38 こんな結末は、許さない
「ごめんなさい、ごめんなさい、おかあさま、ごめんなさい」
アリスはまだベッドで頭を抱えたまま、ひたすらにそう呟いていた。その姿は幼子のように弱々しく、儚げで、今にも消えてしまいそうだった。
彼女をそっと抱き起こすと、腕の中に抱える。あんなに大きく見えていたアリスが今はこんなにも小さい。いつ魔法が解けたのかも分からないくらい、僕はショックを受けていた。
僕が触れると、アリスは体を硬直させた。今の彼女はどこか別の世界にいて、僕が誰なのかも分からないようだった。
「アリス。アリス!」
囁くように、でも叫ぶように名を呼ぶ。
「いい子にしてるから! 何でも言う事聞くから! だから――」
「アリス!」
僕は彼女を抱く腕に力を込めた。涙が彼女の肩に落ち、白い布に染み込んで行く。それと同時に彼女の体からふっと力が抜けた。
「……リュシ、アン? どうして?」
彼女の涙を親指で拭うと、その銀の髪を撫でる。そして彼女の心が少しでも暖まるようにと、懸命に微笑んだ。
「君を攫いに来たんだ」
彼女の瞳の中で炎が揺れる。
「逃げよう。ここから。僕と二人で」
その大きな瞳がこぼれ落ちそうだった。彼女は震えるように首を横に振る。
「あたし、いらない子なんだって。あたしがいるとおかあさま、幸せになれないんだって。だからおかあさまが決めたあの人と結婚して家を出なきゃ。そうしたら……きっとおかあさま、また笑ってくれる。そうしてあたしのこと許してくれるんだから」
その口調は幼い少女のようだった。彼女は昔の彼女の顔で僕に訴える。僕の声はまだ届かない。炎さえ見えていないようだった。自分が殺されようとしている事も、分からないのかもしれなかった。受け入れられないのだ、その現実を。彼女は、ずっと昔からそうやって、何もかも我慢してでも母親の愛を求めて来たのだ。
どこに怒りを向ければいいか分からない。どうにもならないもどかしさに唇を噛む。
僕は右手を上着のポケットに手を入れる。そして最後の可能性をぎゅっと握りしめた。
左手で乱れてしまった彼女の髪を梳く。心の隅でもしかして、と思った事はある。でもすぐに否定してしまっていた。君はあまりにも綺麗になっていたし、その上髪の色まで違っていたから。――ごめん、ずっと、ずっと気がつかなくて。
聞いた事がある。絶望して、髪が一夜にして白髪になった人の話を。
アリスの髪は、さっき見た『母親』のようにもっと暖かい色のブロンドだったはずなのだ。そこにいるだけで誰もが眩しくて目を細めるような太陽の色だったのに、今は――
ポケットからリボンを取り出し、彼女の冷めた月の色の髪を緩く束ねる。アリスは不思議そうにそれを見つめ、問うように僕を見上げた。
僕は記憶を探って、出来るだけ正確に、言い聞かせるようにその言葉を連ねた。
「いらないなんてこと無いよ。みんながそう言ったって、僕は君がいてくれたほうがいい。なんなら僕のうちにくればいい」
彼女の目が見開かれる。虚無しか映さなかったその瞳に一筋の鋭い光が宿った。
「……え?」
昔は互いに幼すぎて伝わらなかった、約束の言葉。あの時は、貧乏を理由にさらりと断られてしまったけれど、今度はそんなに簡単に引くわけにはいかない。畳み掛けるように、僕は言った。
「僕のうちは貧乏だけどね。……アリス。僕には君が必要なんだ。僕がずっと君を支える。だから……結婚なら僕としよう」
僕が母親の分まで、君に愛をあげるから。家族として、そして恋人として。両方の愛をあげるから。だから。
彼女の目に涙が次から次へと浮かび上がる。それは何かを洗い流すかのように止めどなく流れ続けた。
唇で彼女の涙を掬う。右頬、左頬、鼻先。そして、最後にそっと唇に触れて、緑色の瞳を見つめた。もうそこにあった怖れは涙に流されていた。
「リュシアン……本当に?」
僕は力一杯頷く。
返事を待つ僕の前で、やがてアリスは口を開く。涙が混じった声にはいつもの調子が少しだけ戻ってきていた。
「あたし、ホントは貧乏は嫌よ」
ああ、またもや断られるのか。やっと言葉が届いてほっとしつつも、がっくりと肩を落とす僕に、アリスは僕の待ち望んだ柔らかい笑顔を浮かべて言った。
「……でも、リュシアンならいいわ」
アリスがそう答えた直後だった。
炎が背中で突然大きくなる。見ると絨毯の火がついにベッドまで辿り着いていた。
「うわ!」
僕はアリスを庇って窓際へと移動した。唯一の出口である扉の方を見やったけれど、最初に火が上がったそこは、大きく焼けこげてとても辿り着けそうになかった。窓から逃げようとして愕然とする。「開かない!」
「鍵、内側には付いてないみたいなのよ!」
「ええ?」
なんて事だよ! 僕は焦る。ようやく彼女を取り戻せたって言うのに、こんなところで死んでたまるか!
窓に体当たりをするけれど、一部の窓硝子が割れるだけで、頑丈な窓枠はびくともしなかった。何か道具は……と、部屋を見渡す。そしてベッドの上に転がっている魔法薬の壜を見つけた。
あ、あれだ! あれは使えるはず!
僕は火をよけながら駆け寄ると、それを手に取って一粒取り出す。そして、アリスに手渡そうとして、首を傾げた。
……え、アリスの今の状態って……?
今、アリスは『魔法薬を飲んで、人の姿をしている』のか? それとも『もう完全に人の姿に戻っている』のか? 僕は、彼女の呪いを解く事が出来たのか? もし呪いが解けていないとして……今魔法薬を飲んだらその効力は、二重に働いてくれるのか?
疑問が急激に湧いて来て頭の中で駆け回るけれど、答えは出ない。
僕は、そういえば、とシャルルの姿を探す。目を凝らすけれど、さっきシャルルが魔法陣を描いていた場所には炎が上がり、彼の姿はどこにも見当たらない。まさか大人しく燃えてるとは思えないし、どこかに避難したのかもしれない。
取りあえずは、やってみよう。時間が無い。考えるのは後だ!
僕は彼女に魔法薬の壜を渡して言う。
「ネズミになるんだ」
「え?」
彼女は怪訝そうにするけれど、結局魔法薬を飲み込んだ。変化は、無い。
アリスは少し考え込む。
「ああ……さっきの魔法薬がまだ切れてないのかも。たくさん飲んじゃったし」
どうなったのかは、薬が切れるまで分からないってことか。じゃあ、どうする?
焦る僕の前で炎がどんどん大きくなって行く。煙が天井に溜まり、僕たちを押しつぶそうとしていた。
アリスは、深刻そうな顔をしていたけれど、ややして急に覚悟を決めたような顔をした。
「リュシアンだけでも、逃げて。あなただけなら、この薬で逃げられるもの!」
「何言ってるんだ! 君を置いて逃げられる訳ないだろう! ――まさか死のうなんて考えてないだろうな!」
僕が怒鳴ると、アリスは少し困ったような顔をする。
「だから、一緒に逃げるの! 一旦外に出て、鍵を開けてくれればいいの!」
ああ、そうか、その手がある……って、駄目だ!
「駄目だよ。それじゃ」
鍵は人の手でないと開けられない。僕がネズミになれば、誰がその鍵を開けるんだ! 頭が働いてる事にほっとした。危なかった。
そんな僕を見て、アリスはふっと微笑む。聞き分けの無い子供に困ってるようなそんな表情。一瞬子供に戻ってあやされているような気分になり、怯んだところを彼女の突然のキスが襲った。
「!」
じゃれるような猫のキスではなかった。そのあまりの甘さに足の力ががっくりと抜けた。その場に座り込むと口づけがさらに深まった。
――今は、そんな事してる場合じゃないんだ! あとでいくらでも付き合うから!
抵抗して、押し返そうとして、ふと、絡まったその熱に気を取られた。それはほんの一瞬だったけれど、一生の不覚だった。僕の喉を、一かけらの異物が落ちていく。
「――――!」
気がついた時には、僕はネズミの姿になっていた。
彼女は僕を掴むと、割れた窓から外に投げる。
僕はベランダに着地すると慌てて窓枠に駆け寄った。窓の向こう側でアリスがしゃがみ込んで、咳をしている。割れている箇所を探すけれど、既にほとんどが炎に包まれていて、無事な窓は遥か上の方にしか無い。よじ上ろうとするけれど、慣れない体では滑って全然うまく行かなかった。
窓を叩く。必死で叩く。「何やってるんだよ!」
そう怒鳴りながら、今度は窓枠の鍵を探すけれど、そんなもの見当たらない。よくよく見ると、窓ははめ殺しになっていて、今までに開けたような形跡などどこにも無かった。
「開かない!」
アリスにそう訴えるけれど、彼女は窓の向こうで笑っていた。まさか、知ってて?
「あぁ、やっぱり開かないのね、この窓って。開けてくれないからなんでかなって思ってたの。それはそうよね、檻なんだもの、この部屋。逃がさないんだったら、開かないのが一番だわ」
彼女は妙に落ち着いていた。その緑色の瞳は、凛として揺るがなかった。それがひどく気に障る。この雰囲気は――そうだ。あの、月食の木の下と同じだ。自分の身を顧みずに戦ったあの時と同じ。
「アリス!」
「リュシアン、あたしね、さっきの言葉、すっごく嬉しかったの。だから……ごめんね」
いや、同じじゃない。あの時は生きるために戦ったのに、今、彼女の顔には死の色が漂っていた。そして彼女は、あの時とは全く違う言葉をその口から放った。
「一緒には死ねないわ」
「だめだ!」
僕は地の果てまででも君を連れて逃げるつもりなのに、君はまたそうやって僕から逃げようとするのか? 今度は、本当に手の届かないところへ行ってしまおうというのか!
「あたしを救ってくれて、ありがとう」
彼女は僕の心に刻み込むような笑顔を浮かべると、苦しそうに胸を押さえてその場に倒れ込む。
――アリス!
僕は窓に体当たりする。窓はびくともしない。体が軋む。全身の骨が悲鳴を上げる。それでもぶつかり続ける。
駄目だ。こんな結末は、許さない。アリスは死なせない。
僕たちはまだ何も始まってない。これからだ。僕はもう運命だからと流されたりしない。自分の欲しいものは自分でつかみ取ってみせる。僕には、それだけの力がきっとある。絶対に助けてみせるから、だから――君も諦めないでくれ!
何度目かの体当たりの後、硝子が割れ、僕は外気とともに部屋に転がり込む。割れた硝子で体に無数の傷が走る。
血まみれのまま、僕は彼女の脇に駆け寄り、そのまま彼女の手の中に倒れ込んだ。その指先にキスをして、ぎゅっと抱きしめる。この手をもう二度と離したくはなかった。
炎が迫り、とうとうカーテンにも火が着いた。そして黒い煙が僕とアリスを襲い、あとは何も分からなくなった。