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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第四章 優しく残酷な魔法
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39 どこまでも続く空のように

 雷が鳴った。

 黒い影があたしを襲う。まとわりつく闇を振り払う。逃げ場所も分からないまま走る。必死だった。影はあたしを捕まえる。その中でもがく。

 だめなの。あたし、おかあさまに怒られちゃうから。

(だいじょうぶだよ。アリス。もう君を怒る人間なんかいないんだ)

 影はいつもと違って優しかった。あたしを殴ったりしなかった。無理矢理に押さえつけたりしなかった。あたしの髪をそっと撫でて、頬にキスをして、暖かい声で囁いてくれた。

(君が必要なんだ。君じゃないと駄目なんだ。君は、僕の――)

 気がつくとその腕は暖かく、ちゃんと人の温もりをもっていた。



 目を開けると、リュシアンが隣にいた。彼は眠っていた。長い長い睫毛がなぜか傷だらけのその頬に影を落としている。

 あれ? これって夢のつづき? だって――なんだか……妙にドキドキで素敵な状況みたいなんだけど。

 広いベッドの上。息がかかるくらい近くに彼のきれいな顔があって、その腕があたしの体に回されている。やっぱり死んだのかもしれないわ、あたし。だって、その暖かさはまるで天国みたいだった。そう思って頬をつねる。痛かった。でも妙な違和感を感じた。頬に触っても、つるつるで、覆っていたはずの毛も髭も無い。

 え? あたし、人のまま? あの薬、ってそんなに長い効き目があるんだったかしら?

 シーツの中を覗き込むと、長い手足。あぁ、よかった、服は着てる。え? あたしなんでそんな事気にしてほっとしてるの?

 目が覚めるとともに、今まで気にしなかったような事が気になって仕方が無くなっていた。こうして二人で並んで寝た事なんか数えられないくらいたくさんあるのに、なんだか凄く落ち着かない。この感覚って、あたし……一体どうしちゃったの!

 とりあえず心臓に悪いこの状況から逃げ出そうと身じろぎしたとたん、ぴくりと彼の瞼が震えて、一気に腕の力が増した。耳元に「逃がさない」という微かな声。そして抱きしめられたかと思うとそのままベッドに押し付けられた。

 あれ? あれ? あれれ? ちょっと――――!


「アリス、気がついたの? ……あらぁ、お邪魔だったかしら」

 聞き慣れない声が上から降り掛かって、リュシアンを押しのけるとあたしは飛び起きる。た、助かったわ。あ、でも、起こしちゃったかしら? そう思って、ちらりと彼を見る。彼はまだ眠ったままだったけれど、少し悲しげに眉を寄せてあたしの手を握り直した。

 安心するとともに、声の主を見て、腰を抜かしかけた。

 あ、あんた誰!

 そこには一人の紳士が立っていた。背が異常に高く、すらっとして、目鼻立ちがくっきりとした中年の紳士。髪は白髪が大部分を占め、目尻には深い笑い皺が刻まれている。一見怖そうなのに、口ひげの先がくるんとしていてなんだかちょっとお茶目だった。

 彼が口を開くと低くて渋い声が、渋い声が――

「アリス、良かったわぁ! どうやらもう、完全に人間に戻ったみたいね!」

「……あ、あの、どちらさまでしたっけ?」

 すごく嫌な予感がした。この口調で話す人をあたしは一人しか知らないのよ。

「な、何よぅ! どうして分からないって言うのよぅ!」

「ま、まさかだけど…………シャルルだって言わないわよね?」

 紳士は顔を真っ赤にして目をうるうると潤ませている。とても気味が悪い。どうしようもなく気味が悪い!

「まさかじゃないわよぅ! シャルルよぅ。私に決まってるじゃない!」

「う、うそ……」

「走り回った上に、魔法使い過ぎて痩せちゃったわ! ウフフ、でも運動もいいわね! 身も心もすっきりよぅ!」

 そう言いながらシャルルは指先で小さな銀の腕輪をくるくる回す。それは確かに彼の首に嵌っていたあの腕輪。

 なんだか凄い敗北感だった。騙されたわ……最初見た肉のお化けみたいなあれは一体なんだったの。あぁ……頭痛くなってきちゃった。


 気を取り直してようやく周りを見回す。そこはリュシアンが出て行ってから一度も入らなかった、以前の彼の部屋だった。

 部屋はきれいに掃除されていて、窓もピカピカ。花まで飾られている。まるで彼が帰ってくるのを待ち望んで居たかのよう。誰が一体掃除してくれたのかしら。ジョアン? 他にはいないわよね?

 不思議に思いながら、一番の謎を口に出す。

「で、あたしはどうしてこんなところでこうしてるわけ?」

 あたしはまだ纏わりつこうとするリュシアンの腕を避けるとベッドの脇に腰掛けた。本当はベッドから離れたかったけど、彼の手はあたしの手をしっかり握っていて、それはどうしても剥がす事が出来なかった。

「うん、死にかけてたのよぅ、二人とも。その姿のままってことは、もう忘れては無いと思うけれど……火事に巻き込まれたのは覚えてるわよね?」

 あたしは頷く。あたしの過去の事。猫になった夜の事。あの火事の夜に、全部あたしは思い出した。心が壊れそうだった。辛くて苦しくてたまらなくて、どこかに落ちて行ってしまいそうな『あたし』をリュシアンが拾い上げてくれた。彼となら、いくら辛くても生きて行ける。そう思った。でも、あたしは……死んだはずだった。リュシアンだけでも助かってくれればいいって思って、彼だけを逃がしたはずだった。

「リュシアンがね。窓を破ったのが良かったのよ。もしああしてなかったら、あなた煙を吸いすぎて死んでたわ」

「窓?」

 でもあの窓、猫が体当たりしても人間が体当たりしても……数枚しか割れないくらい丈夫だったのに。リュシアン……ネズミの体で頑張ったっていうの?

 あたしが目を丸くするとシャルルは頷いた。

「リュシアン、全身の骨がひびだらけらしいのよ……。だから今は痛み止めを飲ませて無理矢理眠らせてるわ。まあでも、若いしすぐ良くなると思うけど」

 シャルルがにやにやと笑みを深める。目線を追うと、あたしとリュシアンの握り合ったというより、絡み合った手。それに気がついて急激に体温が上がる。ああ、なんだか見られるのはとっても嫌なんだけど!

 振り払おうと思ったけれど、起こしてしまいそうだったのでやめておいた。でも、じっとその手を見ていたら恥ずかしくなって来て、慌てて目をそらす。どうも、起きた時から感覚が変。目や耳や肌でリュシアンを感じるたびに胸が壊れたようになってしまう。気を逸らそうと話の続きを促した。

「そ、それで、それから? どうして助かったの?」

「それはねぇ、――マリー」

 シャルルがそう名を呼ぶと、懐かしい人物が扉から現れた。

「あ」

「おじょうさま……本当に良かった」

 マリーはそう言うとあたしをぎゅっと抱きしめて泣き出した。このたくましい手。あたしが具合が悪い時にそっと頭を撫でてくれてた、手だ。

「どうして? マリー、あなた、だって」

 彼女がこんなところにいるのはおかしいのよ。彼女はあたしがあの家に行く前からずっと仕えていた忠実なメイドなんだから。

「あなたを逃がしてクビになったんです」

 そう言う割に彼女はニコニコとしていた。

「彼女がいなかったら本当に危なかったのよぅ。私ねえ、部屋が燃えだしてからベランダで一生懸命魔法陣を描いてたのよぅ。でも……雷の魔法で窓枠を壊したのはいいけど、いくら頑張ってもあなた達二人を抱えて逃げるなんて芸当出来なくて。立ち往生してたら消火に来た彼女が拾ってくれたの。凄いわよねぇ! その腕! 惚れちゃったわ!」

 マリーはその力強い二の腕の力こぶをぐいと盛り上がらせるとニカッと笑った。

「お屋敷がぼや騒ぎのうちに逃げ出してきました。ああ、そうそう、火事はあの部屋だけで済んだんですよ。結局火の不始末ってことでもみ消して落ち着いたみたいですけれど。あんな家、もう戻る気にもならなくて。本当にあんなところでよく我慢したと思いますよ。清々したんですが、勤め先がなくなってしまいましてね。――雇っていただけますよね、おじょうさま」

「え?」

 って言われても、あたしそんな権限一つももってないわよ。家出したただの野良猫……でもなくなっちゃったみたいだし。

 シャルルの方を見ると、彼はにっこりと頷いて言う。「リュシアンの体調が整ったらゆっくり話してあげるわ。今は黙って頷いてて」

 あたしが腑に落ちないまま頷くと、「じゃあ、あとは若い人だけでごゆっくり」と言ってシャルルがマリーを伴い部屋を出て行こうとする。あたしはどうしても聞きたい事があったから彼を引き止め、顔が赤らむのを止められないまま尋ねた。

「なんで……同じベッドなの」

 小さな声で当然の質問をぶつけると、シャルルがにやりと笑う。

「リュシアンが離さなかったのよぅ。全身傷だらけで意識を失ってるって言うのにね。だから一緒にベッドに突っ込んじゃっただけ。看病も一度に出来て便利だし。……あ、さすがに重症だからあなたが心配してるような事は無いわよぅ」

 不安を言い当てられてぐっと詰まった。だ、だって、知らないうちになんて、嫌だったんだもの。ああでも、なんでこんなに恥ずかしいのかしら。前はそういう話をしても全く平気だったっていうのに、今は平気だったって事の方が驚きだった。

 そんなあたしを見てシャルルが嬉しそうに言う。

「……ほんとに『人間の女の子』になっちゃったわね。良かった。おめでとう、アリス」

 そうか。そういうことなのね。あたし人の感情を取り戻したんだ。人に戻れたんだ――

 実感して胸がじんと熱くなった。その喜びの感覚の大きさに驚く。失ってたのは、怒りや悲しみだけじゃなかったんだ。

 削ぎ落とされていた感情が芽吹き、徐々に膨らんで、心がどこまでも続く空のように広がっていく気がした。



 シャルルが出て行って、あたしはじっとリュシアンの顔を見つめる。傷だらけのその顔。勿体ないわ、せっかく綺麗な顔なのに。そう思いながらも、彼がどれだけ必死だったかが窺えて、嬉しくて涙が出そうになる。

 見つめてると、好きっていう気持ちが溢れ出して止められないような気がした。傍にいるだけで苦しくなるような感情なんか、あたし、知らなかった。今までだって好きだったはずなのに、まるで別の感情にも思えた。

 ふぅと息を吐くと外を見つめる。青い、雲一つない空。からりと乾いた風が窓から流れ込んで、あたしの頬を少しだけ冷ます。繋いだ手が熱くて、溶けてしまいそうだった。

 あたしはそのまま、夕日が窓から差し込むまで、彼の傍に寄り添って彼の顔を見て過ごした。彼がその瞳を見せてくれるのをずっと待っていた。



 やがてその瞼がぴくりと震え、長い睫毛の間から青い青い澄んだ瞳が現れた。瞳の中にあたしの顔が映ると、彼はベッドから飛び起きる。

「あ、あれ? アリス? ――――うっ」

「だ、だめよ、骨が……」

 言い終わる前に彼はあたしを引き寄せて思い切り抱きしめた。

「――つっ」

「ば、馬鹿ね! 骨にひびが入ってるんだってば! 離して! 痛いんでしょう?」

「痛いよ……だから――夢じゃない! 君、戻ったんだよね? 人に! 薬のせいじゃなくて? あれ、そういえば何で僕たちは生きてるんだ?」

 あれだけ見たかった瞳を今は直視できなかった。あたしは彼の腕の中で俯いたまま一つ一つ問いに答える。答えながらも全身をリュシアンに包み込まれて、体のあちこちがどくどくと脈打っている感じだった。ああ……も、もう限界。

「りゅ、リュシアン……は、離して。あたし……おかしくなっちゃう」

 そう言って顔を上げる。リュシアンは怪訝そうに顔を歪め、あたしの顔をまじまじと見て目を見開いた。

「アリスが真っ赤なのって初めて見たかもしれない」

「こ、これは夕日があたってるだけなのよ! とにかく離して!」

 叫ぶような声になる。リュシアンは何かを考えるような顔になり、ややしてあたしの頬に手をあてる。目を覗き込まれて、さらに体温が上がった。

「離さないよ。幸い、もう夜が来るんだし」

 その宣言にぎょっとする。それって、つまり、そういうことよね?

「だって、リュシアン怪我人だし」

「平気だよ。折れては無いみたいだから、我慢できる」

「それに、えっと、シャルルが聞き耳立ててるかもしれないしっ」

「……いくら何でも遠慮すると思うよ」

「え、えっと、えっと」

 頭が爆発しそう! この押しの強さってなによ! ホントにリュシアンなの? 誰か別人が変身してるんじゃないでしょうね?

「……嫌?」

 一転して悲しそうに陰る瞳に、いつもの癖で反射的に答えた。

「嫌なわけないでしょ!」

 あ――言っちゃった。も、もう駄目だわ。万事休す。なるようになれだわ! そうよね、プロポーズされたんだし、いつかはそうなるんだし! あたしは動揺するあまりに泣きたくなりながらも、覚悟して目を瞑る。

 そのままゆっくりと一呼吸する。でも何もやって来なかった。代わりに頭にポンとその大きな手が乗る。

「アリス」

 目を開けると、柔らかい笑顔があった。

「リュシアン?」

「嫌な事は、素直に嫌って言うこと。その事で君を嫌いになったりはしないよ。……僕は今度こそ、君が望むまでは何もしないから」

 彼は自嘲するように笑った。青い瞳の中で熱が渦巻いていて、彼が相当に我慢してるのが見て取れた。

「なんだか色々順番が逆になっちゃったけど……あの時の事、ずっと謝りたかった。ごめん、アリス。もう絶対に無理にあんな事しないから。許してくれるかい?」

 青い瞳が甘く揺らめく。

 許すもなにも……あたし……今ならあの時のリュシアンの気持ち、分かるような気がする。あたし、リュシアンが欲しい。頭の隅では、さっき言ったみたいにリュシアンの怪我の事とか、シャルルの事とかごちゃごちゃ考えちゃうけど、なんだか次第にどうでも良くなって来る。お腹が空いてる時に、好物のケーキを目の前に出されたような気分になっていた。

 も、もしかして、あたしって発情してるのかしら。そう気がついて、さらに顔が赤らむのを感じた。猫でもないのに? あ、でも人間だって動物よね。

 こういう時に言うべき言葉をいろいろと考えるけれど、どんな言葉で答えようとしても恥ずかしくって、あたしは結局、彼の問いにキスで答えた。


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