36 魔法よ、解けろ!
部屋に照明が灯される。ベッドの上で白っぽい丸い塊がゆるゆると猫の形に姿を変えた。
枕元には一冊の古ぼけた絵本がひっそりと置いてある。
「「――アリス!」」
僕の声に紳士の声が重なった。
「あれ……? リュシアンの声? ……そんなわけ、無いか」
尻尾が揺れている。アリスの眠そうな声が部屋に響き渡った。
「私だよ。アリス」
「ああ。『おとうさま』ね」
――おとうさま? では、この人が侯爵なのか。でも……主人ではなくて? アリスは……父親の事は父親として覚えているという事か?
シャルルを振り向くと、彼は訳が分からないというように首を振る。
一体どういう事だろう。アリスが主人と呼んでいる人物が、カルバン侯爵なのだと思っていた。しかし――侯爵は『おとうさま』らしい。となると、主人というのは母親ということか?
『――――おかあさま!』
ふいにあの夜のアリスの叫び声が脳裏に蘇る。同時に、不自然だったアリスの挙動も思い出す。
そうだ。うちに母親がいない事をアリスは少しも疑問に思わなかったのだ。一度も尋ねられなかった。「おかあさんは?」と。まるで……いないのが当たり前のように。
その事に思い当たって、背筋がすっと寒くなる。
母親は……アリスの実母だったはず……その実母を忘れて、義理の父親だけを覚えている? それは――?
あと少しで何かが形になりそうだった。もどかしくて、頭をガシガシと掻く。
そんな僕の前で、おとうさま、と言われた侯爵は、ゆっくりとアリスの寝そべっているベッドへと近づいた。僕が鼠のなりをしているせいかもしれないが、その背中はとても大きく見える。よく見ると、まだ若い。四十代前半? 下手すると三十代にも見えた。
茶色の艶やかな髪と、同色の口髭は綺麗に整えられ、きっと仕事帰りなのだろう、着ている服も上等の一張羅。どこから見ても立派な紳士だった。
彼は首に巻いたチーフを緩めながら、ベッドへ腰掛けると、アリスに微笑みかける。
「間に合って良かった。明日なのだろう? 式は」
「勝手に決められちゃったのよ。ほんと横暴なんだから!」
「ああ。私にも相談せずにな。まったくアイツにも困ったものだ」
「『おとうさま』も知らなかったの?」
アリスは怪訝そうに尋ねる。侯爵は困ったように微笑むと、胸のポケットから小さな壜を取り出した。その中には、あり得ないほどぎっしりと詰まった、魔法薬。それを見てようやく胸の内で何かがカチリと音を立てた。
「うーん。一体いくつ飲ませればいいのかな? とりあえず一晩は保ってもらわないとね」
侯爵は壜を傾けると、数粒の魔法薬を取り出し、その手の中に握る。
――――まさか
アリスが猫に変わった日、男は侵入しなかった。でも、一人だけいた。彼女を襲える男が。そうだとしても公にされない男が。そうだ、一番身近に。
まさか!
「アリス! 逃げろ!」
叫ぶ声は侯爵が壜をベッド脇のテーブルへ置く音に打ち消される。
「本当にどいつもこいつも私を差し置いてどういうつもりなんだろうね。――お前は、私のものだというのに」
目の前でアリスが少女に姿を変える。その上に覆い被さる黒い影。二つの影が折り重なってベッドに消えた。
うそだ。うそだろ。
頭を強く打ち付けたかの様で、体が上手く動かない。どうやったら走り出せるのか、分からなかった。
「いや! なに? おとうさま?」
アリスは必死でもがいてその体の下から抜け出して、枕元の絵本を手に取り胸に抱える。
「お前が私の相手を出来るようになるのをずっと待っていたというのに……何もせぬうちに横から奪われてたまるものか。私が、ずっと育てて来た。お前達親子を引き取ったのは、この日のためだというのに。『アイツ』もまあまあだが、良くも悪くも、普通の女だ。お前には敵わぬ。お前は若いからな。同じ顔をしてるのなら、若い方がいいに決まっているだろう? この瑞々しい張りのある肌。澄んだ瞳。そう、それにこの白金の髪。昔のブロンドも良かったが、これもまたお前に似合っていて良い」
侯爵は一人歌うように呟きながら、アリスを押さえつけていた。
「やだ! 触らないでよ! 気持ちわるいっ! だれか! ――リュシアン!」
呆然と顛末を見つめていた僕に、その声が殴り掛かる。硬直が解け、はじけるように僕は駆け出すと、ベッドによじ上って侯爵の足に思い切り噛み付く。
「つっ! なんだこの鼠は!」
足を振り払われ、ベッドから落ちる。またすぐによじ上り、再び足首に噛み付いた。
直後ガツンと頭と背中に衝撃が走る。払い飛ばされたらしい。背中にベッドの天蓋を支える柱が食い込んでいた。
「――――」
一瞬気を失っていたのか。気がつくと口の中に鉄の味が広がっていた。頭を打ったせいか、足が痺れて全く動かない。アリスが手に持った絵本で侯爵の背中を必死で殴っているけど、押さえつけられたままの姿勢では威力を発揮しない。シャルルが視界の端で忙しく魔法陣を描き始めていた。僕が、『万が一の場合』って頼んだ事。アリスが人の姿ではどうしようもなくなった時にって頼んだこと。でも、こんな事は起こるはずが無かった。アリスは明日までは大切にされているはずだった。
でも、実際は、もうそれしか彼女を助ける方法が無い。僕がシャルルに頼んだのは、雷の魔法だった。音と光でアリスを無理矢理猫に戻す、その方法。たとえ、後々最悪の結果を招く事になろうとも、今はそうするしか無かった。
「やだ! やだ! リュシアン! リュシアン!」
(……アリスに触るなよ! 僕のアリスだ。お前のものなんかであるもんか!)
声にならない声で叫ぶ。
白い足が侯爵の体の下で暴れていた。男の腕が両足を押さえつけるのを見て、僕は思わず目を閉じる。
嫌だ。止めてくれ! それ以上触るな!
魔法が解けてくれない。……今すぐ人間に戻りたいのに!
頼む! 魔法よ、解けろ! 解けてくれ!
直後、バタンとドアが開く音と「――あなた!」という、硝子を引っ掻くような金切り声がした。僕ははっと目を開ける。
「アリス……?」
僕は思わず呟いた。入り口には、アリスに瓜二つな女性が憤怒の表情を浮かべて立ち尽くしていた。髪の色が燭台の明かりに金色に輝き、別人だと悟る。この人は……もしかしたら、アリスの母親か?
その表情に妙な既視感を感じ、心の中を覗き込むけれど、侯爵の戦いた声にそれは掻き消される。
「お、お、おまえ……出かけたのでは」
侯爵は真っ青な顔で、アリスを手放す。彼の服も髪も乱れに乱れてしまっていた。
「あなた……性懲りも無く、またやったのね」
声はぞっとするほどに冷たく響いた。確か今はまだ夏のはずなのに。全身に震えが来た。
「い、いや、これは、ちがう。私はただ、お祝いを言いに来ただけで。――そう、そうだ。アリスが、私を誘ったんだよ」
「アリスが?」
そんなわけ無いだろう! もう、僕は、全身が怒りの塊みたいになっていた。この男を何度でも殺してやりたい、そう思った。
アリスは呆然とベッドに座り込んでいた。顔は真っ青で頬を涙の線がいくつも伝い、服は所々裂けて、髪もぐしゃぐしゃ。痛々しい事この上なかった。
彼女は怯えてきっていた。その目は懇願するように入り口に立つ女性を見つめていた。
今、この女性は「また」と言った。つまり、そういう事だ。これが、原因。アリスが猫になりたいと思った、原因だった。
必死で手足を動かそうともがく。ようやく手の先がぴくりと動いた。体の動かし方を思い出して、よろよろと立ち上がる。
「そう、じゃあ、あなたはとりあえず外へ出ていて。先にこの子に話を聞くわ」
侯爵はほっとしたように部屋を出て行こうとする。その背中に女性が刃のような言葉を突き刺した。
「――――逃げたら殺すわよ」
その大きな背中が震えるのを見て、女性は満足そうにニタリと微笑む。そして、ゆっくりとアリスへと近づいた。
僕は、侯爵の退出に少しほっとしていた。これで、ひとまずアリスは助かった。そう思っていた。彼女がアリスを労ってくれる、そう信じ込んでいた。
僕はここにきてもまだ大事な事を忘れていた。
――誰がアリスを猫に変えたのか、を。
答えはずっと目の前にあったのかもしれない。気づきたくなかっただけなのかもしれない。だから、女性が手を振り下ろすのを、ただ呆然と見つめるしか出来なかった。
パシィン
乾いた鋭い音が部屋に響き渡る。
――――何が起こった? 今、一体何が起こった?
目の前で、アリスが頬を押さえて再びベッドへ倒れ込む。
信じられなかった。信じたくなかった。今見えている光景を。
それが――――真実だという事を。
そんな僕の前で、女性は、そう、アリスの実の母親のはずのその女性が、さらに狂ったようにアリスを殴り始める。アリスは何か必死で叫びながら腕で頭と顔を庇い、ベッドにうつぶせる。その背中をバシバシと平手で打ちまくる。痛々しい音が部屋の空気を裂く。
「あんたがいるから、私はいつまでたっても幸せになれないのよ! さっさと追い出そうと、せっかく結婚までお膳立てしたというのに、なんてことよ! 昔からずっとそう。あんたがいるがために、恋人は出来ないし、再婚も出来ないし、生活に困って散々だった。ようやく幸せになったかと思えば、夫はあんたが目当てだった! あんたさえいなければ! ――あんたさえいなければ!」
ふうふうと、息を荒げて、散々アリスを殴った後、彼女は燭台を持ち上げて、扉の前に立つと、にやりと笑った。その顔はほとんど人の顔をしていなかった。
「そうだわ……最初から、こうすれば良かったのよ。猫にするなんて、まわりくどい事をせずに。なんで思いつかなかったのかしら。私ったら、馬鹿みたい」
女の手から、燭台が落ちる。火が毛足の長い絨毯に落ち、すぐに燻りだす。そして、女の姿がゆらめく炎の向こう側に消え、鍵の落とされる音だけが部屋に残った。
僕は呆然と扉を見つめていた。
全ての謎は解けた。
彼女を取り巻く闇は僕が思っていた以上に濃く、このどうしようもない絶望の縁から、どうやって彼女を引きずり上げればいいのか、僕には分からなかった。僕は、彼女の欲しがるものを与えてあげられるのだろうか。
火の勢いが強まる。――逃げなければいけない。そう思うのに、足が動かずにその場に跪いた。手を組み天井を仰ぎ必死で乞い願う。
――彼女を支える力を僕に――
大きく炎が上がったのか、突然瞼の裏が真っ赤に染まる。
目を開けると、そこには、一枚の絵が煌煌と床から上がる炎に照らされていた。それはまるで天からの啓示のようだった。
僕は目を見開く。
幼い顔立ちに似合わない、無理に作られた笑顔。金色の髪、緑色の瞳。それから――空色のリボン。
そこには、僕がずっと忘れられなかった、初恋の少女が描かれていた。