いてるの?」

「……それって、〈今〉話さなきゃいけないこと?」

「だって今話さないとリュシアン寝ちゃうんだもの」

「……寝ないから続きを――」

「いやよ、昨日もそう言って話聞いてくれなかったんだから!」

「あしたの朝にしようよ。アリスが寝坊しなければいいんだからさ」

「そう……じゃあ、もう部屋に帰って寝るわ、あたし」

「あぁ、ねえ! 待って!」

「早起きしないといけないんだものね、しょうがないわよね。――おやすみなさい」

「アリス! わ、分かったから。――じゃあ何? いいことって」

「あのね――」


 *


 朝起きたらもう隣にリュシアンの姿はなかった。寝坊ってリュシアンは言うけれど、まだ部屋の中に朝日がようやく届くくらいだった。このところ麦の収穫期に入ったせいで、忙しいらしくていつもそう。

 枕を抱きしめてもう一度ごろんと横になる。ベッドの隣は空っぽだったけど、枕からは彼の匂いがしてあたしはほっとする。さみしさが少しだけ和らいだ。

 こんな小さな幸せが痛いほどにうれしい。毎日続けばいいって願う。だけど、そのための約束を彼はなかなか実行してくれなかった。

 なんでかしら。

 そう疑問に思うまでもない。……あたしの家の事に決まってる。

 リュシアンはあれからバルザックのあたしの実家に結婚を許してくれと頼みに行った。だけど、会っても貰えなかったみたい。帰ってきた彼が沈んでたからすぐに分かった。聞けば「こちらが指定しただけのものを用意してくれば、考えてもいい」らしい。つまりは金次第ってこと。あまりにらしくって呆れるのも通り越した。

 あのひとたちは怒っていてあたしを返せとうるさかった。公爵は王の命令で婚約を破棄してきたけれど、それと同時に支度金の半額の返還を求めてきたらしい。――向こうの事情だから、さすがに全額ではなかったけれど。支度金は多額。だから婚約破棄をされると困るのはカルバン侯爵家も同じだった。王の事情を知らない彼らはなんとか公爵の機嫌を取って、婚約を継続させたかったみたい。

 だけど、あたしがリュシアンと一緒に暮らしていることを公爵から持ち出され――これは王の方から漏れたらしいけど――さすがに縁談は進められなくなった。カルバン侯爵家は自分の落ち度を深く追求される前にと、とりあえず今回の婚約の話は完全になくなった。そして彼らはその落ち度全部をリュシアンのせいにしようとした。

 公爵との縁談が潰れた慰謝料に加えて、公爵と同等、もしくはそれ以上の支度金を求めてきたのだ。

 そんな風に、彼らはリュシアンに無理難題を押し付け続けている。

 そのあまりに非友好的な態度から思うに、彼らはきっとリュシアンから搾り取れるだけのものを搾り取って、その上で、あたしも取り戻す気なんじゃないかって不安に思う。考え過ぎかもしれないけど。

 ――そんなの、馬鹿げてる。

 あたしはあたしで、あのひとたちのものじゃないのに。

 だから、あたしは言う。そんなの無視しちゃってよって。

 だけど、リュシアンも、彼のお堅いお父さんもそれは駄目だって。両親と神様に祝福されない結婚はうまく行かないって。神様を持ち出すとき、リュシアンの顔はちょっと神妙になる。あたしは、その顔には未だ逆らえない。っていうか……あんまりに素敵で、ちょっと見とれちゃうのかもしれない。

 リュシアンは言う。お金で解決できるのなら、それが一番手っ取り早いって。どうしようもない事――例えば、リュシアンの家柄のことなど――を出されるより随分ましだって。そう言って彼は毎日遅くまで働いている。パン屋の事業を拡大して、今度はバルザックにも店舗を開こうって計画してるみたい。そうやって地道に財産を蓄えるって。

 ――でもね、そんなのいつまで待てばいいの。

少なくとも二、三年は待たないと駄目なんじゃないかって思う。

 あたし、早くリュシアンのお嫁さんになりたいのに。お客さんが来たときに『妻のアリスです』って言われてみたいのに。

「あ~あ」

 ため息をつきながら起き上がる。

 でも……そう、ね。確かにリュシアンの言う通りかもしれない。要はお金があればいいってことだもんね。そう思って昨晩の会話を思い出す。

「――あ!」 

 そうだった。リュシアンには昨日の晩話したけれど、あたし、話したことで安心して忘れてた。

 ゴロゴロしてるうちに大分日が高くなってしまっていた。

 あたしは急いでワンピースを身につけると、そっとリュシアンの部屋を抜け出して自分の部屋に戻る。そっとっていうのは、たまに間が悪く現れるマリーに見つかりたくないから。

 だって、うるさいんだもの、彼女。

 彼女には基本的にはオーランシュの粉屋とリュシアンのお父さんのことを頼んでいるのだけれど、週に何度かはユペールのこの城に来て家の事を手伝ってくれる。

 たまたまこの間、朝リュシアンの部屋から出てくるところを見つかったんだけど、後でリュシアンはねちねちお説教されてた。あたしが来たら止めちゃったから何て言ってたかは知らないけどね。あたしが押し掛けてるんだから、あたしに言えばいいのに。変なの。

 口調も以前通りにあたしには丁寧で、リュシアンにはぶっきらぼうだった。あたしはもうお嬢様じゃないし、今の彼女の主人はリュシアンなのに、――昔の癖が抜けないのかもしれなかった。

 籠を持って、裏庭に出る。そして朝露を受けて輝くマルメロをいくつかちぎる。それから足元に転がる栗を傍にあったスコップで拾った。

 そして厨房に行くと、秋の露を含んだ冷たい空気が部屋全体をしんと冷やしていた。窓辺から差し込む光が部屋の中の霧を照らして白い筋を描く。

 あたしは髪を後ろにひっつめると、薪を竃に組み立てて、木屑に火を移して火を起こす。水が入った鍋を火にかけると、中央のテーブルで作業を始める。

 ボウルに朝リュシアンが挽いて行った小麦粉、水とバターと砂糖、塩を加える。そして手で丁寧にこねた。

 この作業があたしはどうも苦手。根気がいる作業ってどうも駄目みたい。力が無いもんだから、腕もすぐに怠くなっちゃうし。

 しばらく、小麦粉のだまが残ってしまってパンが膨らまない――

それが原因だと信じて、頑張って捏ねていたけれど、いくらこねてもパンはやっぱり膨らまなかった。

 カチカチの堅いパンしか焼けなくて全部ゴミ箱行き。パン一つお弁当に持たせてあげられない。悩んで、この間こっそりオーランシュのパン屋さんに相談に行ったら、どうも「酵母」というものが必要なんだって。お酒なんかを造るときに使う小さな生き物なんだって。

 改めてレシピを見直してみたら確かにそう書いてあった。何の事か分からなくて、多少材料が足りなくても大丈夫よねって思って気にしなかったけど、結構重要なものだったらしい。

 パン屋さんでそれを分けてもらってきたけれど、よく考えたらジョアンは城でパンを焼いていたんだからこの厨房のどこかに置いてあるんじゃないかしら……

 あたしは壁に備え付けられた戸棚を漁りながらジョアンを思い出す。

 ジョアンはシャルルが出て行った後、何も言わずにこの城を去ってしまった。これからはろくにお給料が払えないかもしれない事を分かっていたのかもしれない。だから、料理人を失ったあたし達は自分達で食事を用意する必要があったんだけど……、これが、また、大変。

「掃除とか、洗濯はうまく行くのに……」

 思わず零す。なんでかしら、料理って難しい。

 掃除とか洗濯は、――水を零したら拭けばいいし、多少汚れが落ちてなくてもまあ、気にしなければいいし。とにかくその辺はある程度おおざっぱでも何とかなるけれど、料理は少し間違っただけでも思ったものと随分違うものが出来てしまう。

 ジョアンの繊細な料理を思い出してため息をつく。あんなの――きっとあたしには一生無理だわ。一体彼は何者だったのかしら。

「まあ、いいわ。とにかく、今日は失敗しないんだから!」

 あたしは練ったパンの生地に酵母を入れるとさらに良く捏ねた。そして、最後に――

「これこれ」

 昨日リュシアンに提案してみたのだ。果物入りのパンなんてどうかしらって。感じとしては、お菓子とごはんの中間にあるようなものを想像していた。お菓子よりお腹に溜まって、お菓子ほど高級じゃない――最初はリュシアンのおやつにどうかなって思ったんだけど。リュシアンは男の子だから、お腹の空き方も女の子とは随分違うみたいだし。

 第一それだったらケーキじゃないからあたしでも焼けるかもって思った。あたしもたまにはお菓子が食べたかった。けど、お菓子を買ってきてって――もうそれが高いって知ってるから――……どうしても言えなかったのだ。

「これですっごく甘いパンが出来るんだから!」

 きっとほっぺが落ちそうに美味しいに決まってる。まるでお菓子みたいな甘いパン!

 リュシアンはお仕事に毎日自分の店で買ってきたパンを持って行くけど、あたし、自分でパンを焼けない上に、ろくなおかずが作れないから、毎日味気ない思いをしてるはずだった。

 せめてジョアンがやってたようにジャムを作ろうと思ったけれど、材料がマルメロというこの辺りでは珍しい果物だからレシピも無くて……

どうも砂糖の量が少ないのか多いのか、はたまた火加減か……焦げてしまった。

 このマルメロは、シャルルが出て行った後も元気に今まで通りに大量の実を付けた数少ない果樹だった。あとは栗くらい。他の林檎や蜜柑などの果樹は気候があわないのか、シャルルの魔法が解けたせいか……

原因はよく分からないけど一気に元気がなくなってしまった。多分このマルメロの木はこの土地の気候によくあってるんだと思う。そのまま食べたら酸っぱくて全く食べられないんだけど、果実酒にしたりジャムにしたりすると、とっても美味しいのだ。

 あたしは手に持ったマルメロを刻むとパン生地に投入した。そして次に大量の砂糖をまぶす。ジャムは砂糖と果物で出来ていて、煮詰めれば……つまり熱を加えればいいのだから、パンとマルメロと砂糖を一緒に混ぜたらきっとジャムパンになるんじゃないかしら!

 そう思ったのだ。

 きっと明日は美味しいお昼ごはんを持たせてあげられる……

リュシアンの笑顔を思うと嬉しくて、生地を鉄板に並べながらあたしは鼻歌を歌った。


 +


「あー領主さまぁ、そいつはまた歯が折れそうだな!」

「……」

 僕は手元の包みを開けると軽く胃を押さえる。やっぱりこのところの不調はこれのせいなのかもしれない。だけど、アリスが一生懸命焼いてくれたんだ。頑張って食べないときっと罰が当たる。――そうにきまってる。

 僕は領地の中の麦の刈り取りを視察して回って、今年の出来合高を調べていた。それから、土の状態、水のはけ、害虫の有無……前からいろいろ報告してもらっていたけれど、やっぱり聞くのと実際見るのとでは大きく違う。それから、〈見ている〉という事が実際は重要だとシャルルはよく言っていた。報告に間違いが無いか、領主がきちんと調べていると知れば、報告する方も身を引き締めるって。つまりはこういうのは一方通行じゃ駄目なんだって事。だから、一緒に上がってきた要望も聞いて、それにきちんと対処もする。――上に立つってのは受け身だけじゃ駄目なのよぅ、ちゃんと声を聞かなきゃね。そんな声が蘇る。

「さてと、じゃあ僕はもう行くけれど、要望は――用水路の修理だね。他に無い?」

 首を振る農民達に僕はねぎらいの言葉をかけると馬車を走らせ、その足でオーランシュへと向かった。

「こちら今朝焼きたてのふんわりもっちりなパンですよ! あのユペール産の小麦しか使ってませんよ!

 ――ほら、そこのお嬢さん! 今晩の食卓にどうだい?」

 店先ではマリーが元気な声を上げてパンを売っている。道行く人がその声に振り返り、興味深そうにパンを覗き込む。

「――あ、ご主人さま」

「やめてくれよ、その呼び方」

 僕は苦笑いしながら彼女に近寄る。

「代わるよ」

 そう言うと、上着を脱いでエプロンを手に取る。マリーは豪快に笑って場所を譲る。

「あぁ、そうしてくれるかい。売り上げが倍増するよ!」


 日暮れ前にはパンが売り切れた。だけど――

 シャルルが昔手を回してくれた新聞記事のおかげで、店の知名度は上がっていたけれど、若い女性客の目当てはパンではなく……どうも僕だった。マリーに店を任せたけれど、前ほど売れ行きが良くなくてなんでだろうと思っていたけれど、そういう事だったらしい。

 今日はたまたま時間が会ったから来れたけれど、僕も毎日こっちに顔を出すわけに行かないし、頭の痛い問題だった。

 事業拡大――確かにそれはうまく行ったように見えた。けれど、パン以外のもので付加価値がついている今の状態は危険だった。パンの質を考えると、それだけで十分付加価値がある物なのに。でも商売ってのはそういうもの。日の光がどこから当たるかで売れ行きが全然変わって来る。もし新規店舗を出すのなら、別の事もやってみないといけないのかもしれない。狙っているバルザックは高級住宅街。きっとまったく別のアイディアが必要だ。

 ――昨日、アリスが僕に教えてくれた案……ちゃんと考えてみようかな。上流階級の人間が何を好むかなんて、僕には分かりっこ無いからな……

 そんな風に思いながら僕はマリーが用意してくれた目の前のパンを齧って、勢い余って頬の内側の肉を噛む。

「っつ!」

「あぁ、そんなに思い切りかぶりつくから」

 僕は苦笑いする。……ここのところずっとアリスの焼いたパンを食べてたから、噛む加減が分からなくなってるらしい。

「そんな堅いパンばかり食べてるのかい? この間パン屋さんが言ってたんだよ。お嬢様がパンの焼き方を教えてくれって言ってきたとか。お嬢様、無理に食べさせてるのかい? 実験台? 

そう言えばちょっとやつれたような……」

「ちがうよ」

 それは誤解だ。僕は彼女が捨てたパンがどうしても気になって、それらがゴミに出される前にと、いくつか拾って昼ご飯にしている。彼女は内緒にしてるらしくて、普通のゴミとは別のところに袋に入れてこっそり置いていた。だから逆に目立ったんだけれど。

 毎日食べて、日々上達してるのは分かる。最初は小麦粉の焦げたものが出てきて、次はどろどろで生焼けだった。その次は、真っ黒な炭の固まりで、その次は噛めないくらいの堅い、でもようやくパンとよべそうなものになり、今に至る。そうか、堅いのは酵母が入っていなかったのか。

「お嬢様は意外に健気だからねぇ」

「うん」

「大切にしてるってのは分かるよ」

「う、ん」

 なんだかこの雰囲気は……この間のお説教に似てる。マリーは隣の部屋にいる父を気にしたのか小声で言う。

「この間食料を届けにお城に顔を出したんだがね、――アリスお嬢様、あんたの部屋で寝てらしたみたいだね」

「覗いたの?」

 思わず不満が漏れる。それは行き過ぎだろう。

「いや、掃除を手伝っただけだよ。そしたらベッドの上に長い髪の毛が落ちてたんだ」

 マリーはいけしゃあしゃあと言う。

「お嬢様は寂しがりやだから……気持ちは分かるんだがね……」

 マリーはどうもはっきりしない。この間も途中になっていた話だった。僕は先に口を出す。

「彼女と寝るなって言いたいんだ?」

「いや? それはもう私が口を出す事じゃないよ。私が言いたいのは――子供の事だ」

 一瞬、雷に打たれたかと思った。

「きちんとしてるのかい?」

「……」

「考えた事も無かったって顔をしてるね」

 実際、そうだった。殆ど意識していなかった。

「お嬢様が今〈母親〉になれると思うかい」

 微かに首を振る。――彼女の傷は、癒えていない。

「あんたがやってるのは、子供を作る行為だってこと――よく頭に刻んどきな」

 鋭い茶色の目の前に、僕は頷くことしか出来なかった。


 *


「……あぁ…………」

 あたしはオーブンの重い鉄の扉を開けて、がっくりと肩を落とす。

 ……途中まではね、良い匂いがしてるような気がしてたのよ。だけど……途中から煙がオーブンの隙間から出てきて……嫌な予感はしてた。

 目の前に現れたのは見るも無惨に焦げた何か分からない固まり――の下にパンのようなものがある。

 今日は見事膨らんでくれたみたいだけど……その上にある真っ黒で炭になった何か

――多分前はマルメロだったんだと思う――

に押しつぶされるようになってて……とても美味しそうには思えなかった。

「もう夕方なのに」

 朝から取り組んで――さっきオーブンから煙が上がり出してから慌てて窓を開けると、もう窓の外は夕焼けの色になっていた。

 もう夕食の時間。焼き直す時間は無い。

「あ~あ。今晩はご近所に分けてもらわないといけないのかしら……」

 ご近所って言っても、田舎なので馬車で出かけるくらいの距離。リュシアンはたまに領地の民からお裾分け――領主なのに変なんだけど、彼はとても慕われてるみたいで――を貰ってきてくれるけれど、それは当然毎日ではない。

 実質、マリーがたまに持ってきてくれる保存食とパンで過ごしている状態だった。今日はマリーは来なかったし、この間貰ったニシンの塩漬けももうなくなっちゃった。あたし、好物だったから……食べ過ぎちゃって。……うん、食べるものが無い。

 あたしは慌てて、戸棚を探る。そしていろいろ探しまわった結果、さっき拾った栗を思い出す。

「……こ、これ」

 ゆでる? 焼く? 

どっちか悩んだけれど、とにかく焼いてみようと周りのいがごと暖炉に放りこんだ。火が舞い上がって髪を焦がす。

「あつっ!」

「――アリス?」

 風のように舞い込んできた声に振り向くと、リュシアンが慌ててあたしを抱きかかえた。

「どこ? どこを火傷した!?」

「だ、大丈夫よ、ちょっと火の粉が髪に付いただけ」

「火で遊んじゃ駄目だよ!」

「遊んでなんか無いわよ!」

 なによ、その子供に言い聞かせるみたいな! しっつれいね!

 リュシアンはあたしの文句をさらりと流すとあちこち確かめてようやくあたしを離し、ほっとした笑みを浮かべる。

「あー……何ともなさそう、よかった」

 その笑顔であっという間に怒りが消える。

「……あ、えっと…………そうだ、お帰りなさい」

「ただいま」

 彼の目がテーブルの上に止まるのを見て慌てた。

 あ、駄目よ!

「――見ないで!」

「アリスが焼いたの? これ? 昨日言ってたヤツ?」

 驚いた顔は、感心してるように見えた。

「そ、そうだけど……失敗しちゃった」

 そう言ったとたん、なんだか鼻がつんとした。パンを焼いてるのは内緒だった。――見られたくなかったのに。だから前の失敗作もこっそり袋に入れて隠して捨てたのに。

 リュシアンはテーブルからパンをとるとあたしが止めるのも振り切ってかぶりついた。

「駄目よ!」

「……これ……」

 リュシアンはなぜかその目を輝かせている。

「アリス、これとっても美味しいと思う」

「うそ」

 そんな訳無いじゃない!

「確かに……この真ん中の――これは庭のマルメロかな? ――は、ちょっと焦げちゃって苦いけどさ……ほら、ここの砂糖がかかったパンの部分」

 言われて少し食べてみる。

「甘い……」

「それにふわふわだ――アリス、これ、もうちょっと改良したら新しい商品になるかもしれないよ。例えば、マルメロもジャムにして乗せればいいし、代わりに干した葡萄とか栗とか、もっと水分の無いものを入れてもいいかも」

 にっこりと微笑まれて、あたしは目を見開く。

「これが? こんなのが?」

「君は多分、発想がいいんだと思うよ」

 しばらく呆然としていたけれど、後ろでぽんと栗がはじける音がして振り向く。そういえば良い匂いも漂ってきていた。

「あ、栗が……」

「それじゃ、夕食にしようか? 今日は豪華だな。君のパンに、焼きぐり。あ、それから今日は家に寄ったんだ。マリーが少し食べ物もたせてくれたよ」

 リュシアンが笑う。なんだか別の意味で鼻が痛くなってきたけど、あたしは鼻をすすってそれを誤摩化した。


 *


「ねぇ、リュシアン」

「なんだい」

「あたしね、……早くリュシアンのお嫁さんになりたいの」

「……」

「だからね、あたしも頑張る」

「君は十分頑張ってるよ」

「でもパンも焼けないし」

「焼けてたよ、美味しかった。僕のために毎日ありがとう」

「毎日? お料理は今日が初めてよ?」

「あ、いや、掃除とか洗濯とかね」

「明日は別の料理も頑張るから!」

「うん。……でも程々にね、――火事になったら大変だ」

「もう!」

「――アリス。僕も頑張るから。早く君をお嫁にもらえるように。幸せにできるように」


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