37 唯一の宝物
あたしはいつも寂しかった。
たったひとりのおかあさん。いつもやさしかったおかあさん。大好きなリボンで髪を結ってくれたおかあさん。あったかい声で歌ってくれたおかあさん。夜寝る前にたくさんのおとぎ話を聞かせてくれたおかあさん。
おとうさんが死んでしまって、おかあさんはどこかおかしくなってしまった。さみしくてさみしくて、あたしのことまでかまえなくなってしまった。新しく愛をくれる人をさがしていた。あたしの愛だけじゃ全然足りないみたいだった。
ほんの少しでも、おかあさんがあたしのことを見てくれたら、それだけで嬉しかった。怒られるのはあたしが悪いんだって思ってた。あたしが悪い子だから、おかあさんは怒るんだって思ってた。だからしょうがなかったの。いい子にしてないといけないの。おかあさんが笑っていられるように、毎日ごきげん取りに必死だった。『あたしらしさ』なんか必要なかった。あたしはおかあさんが気に入る事だけをする、ただのお人形だった。
でも――あれは、いつだったのかな。多分、あたしが十歳くらいの頃。
その頃おかあさんには恋人が出来ていて、そのせいか毎日ごきげんだった。おかあさんはその日、男の人とのデートがあるからと、あたしを家から追い出した。じゃまだってそう言って。あたしは大人しく広場の噴水の縁に一人でぽつんと座って、デートが終わるのを待っていた。
いろんな男の人があたしに話しかけて来た。おかあさまは、面倒に巻き込まれたくないから知らない人について行っちゃ駄目、特に男の人には注意しなさいって言ってたから、あたしは彼らを無視してた。そういう事はよくある事だったから、あしらいかたも覚えていた。
そんな中、空の青をもっと深くしたような青い目をした男の子が、おずおずとあたしに話しかけて来た。寂しそうにしてどうしたのって。あまりにも慣れていないそぶりに少しだけ興味を引かれた。
おかあさんが買い物に行ってるから待ってるだけってそうごまかしたのに、男の子は変わらずあたしを心配してた。「すごく、悲しそうだ」って。
あんまりにしつこいから、少しだけっていう約束で、一緒に遊んだ。彼は、デートしようって言う他の男の子とは違って、普通に子供らしい遊びをあたしと楽しもうとしてるみたいだった。それが不思議で新鮮だった。
かくれんぼに追いかけっこや、石けり。したことのない遊びばかりで最初は戸惑ったけど、すごく楽しかった。なにより、その笑顔に固く冷えきっていた心がほぐされた。
それから、おかあさんがデートの時は、必ずその男の子に遊んでもらってた。
そうやってあたしたちは少しずつ仲良くなった。小さなけんかが出来るくらいに。
あたしはその子の前では自分のやりたい事を主張できた。彼は、あたしのわがままに腹を立てながらも、「でも、君らしい」ってどこか嬉しそうだった。変に気を使ってこびたりすると、そっちの方が気に入らないみたいだった。
男の子はどんなくだらない話でもいつもまじめに聞いてくれた。それがあんまりうれしかったから、ついついおうちのこととか、おかあさんの事とかを話してたら、なんだか悲しくなって来て、言ってしまった。悲しすぎて誰にも話せなかったこと。「あたし、いらない子なんだって」って。言葉がこぼれたとたん、心がこわれそうだった。
でも、すぐに、男の子が温かい言葉であたしの心を包み込んで守ってくれた。
「いらないなんてこと無いよ。みんながそう言ったって、ぼくは君がいてくれたほうがいい。なんなら僕のうちにくればいい」
男の子はすごく恥ずかしそうに顔を赤らめて、でも一生懸命にそう伝えてくれた。
びっくりした。とっても嬉しかった。でも彼のうちには、あたしを養うような余裕は無いはずだった。だから、心配でつい言ってしまった。
「でもあなたのおうち、『貧乏』なんでしょう?」
男の子はそれを悪口だと思ったみたいだった。
「……そうだよ。君みたいな『おじょうさま』には、そんな暮らし似合わないか」
そう言って、悲しそうに口をつぐんでしまった。
あたしは、彼が本当に怒ってしまったのを感じて、しゅんとしてしまった。
謝らないとと思って、そんなつもりじゃなかったの、そう言おうとしたところにおかあさんがやって来て、あたしを殴った。何度も殴られて、髪を結っていたリボンがほどけて落ちるころ、ようやくおかあさんの気が済んだ。口より先に手が出るのはいつもの事。だから仕方ないわと思って、男の子に微笑みかけた。でも彼の目は恐怖で固まっていた。
おかあさんは男の子を見るとあたしに向かってどなった。
「こんな小汚い子供と遊んじゃ駄目!」
なんてひどいことを言うんだろうって、男の子に悪くて、顔を見る事が出来なかった。すごく恥ずかしかった。逃げるようにして家に帰った。もう会えないって思った。そして、それはその通りになった。
その後、おかあさんは恋人と別れて、デートをしなくなってしまった。あたしは家を抜け出せなくなった。そして、あたしが再び広場に行けるようになった時には、もうその男の子を見つける事は出来なくなってしまった。だって、あたしは、彼の名前も、住んでいるところも知らなかったのだ。
おかあさんの行動は相変わらずだった。不機嫌であたしを殴ったりご飯をくれなかったり。ご機嫌かと思うと、あたしを家から追い出したり。それは男の人とうまく行ってるかどうかに左右されてるみたいだった。辛くて辛くてどうしようもなかったけれど、あの男の子を思い出すと不思議と我慢できた。きれいな青い瞳はあたしの心の中で輝きを失わずに光り続けていた。
彼のあの言葉は心の支えだった。消えそうな『あたし』と現実を繋いでくれていた。何も持っていないあたしの、唯一の、宝物だった。
おかあさんはその後結婚した。しばらくはとても穏やかで幸せな日々が続いていた。やさしいおかあさんと、新しく出来たお父さん。
侯爵家の人間になるから、おとうさま、おかあさまと呼ばなければ怒られた。言い慣れないその言葉は、ただの記号のようだった。
あたしが『おかあさん』と呼ばなくなったからかもしれない。いつしかあたしの大好きだったおかあさんはどこにもいなくなってしまった。
おかあさまはあたしの事、本当にどうでも良くなったみたいだった。周りに世話をしてくれるメイドさんがいっぱいいたから、寂しくなんか無いと思ってたけど。
暴力をふるわれる事も、冷たい言葉をかけられる事も無くなった。今まで我慢していた分、我が儘を言っても、誰も怒らない。喧嘩にもならなかった。それは本当に穏やかな日々だった。
でもあたしはそこに居ないかのようだった。おかあさまはあたしに無関心だった。それは殴られるより辛い事だった。
そして、あの日。ひどい雨と風、鳴り止まない雷。家の外を嵐が渦巻いていた、あの日。
穏やかで空虚な日々にも終わりがやって来た。突然あたしの婚約が決まったのだ。
それは断る事の出来ない一方的な縁談だった。相手は、二十も年上のおじさん。でも、おかあさまは今までにないくらい嬉しそうで、その顔を見ているとあたしも嬉しくなって、断ることが出来なくなってしまった。おかあさまがあたしのことで嬉しそうにしてるのが、とにかく嬉しかった。その笑顔をずっと見ていたかった。
その夜、おとうさまがあたしの部屋にやって来た。そしてびっくりするような事を告げた。本当はあたしが欲しくて、おかあさまと結婚したのだと。
黒い影はあたしに襲いかかった。怖くて、怖くて。おかあさまに助けを求めた。そうしたら、おかあさまはあたしを殴った。結婚する前の『おかあさん』に戻ってあたしを詰った。
お前さえ居なければ、と。
そして、その日のうちに、おかあさんは魔法薬を手に入れて、あたしを猫に変えた。
「あなたは要らない子なの。だれもあなたの事を必要としていないの」
そう呪いの言葉を呟きながら。
猫になれば、もうこんなに悲しい事はなくなるのかしら。
あたしは、そう思ったのを最後に、人である事を辞めてしまった。