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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第四章 優しく残酷な魔法
36/71

35 自分が変わると世界が変わる

 父をジョアンに任せると、僕とシャルルは馬車でバルザックへと向かった。

 街が薄闇色に染まる頃、ようやく侯爵邸へと辿り着く。表の門の前にはこの間見た時の倍の四人の門番。ぴりぴりした空気が漂っていて、何かあったという事が顕著に分かった。おそらく新聞の記事は本当なのだろう。門からは入れ替わり立ち替わり人が出入りしている。傍らには馬車が数台止まっており、大量の荷物が屋敷に運び出されて行く。

 以前にも増して正面から入れる雰囲気ではなく、裏口に近づくと、こちらも門番が居た。困ったな。なんでこんなに厳重なんだろう。ため息をつく。策を練ろうと辺りを見回すと、この間声をかけたメイドが屋敷に入って行こうとしていた。

「あ!」

 彼女はその声に振り向いたけれど、冷たく僕を一瞥し、すぐに身を翻して屋敷に入って行く。……どうやら嫌われたらしい。仕方ないか。利用するだけ利用してしまったんだ。

「なに? 知り合い?」シャルルが僕を見上げると興味津々な目を向ける。

「うん、と……この間ちょっとね」

 事情を話すと、シャルルが呆れた顔をした。

「利用して捨てたってわけね。駄目よぅ、もっとうまくやらないと。まぁ、リュシアンにしては上出来なんでしょうけど。つまり同じ手はもう使えないってことね。――ああ、私が元の姿だったら! メイドさんなんてイチコロなのにねぇ! ……あら、何よぅ、その目! 言っとくけど、私、あなたより数段男の格が上だと思うわよぅ!」

「……」

 なんだか色々納得いかないけれど、そんな事で言い争ってる場合じゃない。とにかく時間が無いんだ。新聞によるとなぜか結婚式は明日。痺れを切らしたのか? 何にせよ急すぎる。

「なんとかマリーさんと接触できないかな」

 彼女なら、協力してくれそうだった。少しは屋敷の中の事も伺えるはず。

 とにかく屋敷に近づかないと何ともならない。門番をなんとかしないと。でも、騒ぎを起こすにしてもまだ早すぎる。下手を打って捕まってしまえばどうにもならない事態になりかねない。

 路地の隅で同様に考え込むシャルルを見て、ふとひらめいた。――そうだ。

「シャルル。頼みがあるんだけど。――金を貸してくれないか」


 僕はシャルルをポケットに入れると街の外れの例の魔法店へと足を運んだ。しかし、最初店が見つからずに戸惑った。看板が降りていたのだ。不審に思いつつ、戸を叩くと眠そうな様子の主人が顔を出す。すでに寝間着を着て寛いだ様子だった。

「魔法薬を売って欲しいんだけど」

「なんだ。金はあるのかい?」

 主人は僕の格好を見て、ふん、と鼻で笑った。自分の姿を見下ろすと、薄汚れた作業着のままだった。そうか、以前来たときはもっとマシな恰好してたんだっけ。

 僕が頷くと意外そうに主人は眉を上げる。そしてまじまじと僕の顔を見つめ、以前魔法薬を買いに来た時の事を思い出したのか、態度を少し改めた。

「……すまないね。もう売り切れてしまったんだ」

「え? 前来た時には……まだ在庫があるみたいな事……」

「今日になってカルバン侯爵家の人間が大量に買って行ってね。あるだけ出せって、金貨を積んで行ったよ」主人は光る頭を布で拭いつつ、そう話す。

 なぜ? だって、アリスを人間にするために、魔法使いを雇ったってマリーは言っていた。わざわざ大金を積んで……魔法薬を買う必要がどこにある?

 何かがおかしい。急に胸がざわざわして、ひどく不安になった。しかし今は――

「一粒も残ってないのかい?」

 僕は粘る。ひょっとしたら、壜の底に一粒でもあるかもしれないじゃないか。

「ないよ。壜ごと買って行かれたからね。おかげで、俺はしばらく遊んで暮らせるよ」

 主人はそう言うと、あくびをして眠そうに目を擦る。僕は軽く礼を言うと、店を飛び出した。そうと知ればもたもたしてられない。次の店だ。

 街中の店を梯子したけれど、どこにも魔法薬が残っていなかった。一粒も残らず買い占められていた。

 さすがに恐ろしくなる。だって、それだけ使えば、家が傾く。何か、ひどい執着を感じた。そうだ、僕がアリスを手に入れようと必死になっていた時のような。気のせいであればいい。でも……正体の分からない黒々とした感情が胸を覆って行く。取り返しのつかない事になりそうな――

 気がついた時には駆け出していた。

 どうしよう。どうしよう、どうしよう――――神様、僕はどうすればいい!

「リュシアン。落ち着いて。一体どうしたの。魔法薬をどうする気なの」

 それまで黙っていたシャルルがポケットの中から僕を諌める。立ち止まると、広場の噴水が目に入る。がむしゃらに駆けて来ていたらしい。

 広場はいつの間にやら静まり返っていた。人の影も見当たらない。もう完全に日が暮れていて、街灯の明かりだけが噴水の水しぶきを照らしていた。喉が焼ける。荒い息が漏れる。前屈みになり、噴水の縁に手をつくと、頭を水の中に突っ込んだ。

 もう、時間が無い。シャルル――君に頼るしかない。

 水から頭を出すと、ぽたぽたと水滴が髪を伝って落ちて行く。拭う事もせず、シャルルを見下ろした。

「シャルル」

「何?」

 彼に出来るだろうか。彼の心の傷を思い出すと無理な気もした。

「僕を……鼠に変えてくれないか。いや、この際、蛇でも、蛙でもいい。とにかく目立たない小さな生き物に」

「そういうこと、ね。でも駄目よ……言ったでしょ、前に」

 シャルルの顔に影が出来る。それでも頼むしか無かった。方法はもう無いんだ。

「頼む。僕はどうなっても構わないから。方法が無いんだ」

「だめ。あなたには情が移りすぎてる。だから出来ない。どうしても出来ないの」

「でも……」さらに言おうとしたけれど、シャルルが今までに無いくらいに辛そうな表情をしていて、思わず口をつぐむ。そんな僕を見て、シャルルは心底すまなそうにため息をついた。

「分かった。無理言ってごめん」

 シャルルにとってやはり相当な問題なんだろう。それはそうかもしれない。自分の愛する人をあんな形で失ってしまったのだから。

 でも。どうしよう――訳の分からない不安と戦いながら、僕は頭を回転させようとする。時間が無いんだ。――他に方法は無いのか!

「とにかく、一度、深呼吸。ほら、吸って、吐いて――あら?」

 胸元からぽとりと赤い物が落ち、ゆらゆらと水面を漂い、やがて水分を含んで落ちて行く。僕は慌ててそれを拾い上げる。

 ジョアンがさっき差し出した、アリスの赤いリボン。大掃除をしていたら部屋から出て来たと渡された。送られて来た荷物には入っていなかったから、すっかり忘れていた。

 なぜか違和感を感じ、リボンから目が離せなくなる。前は気がつかなかったけれど、水分を含んで潰れたリボンは、結び目が妙な具合に膨れていた。それは、まるで何か入っているかの様で。

「――なんだ? これ」

 リボンを解く。そして瞠目した。

「これ――――」

 もしかして――「捨てた」って言った時にアリスが異常にがっかりしたのって、これが入っていたからなのか。

 シャルルが僕の手のひらを覗き込む。そして、僕を見つめて、そのつぶらな瞳を輝かせた。

「神様は、私たちの味方みたいね。――最後の一粒だわ」



 裏口が見える。門番があくびをしながらもギョロギョロと目を光らせていた。

 僕とシャルルは建物の影からそれを見つめ、どこから敷地に入ろうか考えていた。

 僕は悩んだ末、鼠になることにした。何しろ初めての経験だ。上手く動けるかどうか分からない。経験者がいる物になった方が良いと思った。シャルルが言うには、すぐに姿に慣れるらしいけれど、四本足で走ることなど今までに無いのだから、速く走れるとは思わなかった。

「なりたい姿を強く願って。薬を飲ませた人間――今は自分で飲むから、あなたのことね――の望む姿に変身するから、なるべく正確に思い浮かべるの。あと、注意してね。いつ人間に戻るか分からないわ。個人差があるの……ああ!」

 シャルルが言い切る前に僕は手の中の粒を一気に口に放り込んだ。味は全くしなかった。

 喉を小さな塊が通過する。一気に視界が歪む。なんだ、この、気分。

 今まで見えていた物が、普通にあるはずの物が、全く別の物に見える。世界が、広がる。星空がはじける。目を開けていられなくて、ぎゅっと目を閉じた。

「――思いきったわねぇ。どう? どんな気分?」

 異常に物音が大きく聞こえた。頭に音が刺さるようで、思わず耳に手をやったけれど……いつも耳がある位置には何も無く、髪の毛ではない固い毛が手のひらに触れる。ぎょっとしてそこから手を離すと、視界に入るのは異形の小さな手と巨大な世界。全身に震えが走った。

 ……ああ、こういう事か。変身するって。

 自分が変わると世界が変わる。――身をもって体験していた。

「うふふ。なかなか癖になりそうな感覚でしょ?」

 シャルルの声がやはり鐘のように響く。さっきまでは高い声だったのに、今は低く聞こえていた。音の聞こえかたが違うらしい。オジさんがその言葉使いをしている様で――いや、オジさんなんだけど――余計に嫌な感じだ。頭痛と吐き気が一気に襲って来て、僕はかがみ込むと少し嘔吐した。

 これが癖になるだって? シャルルの感覚って、やっぱり――まったく分からない。

 ぞっとしつつも、吐いた事で少し気分がマシになった。

 ――立ち直れ。今すぐに。そう自分に言い聞かせると、生唾を飲み込む。

 顔を上げると、夜に冷まされた空気が首元をすっと横切り、全身にかいた汗を乾かした。

 気力が戻るのを感じて、僕は門へと駆け出そうとする。

「待ってよぅ。作戦は?」シャルルが野太くなった声で僕を引き止める。

「とにかく中に入って様子をうかがう。アリスの居場所を突き止める」

「どうやって逃げるのよぅ? 退路を決めておかないとどうしようもないでしょ」

 言われてみればそうだ。アリスが自ら逃げてくれるのなら、いい。でも、嫌がったらどうする? 鼠の姿だと、彼女を抱える事は出来ないし、たとえ人に戻ったとしても、もし彼女が全力で抵抗すれば、それなりに力技を使わなければ攫う事も無理だ。

「シャルル、君が今使える魔法って、何がある?」

「簡単なものしか無理よ。魔法書無しで書ける魔法陣は、昏睡の魔法と蛙と蛇への変身魔法、あ、これはアリスには使えないわよぅ。それから……あとはこの間の、雷の魔法。そのくらいね」

「……わかった」

 それらを即座に組み立てた。不思議なほど神経が研ぎすまされていた。そう、祈りの最中のように。

「もちろん一度に全部は無理よぅ? 一つだけ選んでよ?」

「分かってる」

 魔法陣は一つしか描けない。状況を見極めて、頼む。多分迷ってる時間は無い。

「シャルル」

 僕は簡単にいくつか作戦を伝える。なるべく無難なものから最悪の場合のものまで。シャルルは、僕の話を相づちを打ちながら、神妙に聞いていたが、最後には少し微笑んで頷いた。

「なによぅ、やれば出来るじゃない」

 バシンと背中を叩かれ、その勢いのまま、門番の足下をすり抜け屋敷へと突入した。



 屋敷の内部には裏口が開いた瞬間を狙って滑り込んだ。バタバタと慌ただしい厨房を抜け、空っぽの食堂を通りすぎると広い廊下へ出た。燭台に照らされたその暗い場所を駆け抜ける。廊下の中央には毛足の長い赤い絨毯が敷いてあり、明かりに照らされて浮き上がっていた。その脇は闇のせいで全く目立たないようで、誰にも見つからずに僕たちは屋敷内を駆け回る事が出来た。

 鼻が異常に利いていた。厨房を通ってる時は空腹感でおかしくなりそうなくらいに。食欲という本能が、鼠の姿だと人の何倍にもなるのかもしれない。シャルルの気持ちが初めて分かる。

 研ぎすまされた嗅覚を使って、僕たちはアリスの甘くて柔らかい砂糖菓子みたいな香りを思い出しながら、その欠片を探した。

 バタバタと人の足音がひっきりなしに響いていた。この間からこの屋敷はまるで建物が生きているかのように騒々しい。アリスの結婚のせいなのだろう。あまりに急な話だから、準備が追いつかないのかもしれない。

 広い玄関から羽のように両脇へとのびる階段を必死でよじ上ると、廊下の慌ただしさが増していた。メイドに混じって、厳つい男達も何かを警戒するようにうろうろしていた。

「――え、ご主人さまが?」

「ええ、お帰りは明日の朝のはずでしたのに。なんだか血相を変えてらっしゃって。奥様にお知らせした方がよいでしょう? どこに行かれたか知ってる?」

「ああ、確か、明日の打ち合わせで教会に行かれてるはずだけど」

 メイドが立ち話をしているその足下をすり抜けた。シャルルがスカートの中身に気を取られているのを無理矢理に引っ張る。……そんな場合じゃないだろう!

 鼻で香りを探る。異常に甘い香りが漂う部屋があり、思わずその扉の前で足を止めた。

 ……なんだ? この大量の菓子の匂いは。ケーキに、チョコレート、キャンディにキャラメル。全部アリスの好物だった。

 シャルルを振り返ると、彼も同じ事を感じたらしい。

「ここだ」

 そう確信したけれど、ふと気がつく。この姿では……扉が開けられない。シャルルと顔を見合わせる。彼は久々の運動が堪えたらしく肩で息をしていた。

「……い、いつもは誰かが開けてくれるのよねぇ」

 その誰かは、ジョアンか僕。でも今はジョアンはいないし、僕は鼠だった。

 部屋は二階のはず。窓側に回るとしても……今来た道を戻る労力が惜しい。シャルルの荒い息が聞こえて、一瞬躊躇った。これ以上シャルルを疲れさせては、いざという時に困る。

 くるりと周りを見回す。廊下にはずらりと同じような部屋が並んでいて、そのどれもが固く扉を閉ざしていた。一度外に出るしかないかもしれない。

 僕だけでも、裏に回って――そう考えたちょうどその時だった。カツカツと大きな足音が近づき、見上げると、一人の紳士がドアノブに手をかけていた。鍵がかちりと外れる音がする。

 ――しめた!

 僕はついには座り込んでしまったシャルルを引っ張ると、扉の隙間から目の前に広がる闇の中へと飛び込んだ。


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