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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第四章 優しく残酷な魔法
34/71

33 『神』という存在を


 家に帰ると嫌な予感が的中していた。父の部屋を覗き込むと、荒い息づかいが聞こえた。慌てて寝床に近づき様子をうかがうと父が熱を出していた。

「父さん!」

「ああ、リュシアンか……遅かった、な。夕食は、食べたか?」

「夕食って……それどころじゃないだろう!」

 僕は部屋を飛び出すと川でバケツに水を汲み、干してあったタオルと着替えを手に枕元へ急ぐ。

 店の前は綺麗に片付けられていた。放っておけって言っておいたのに、性格上出来なかったのだろう。

 ――無理するなって言ったのに。

 帰りが遅くなった事を後悔する。

「無理したんだろう」

「……無理、なんか、してないぞ。お前は、過保護過ぎる」

 ぽつりぽつりと言葉を出すその様子はひどく苦しそうだった。

「そんな苦しそうにしておいて、なにが無理してないだよ……」

 僕はそう言いながら父の着替えを手伝う。汗びっしょりだった。シーツも変えた方が良いな……そう思って、とりあえず父を抱えると僕の部屋のベッドに移動させた。

 着替えて幾分か気分が良くなったようで、父はそのまま眠りについた。

 僕は枕元で父の額の汗を拭いながら考える。――明日の調査は無理だな。朝一番で医者を呼ぼう。

 今日聞いた事で気になる事はたくさんあった。でも優先順位をつけるとすると、今は父の体調が上だった。

 なぜかもやもやとした不安が胸にあった。

 過去は逃げない。大丈夫だ。父が回復してからでも。不安を拭いたくて、そう考えるけれど、どうしても重苦しい気分は晴れなかった。



 翌朝は大雨だった。雨と風が家の薄い壁を叩く音で目が覚める。父の枕元でいつの間にか居眠りをしていたようだ。

 部屋の隅で雨漏りが床に染みを作っている。水の入ったままのバケツを手にしてその染みの上に置くと、天井から落ちた水滴がぴちょんと音を立てた。

「今日は商売にならないな……」

 独り言を言うと、軽く身支度を整えて雨の中パン屋へ向かう。そして事情を話し、今日と明日の休業を伝えた。今日の分のパンはもう焼き上がっていて良い香りを漂わせていた。自分たちが食べる分をとると、後は引き取ってもらう事にした。

 パン屋の主人は顔を合わせる度にいつも事業拡大を勧めて来るのだけれど、今朝は何も言わず、代わりににやにやと僕を見つめた。

「なあ、リュシアン君。恋人がいるんだって?」

「え?」

「親父さんが言ってたよ。もうプロポーズは済んだのかい?」

「プ、プロポーズ?」

 その強烈な響きに目を剥いた。

 父さんは一体何を言ったんだ? っていうか、どうしてそんな誤解をしたんだ。

「親孝行に孫の顔でも見せてやりな! 親父さんも歳だしな、仕事も順調だし……早いに超した事は無い。孫はなあ、可愛いぞー!」

 バシッと背中を叩かれる。

 ま、孫……。とどめのようなその言葉にふらふらしつつ店を飛び出すと、どしゃぶりの雨が茹だった頭を一気に冷やしてくれた。

 パン屋さんの孫は、表で遊んでいるのを何度か見かけた事がある。まだひとつかそこらだろう。よちよちと歩く姿は小さくて、ふわふわしてて、見てるだけで暖かくて幸せな気分になった。父も見かけて羨ましくなったのかもしれない。

 普通に手に入るかに思える、その幸せ。僕がそれを手に入れるためには、どれだけ苦労しなきゃいけないか分からない。

 もう、アリス以外の女の子とそんな道を進む選択肢など、僕の心の中からは消えてしまっていた。

 簡単じゃない。でもきっと不可能ではない。

 パン屋の主人の幸せそうな顔が父の顔と重なった。僕はそれに力を得て、微笑む。

 ――父さん、待たせるかもしれないけど、きっと手に入れるから。



 医者を呼びに行くと、既に他の患者のところへと出かけてしまったそうで、僕は仕方なくその場で待つ。散々待ってから往診を受けると、胸から少し音がするが安静にしていれば大丈夫だと言われた。ひとまずほっとした。

 薬を受け取り医者に礼をしていると、彼は心配そうな顔をして僕に言った。

「ちょっと雨が気になりますから、今のうちに避難した方が良いと思いますよ」

 外を見ると、確かに雨脚はまったく弱まらず、逆に強くなっているようにも見えた。

 医者が雨具を身につけるとその中へと飛び出していく。ご苦労様と呟きながら、頭を下げると扉の下に新聞が落ちていた。さっきは気がつかなかったが、医者を呼びにいっている間に届いていたようだ。手に取って開くと、雨でぐっしょり濡れ、インクが溶けて、文字がほとんど読めなくなっていた。パラパラめくると裏面に張り付いていたのか、一枚の紙切れがひらりと落ちる。拾い上げて見るけれど、そちらもインクが滲んでしまって、何と書いてあるか分からなかった。

 ――まったく、嫌な雨だな。

 折角買った新聞もこうなってしまってはゴミにしかならない。勿体ないと思いつつ、二つ纏めて丸めるとゴミ箱に放り込んだ。


 家の前の道はすでに川になりつつあった。空は昼だというのに真っ暗で、いつもは遠くに見えるはずの山も黒い雲に隠れて全く見えない。

 以前こんな大雨が降った時の事を思い出す。そうだ、あれは、魔法薬の実をとりに行った途中だ。旅の途中のいろいろな事件が、幸せなものから辛いものまで一瞬で鮮やかに蘇り、胸が抉られるようだった。

 そんな想いを振り切るように頭を振る。そして現実に目を向ける。感傷に浸ってる暇はない。

 家の裏手は川だ。医者の言う通り増水すればひとたまりも無い。目に映る茶色の濁流はまだ下の方にあるように見えたけれど……念のために土嚢を家の周りに積んでおく。どうか家が流れませんように。そう祈りながら作業を終えると、びしょぬれの服を着替え、避難するために大事なものや食料などを袋に詰め始めた。

 漏れが無いかな……そう思いつつ、自室の引き出しを漁っていると、はらりと何かが床に舞い落ちた。

「あ……これ」

 それは空色のリボンだった。

 ほろ苦い思い出がふわりと沸き上がって来たけれど、小さく息をついてそれを追い払った。

 ――もうこれは必要ないな。

 ゴミ箱に突っ込もうとしたけれど、ふとアリスがこれを欲しがった事を思い出して、手を止めた。あの時は、これにまだ未練があって、アリスが勘違いしたのを良い事に渡さなかったけど、今は単なる思い出だ。綺麗だし、捨てるのも勿体ない。まぁ……手に入れた経緯を話したら受け取ってもらえないかもしれないけど。

 少し悩んで、結局上着のポケットにリボンを入れると、雨具を身につけ、父に肩を貸して大雨の中を避難所へと向かった。



 避難所は街の山手にある聖堂だった。中に入ると、まるで夜のようなその空間を、柱に取り付けられた燭台の光が優しい色で照らしていた。

 目が慣れたところで観察すると、僕らのように川沿いに家のある人間がぽつぽつと避難して来ていて、石の床に敷物を敷きのんびりと寛いでいる。

 合間を縫って奥へ足を進める。途中目に入る人々は、皆一様に不安を顔に浮かべているけれど、どこか諦めた様子だった。

 僕も同じだった。天災、こればかりはどうしようもない。こういうとき、人というのは、この大きな自然の中では本当にちっぽけな存在だと身に染みて思う。出来る事だけやったら、あとは神に祈るしか手だては無い。

 ゆっくり休めるようにと、聖堂の柱の影に陣取った。入り口から遠いので風も当たらず、雨が降り込む事も無い。僕は荷物を置き、毛布を敷くと父を休ませる。そして、その場に跪き、手を組み瞑目する。今日はいろいろあってまだ祈っていない事を思い出したのだ。

 祈る事を再開してから、しばらくはただ目を閉じるだけの祈りだったけれど、ずっと続けるうちに、この頃は意味のあるものへと変わって来ていた。

 目を閉じて、静かに息をしていると、それだけで心が凪ぐ。その状態で自分の心を覗き込むと、いろいろなものが見えて来る。悩んでいても、突如、別の次元からぽんと素晴らしい考えが浮かんで来たりする。その瞬間、僕は神に出会っているような気がした。

 誰が祈る事を始めたのかは知らない。でも『神』という存在を作ったのは人だ。だって、獣は祈らない。おそらく人が、人だけがそれを必要だと思ったから『神』を作り上げた。

 悩みが多い故に抱えきれなくなった思いをこうして『胸の内の何か』と語り合う。その時の相手が『神』で、その行為自体が、祈りなのではないか。最初に祈った人間は、そうして神を見いだしたのではないか。ぼんやりとそう思った。

 自分のうちに神がいる――そう考えれば。神を信じる事は、ひょっとしたら、自分を信じる事にとても近いのかもしれなかった。


「父さん、寒くないかい?」

 祈りを終えると父を振り返る。父は薬を飲んだおかげか、熱も下がったようで、顔色も良くなっていた。袋からパンを取り出すと渡す。そしてミルクをカップに注いだ。

「家は大丈夫か? 道具は?」

「ああ、一応濡れないように高いところに上げて来たよ。心配しなくていい」

 川が増水すれば、道具を買い直さなければいけないかもしれない。そうなればしばらくは借金まみれだろう。それでも生きていれば、何とかなる気がした。自分が自分を見捨てない限りは。

「せっかく仕事がうまく行きだしたのになぁ。この調子で行けば……」

 父がそこで口ごもったのを見て、一度誤解は解いておいた方が良いと思った。あまり期待させていい事ではない。

「父さん。僕には恋人なんかいないよ」

「え? そうなのか? でもその、アリスって子は」

「僕の好きな女の子だ。でも今は……絶交されてる」

「絶交……ってなんだ。子供の喧嘩じゃあるまいし」

「一生許さないって言われてるよ」

 自分で言ってて胸が痛み、自嘲気味に笑う。

「…………」

 父は呆れたように口をつぐんだ。何をやったんだ、そう言いたいのかもしれない。もちろんそれは言えないけれど。

「でも、いつかきっと仲直りするから。その時は家に連れて来る。だから楽しみに待っててくれよ」

 家が流れてなければだけどね。そう付け加えて言うと、父は困った顔をして頭を掻く。僕は「なんとかなるよ」と微笑んだ。



 僕たちは結局二日後の夕方に家に戻った。雨は二日間降り続けたが、幸いにも家は流れていなかった。ただし浸水は免れる事が出来なくて、家の中が水浸しだった。家具が大きく倒れ、中のものが大方流れてしまっていた。父の寝床は汚水でドロドロだったので、無事だった僕のベッドに寝かせて休ませた。

 父の容態はこの二日間で随分と良くなって、顔色もよく、食欲も元に戻っていた。避難生活で何もする事が無く、じっと休んでいたのが良かったのかもしれない。


 夕日が赤々と差し込む中、残った水を掻き出していると、家の入り口の扉にメモが貼付けてあるのに気がつく。

「なんだ?」

 手に取ると、この間捨てたメモと同じ紙のようだった。二つ折りになっているそれを開き、目を見張った。

 そこにはシャルルの字でこう書かれていた。

『どこ行っちゃったのよぅ! アリスが居なくなったの。こっちに来てないかしら? 至急連絡をちょうだい!』

 あのメモは……!

 僕は新聞と一緒に捨てた紙切れの事を思い出す。

 あれがアリスの事だったとすると……もう居なくなってから二日経ってるってことになる!

「父さん――」

 家に飛び込んで父に説明しようとしたけれど、頭が煮えたぎる様で上手く行かない。血相を変える僕に父が心配そうな目を向けた。

「リュシアン。何かあったんなら行ってこい。わしはもう平気だから」

「ごめん。すぐに戻るから!」


 外へ飛び出し、一気に走り出したものの、自分がどこに向かってるのかも分からなかった。

 アリスの行きそうなところなんて限られてる。思い当たるのはうちしかなかった。そこじゃなかったら、一体どこだ。アリスには他に行き場所なんか無いはずなんだ。どこかに捕まっていたりしたら……!

 だめだ。どうしたらいい。――頭が働かない!

「リュシアン!」

 覚えのある声にはっとして振り向くと、ジョアンが風景にとけ込むようにぼうっと立っていた。その肩の上で必死で手を振るのは――

「シャルル!」

 ぬかるんだ地面に足を取られながら、ジョアンの前に転がり込む。

「アリスは?」

「ここじゃないのね? じゃあ……」シャルルが口ごもると、ジョアンが懐から新聞を取り出す。

「この記事を読んで! 一昨日の記事よぅ! カルバン侯爵の娘って、十六歳って、ひょっとして――」

 かすれた声が喉を裂くようにして漏れた。

「……どうして」

 そこには、公爵家の当主が再婚するという記事が載っていた。相手はカルバン侯爵家の一人娘。――アリスだった。

「やっぱりそうなのね? あなたの調査結果をこの間聞いてね、カルバン侯爵について調べてみたのよぅ。後妻が子連れの未亡人っていうのは噂で知ってたけれど……、なんだかその娘の事が気になって新聞で過去の記事を探したの。でも、過去一年くらい探してもびっくりするくらい何の記事も無いの。侯爵家の娘よ? もう縁談の一つくらいあってもおかしくないはずなのに。だからもしかしてって」

「そうだ。アリスは……カルバン侯爵家の娘だ」

 呟くと新聞を握りしめる。

 どうして。どうして家に戻ったりしたんだ。戻らないって言っていたのに。

 混乱してぐらぐらする頭で必死で考えていたけれど、やがて一つの考えがぽつんと浮かび上がった。

 もしかして……僕から逃げたかったのか。もう、僕がいくら頑張ろうと、僕を待つ事は無い、そういう意思表示なのか。

 そうだ、よく考えれば、アリスは僕がしている事は何も知らないはず。一言も謝らずにひと月も放っておいたんだ。呆れられて見捨てられてもおかしくない。その考えに、奈落の底へと突き落とされた。

「……アン! ――――リュシアンったら!」

 頬に何かぶつかって鋭い痛みが斜めに走り、ようやくはっとする。

 シャルルが飛び蹴りを入れて来たようだった。彼はくるくると何回転かして華麗に地面に着地すると、ジョアンに拾われて、またその肩の上に乗る。

「何してるのよ! ほら、助けにいくんでしょう?」

「助けって……アリスは自分から家に戻ったんだろう?」

 ――僕を捨てて。

 奪われたのなら、取り返す。でも……アリスの意志なら。彼女の意志がそこまで固いのなら、助けるも何も無い。

「今更なんなのよぅ、何捻くれてるのよぅ! もしかしてあの手紙の事引きずってるって言うの? ああもう! アリスの言った事を馬鹿正直に受け止めないでよぅ! アリスがあまのじゃくだってよぉく分かってるでしょ! あの子は欲しいものを欲しいなんて言えないのよぅ! ――アリスはね、あなたの事が好きなの。なんでか知らないけど、こんな、ほんっとうにどうしようもない男のことが好きなの! 今までの事を思い出しなさいよ! アリスが自分から行動する時って、あなたのためだったでしょう? 今度もそうに決まってるじゃない!」

「僕のため……」

 最初はパンを盗んで来た。無謀にも人食いの城に行って、人食い退治をしようとした。王の企みを阻止するためにシャルルに協力して、お姫様との縁談を壊そうとした。エクリプスの木の下で、僕を助けるために猫の姿で果敢に戦った。最初から最後まで、全部、僕のためだった。

「今度はあなたが追う番なのよ、リュシアン」シャルルは僕を指差すと、真剣な目をして言う。

「アリスは自分に正直よ。何にも媚びないし諂わないわ。あなたに嫌われることさえ恐れなかった。それがあなたのためだと信じて突き進んでた。……あなた、あんないい女をそんなに簡単に諦められるっていうの?

 いい? 恋っていうのはね、一方通行じゃないのよ。愛情を向けられなくなったら諦める? 何シケた事言ってるのよ! 欲しいのなら、きちんと与えられたものに対して、対価を支払いなさい。それこそおつりがくるくらい愛情を示しなさい。そうでなければ、あなたは彼女にふさわしくはない」

 シャルルには何度尻を叩かれれば良いんだろう。僕は土壇場に弱過ぎる自分に呆れていた。

 頬を両手で激しく打つと気合いを入れる。

「ありがとう、シャルル。その通りだ」

 今度は僕が彼女のために尽くす番だった。あの家から僕が攫ってやる。それで嫌われても構わない。だって彼女の幸せは……きっとあの家には無いのだから。


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