34 絵の中の少女
あれからもう二日。あたしはぐったりと部屋のベッドで寝そべっている。部屋にあった絵本も全部読み終えちゃったし、退屈で、退屈でしょうがない。
あーあ。二度と戻らないって決めてたのに。
もう新しい猫が来てるって思ってたから、待たれていたってことに驚いた。だから、ちょっとほだされちゃったってのもあった。あたしを取り巻く変な歓迎ムードと豪華な食事に誘われて、この屋敷に足を踏み入れてしまった。
ベッドの横のテーブルにはお菓子が山盛りに積まれていて、好きな時に好きなだけ食べる事が出来た。でもさすがに二日間何もせずにそれを見てると食指も鈍る。シャルルのところに居た時は、ジョアンの料理の腕前もあるんだろうけど、働いてたからかしら? ご飯の時間にはいつもお腹が空いてて、何を食べてもすっごく美味しかったのに。
あたしは口の中でキャンディを転がしながら部屋を観察する。
部屋は一年前と何も変わっていない。ほとんどあたしが出て行った時のまま。
猫には勿体ないような広い部屋。中心に据えられた大きな天蓋付きのベッド。上品な革製のソファ。出て行く前にあたしが引っ掻いてつけた傷はいつの間にか直っていた。床には緑色の毛の短い絨毯が敷かれている。
部屋は夏の昼間だというのに薄暗い。窓に掛けられた絨毯と同色の厚いカーテンがしっかりと外の光を遮っている。壁にかかっている大きな肖像画も、花瓶の花も、闇の中で色を失っていた。
一昨日、昨日とひどい雨だったせいか、天井近くの小さな窓以外、しっかりと閉じられていた。なんだか蒸すから、窓を開けてって頼んだけれど、駄目だって。逃げると思われてるみたい。
大事にされてたってことは分かってた。でもあたしの居場所はここじゃ無いって思ってた。今考えるとどうしてそう思ってたのかよく分かる。ここではあたしのためにお金はいくらでも使ってくれる。欲しいものはすぐに与えてくれる。でも、あたしのために主人が自分の時間を裂いて何かをしてくれた覚えが無いのだ。
リュシアンは違った。彼にはあたしに使えるお金なんて無かっただけかもしれない。でも、自分の時間を使う事は惜しまなかった。お金を使うのは簡単だ。時間を使うよりもよっぽど簡単だった。主人はあたしに使う時間を腐るほどあるお金で買い、リュシアンはお金が出来たあとも買わなかった。その目であたしを見て、その耳であたしの声を聞いて、その口で優しく語りかけてくれた。彼はそのままの時間をあたしに使ってくれていた。
そんな事を考えてると、無性にここを出たくなった。でも……もう手遅れ。あたしは、首を振ってリュシアンの面影を頭から振り払う。
リュシアンは新しい恋人を見つけて、あたしはその隣を追い出されてしまった。恋人も何も、結局想いはすれ違って重なる事は無かったんだけど。あたしの初恋は、湿気った花火みたいに何も始まらないうちに終わってしまった。
こんな状態でシャルルの城にいつまでも居候するわけにもいかない。そもそも彼は他人だもの。となると、あたしの居場所なんて、もうここにしか残されていなかった。
「アリスちゃん」
部屋のドアが開かれて、主人の媚びるような声が聞こえた。ブロンドと緑色の瞳が隙間からのぞく。
「なあに?」
「ほら、明日の準備をするから、衣装部屋まで来てちょうだいね」
明日の準備? 衣装部屋って……何のために? 猫に衣装なんか必要ないはずなのに。リボンなら、このピンクのヤツで十分よ。この色は何も思い出が無いから気楽なのよ。下手に赤とか……空色とか出されちゃったら辛いもの。
あたしの様子なんかおかまい無しに、主人は一足先に衣装部屋に向かったらしい。足音が遠ざかって行く。
「あぁ、面倒くさい」
ため息をつくとベッドを飛び降りる。
そうそう、こんな風だったわ。いつも主人の気まぐれでいろんなことに付き合わされてた。
憂鬱でしかなかったけれど、いつかはこうなることが分かっていた気もした。いつまでもあのままで居られるわけが無い。
あたしは元のペットに戻る。そして今まで通り何にも熱する事も無く退屈な日々を過ごして、そのうち老いて死ぬのだ。
衣装部屋にはたくさんのドレスが並んでいた。爪で引っ掛けたら一瞬で破れそうな繊細な物ばかり。そう思いつくとやってみたくなるのが不思議。尖る爪が床の絨毯に引っかかる。
「寸法は変わってしまったかしら。まだ成長期ですものねぇ」
主人は手にしていた小さな巾着からガラス壜を出すと、目の高さでそれをじっと見つめる。月の色をした粒がいくつか見え、あたしは目を見開く。
あ、あれって……魔法薬! え? なんで?
「……金貨一枚だもの。さすがに慎重に使わないと」
主人はにっこりと優しく微笑むと、壜の中の魔法薬を摘みあたしの口へと持って来る。
思わず顔を背ける。人の姿になる理由は無いはずだった。
「ほら、衣装合わせが終わったらお茶にしましょう。今日は美味しいチーズケーキがあるのよ」
「……チーズケーキ……?」
その言葉と笑顔に誘われて、あたしはいつの間にか口を開いていた。
「ねぇ。なんでドレスが必要なの?」
あたしはもぐもぐと口を動かしながら、主人に尋ねた。衣装合わせはあたしの変身が解けるまで延々と続いて、くたくただった。白いドレスを何枚も着せ変えられて、結局最後はフワフワのデコレーションケーキみたいなドレスを着せられて、やっと満足してもらった。肩が重く足もだるい。甘いものが身に染み渡り、とても美味しかった。
「あら? 言っていなかったからしら。ああ……そうね、あの後は知らせては無かったわね」主人は不思議そうに首を傾げぼそぼそと呟き、一人で納得する。
言うも何も、戻ってから会話したのはさっきで二度目よ。
戻った後顔を見るなり、どうでも良さげに「あら、戻って来ちゃったの」なんだもの。あれにはさすがにがっかりした。家出した分際で文句も言えないけど、使用人の方が喜んでくれるってどういう事よね。それ以降は部屋に閉じ込めておいて、澄ました顔してるんだから。ほんと相変わらずだわ。
「聞いて驚かないで」
一体何かしら。すっごく嬉しそう。
その緑色の瞳が細められ、口角がつり上がる。こういう顔をしてる時の主人の話は耳半分で聞くくらいで丁度良いのよ。あぁ、それよりチーズケーキのおかわりって無いかしら。ちらりと主人の皿を見ると、彼女は上機嫌でケーキを差し出した。あたしは反射的にそれにかぶりつく。
「うふふ。あなた結婚するのよ!」
「……………………え?」
口からケーキの欠片が落ちた。
聞き間違い? 聞き間違いよね? ケッコン? ケットウの間違いとか?
「誰が?」
「だから、あなた。アリスちゃんが」
「……誰と?」
「公爵様よ! 現王様の弟君!」
あたしの混乱をよそに、主人の声がどんどん華やいで行く。
コウシャクサマとケットウ……いや、ケッコン。
「王のおとうとって……」
確か王って白いひげを生やすくらいにはオジさんだった気がするんだけど。下手したらおじいさん。いや、そういう問題じゃなくって。
「ねえ……何かの間違いでしょ。だってあたし魔法の猫よ? なんでそんなお偉い人と結婚できるわけ?」
「そうよ! あなたは結婚は無理かしらって思ってたのに、なんて幸せ者なの、アリスちゃんったら! 玉の輿よぉ!」
主人は一人で興奮して手を組んで目をキラキラと輝かせている。
どこがどう幸せなのかあたしには分からなかった。玉の輿って、今でも十分金持ちでしょうに。
あたしは立ち上がると、部屋の出口へ向かう。馬鹿馬鹿しい。付き合ってられないわ。
「――どこに行くの。まだ話の途中でしょう」
背中に鋭い声がかかり、体が強ばった。振り向くと先ほどの嬉しそうな顔はどこへ行ったのか、憤怒の表情を浮かべた女がいた。
「ケッコンなんかしないわ」
あたしがおそるおそる、でもきっぱりと言うと、主人は薄い唇を歪めにやりと笑った。
「駄目よ、もう決定事項なの。今のあなたはこの家の存続がかかった商品なの。意志なんかいらないのよ」
あたしは主人の怒った顔が恐かった。なぜか凄く怖かった。普段は反抗できるけど、主人が怒ってしまうと体が萎縮して、口が固まって何も言えなくなる。昔からずっとそうだった。たとえ理不尽な事で怒られたとしても、あたしが悪いんだからって思っちゃう。自分でどうしようもなかった。
「…………決定事項?」
ようやくそれだけ言えた。
「そうよ。もう支度金も頂いてるの。だから今さら断れないのよ。……ああそうそう。確認してないといけなかったわ。――あなた、家出してる間にどこかのオス猫と恋仲になったりしてないでしょうね?」
リュシアンの事が頭に浮かんで、ぎくりとするけれど、顔に出さないようにした。何となくその方が良いような気がした。恋仲になりたかったけど……なれなかったのよ。
「大丈夫ね? よかった。もし傷物を渡してしまえば公爵様に申し訳が立たないもの」
良かったという割になぜかその表情がひどく険しい。鋭く睨まれて竦み上がった。そんな自分が腹立たしく、絨毯に爪を立てる。あたしったら何でそんなに怯えてるのよ!
「キズモノってどういうことよ」
虚勢を張って言うと、主人は鼻で笑った。
「男と寝たかって聞いてるのよ。知らないのならそれで良いわ」
主人は満足そうに微笑むといつもの能天気そうな顔に戻る。
……リュシアンとなら一緒に寝たわ。でも……主人が言う『寝る』って言うのがその事とはちがうっていうのがなんとなく分かった。
そうだ。あの時、リュシアンがあたしを床に押し付けて……そのあとは曖昧で、記憶は無いけど、想像はできる。猫も人間もそんなに変わんないはずだし。多分あのままあたしが人の姿だったら主人の言うキズモノってのになれたんだと思う。こんな事になるんなら、そうなってた方が良かったんじゃないかって思う。
思い返せばリュシアンは最初はすっごく優しかったんだもの。あれがキスって言うんだって。人間はああやって愛情を示したりするんだって。「読んでおきなさい」って言われて、部屋に置いてあった本にそう書いてあった。読めと言われると読みたくなくなったけど、あんまりに暇だからぺらぺらめくってたのだ。でも、なぜだか恐ろしいモノが飛び出してきそうな気がして、途中で気持ち悪くなって読むのを止めてしまった。
羽のようにそっと触れて、触れた後は包み込むようにあったかくて。あたしが拒んだ後は、リュシアン、人が変わっちゃったけど、もしあのまま優しくされてたら、心地良くて流されてたかもしれない。そうなってたら……今こんな風にここに居る事も無かったかもしれない。あれ? なんだか惜しい気分になっちゃった。変なの。あのことについては後悔なんかしてないはずなのに。今更こんな事考えたって無駄なのに。
いつの間にか目の端に涙がたまっていた。主人に気づかれたくなくて、さっき落としたケーキに再びかぶりついた。ケーキは甘いはずなのにしょっぱい味がした。上から被せるように声が響く。
「式は明日よ。急だけど色々事情があるから。しっかり覚悟をしておいてね!」
主人はケーキをぽろぽろと口から落として呆然とするあたしを放置して、部屋から出た。かちりと鍵のしまる音がする。
……あした?
そんな急に、覚悟なんか、出来るわけが無い。
気がついたら外は暗くなっていた。
あれから、必死で扉に体当たりして外に出ようとしたけれど、重い扉はびくともしなかった。窓から出ようと調べてみるけれど、外から鍵を掛ける窓なのか、内側には鍵が見当たらなかった。仕方なく体当たりしたら硝子がひび割れて小さな怪我をした。怪我までしたのに、格子状になった窓枠の一つ一つがあたしの体よりも小さいせいで外に出られず、骨折り損に終わってしまう。しかも激しく怒られて押さえつけられるようにして手当をされた。
この部屋自体、あたしを閉じ込めておく籠のような作りになっている事に今更ながら気がついた。以前は逃げようなんて事考えた事も無かったから気がつかなかっただけで。
悔しかった。いくらペットだからって、こんな風に一生を左右するような大事な事を、自分の意志を全く無視して決められてしまうなんて。猫でさえ、交尾の相手くらい自分で選ぶっていうのに。気に入らなかったら引っ掻いて噛み付いて拒む事が出来るっていうのに。それに比べてあたしったらなんて窮屈で不自由なの。
今更だけどあたしってすっごく損な人生歩んでるのかもしれない。人のはずなのにペットとして生きるなんて。それに反撃する力を持たないなんて。人の姿じゃ爪も牙も無い。ただの非力な子供になってしまう。大人の横暴な権力と腕力とで押さえつけられてしまう。
自分の無力さに打ちひしがれる。こんな半端な存在なら、やっぱり完全に猫になってしまった方が随分と幸せだわ。そうしたらこんな風に悲しくなんかならなかったはずなんだから。
ベッドに寝そべったまま目線を動かすと、いつの間にか灯された蝋燭の光がゆらゆらと部屋を照らしていた。
壁にかかった小さな絵の中の少女と目が合う。主人によく似た、金色の髪に緑色の瞳をした幼い少女。髪は緩く編まれてリボンで結われている。どこか悲しげなその瞳は、あたしをじっと見つめて今にも涙を落としそうだった。