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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第四章 優しく残酷な魔法
33/71

32 強面のご夫人


 僕は通された粗末な部屋で、棚に並ぶ高級な食器を観察していた。それらは所狭しと棚に並べられていて、少しでも動いたらそれらが割れてしまうのではないかと、ひどく落ち着かない気持ちになる。

 シャルルの城で慣れているはずなのに、ここは同じ金持ちでもなにかが違う気がした。とにかく派手なのだ。無駄にギラギラしていて、すべてにいかにも『金がかかっています』という主張が見られる。シャルルはあれでいてセンスは良かったのかもしれないと思わざるを得なかった。彼は質の良いものは選ぶけれど、基本的には無駄な装飾を嫌っていた。要は皿の上のものだけが大事なんだろうけれど。

 それにしても……。先ほどの事を思い出し僕はため息をつく。うまく行った……んだよな? あれで良かったはず。そうは思うものの、あの女の子を利用してしまったのではという罪悪感に苛まれる。

 足下の袋からはパンの甘い香り。本当は『これ』だけでうまく行くつもりだった。でも門番は僕を不審者としてまるで相手にしてくれなかったのだ。主人に取り次いでくれといくら言っても駄目だった。

 だから方法を変えた。もう一つの武器を使わざるを得なかった。

 それは――僕の外見。もちろんそんな真似はしたくなかったけど、もうつべこべ言ってる場合じゃない。目の前にアリスを元に戻すチャンスが転がっているかもしれないのに、何もせずに帰るわけにはいかなかった。

 僕は矛先を変えた。門番の男達には使えなかったが――シャルルのような例もあるけれど、その可能性は考えたくもない――、使える相手がいるはずだった。

 丁度買い物に出かけるのか、一人のメイドが屋敷から出て来たので、彼女の後を付け、頼み込んだのだ。お屋敷でパンを取り扱って欲しいから、主人に目通りを願いたいと。新聞で紹介された評判のパンなんだと、味見だけでもと、熱心に訴えたら、その子は顔を赤らめて頷いてくれた。嬉しくて思わず手を握ってしまったけど……誤解を招くような真似だったかもしれない。あの後、女の子の瞳に多少熱がこもったような気がして、不安でならなかった。


 カタン


 部屋の入り口で音がして、そちらを見ると、強面の『ご婦人』。

 ……うわぁ……。

 一気に体温が下がるのが分かる。申し訳程度に化粧の施された顔と盛り上がった胸を見れば性別はまぎれも無いのだが、その体格の、特に短い袖からむき出しの二の腕の立派なこと。背も女性とは思えないくらいに高い。肌は健康的に焼け、黒光りしていて、鉱山で働いていると言っても納得するだろう。その手にはきらびやかな扇よりもつるはしが似合う。つまり、この人はここの主人ではあり得なかった。

 僕の表情がそう訴えていたのだろう、女性はギロリと僕を睨む。その茶色の瞳が放つ眼光は体に刺さるかのように鋭い。

「私は、ここの古参のメイドだよ。あんたかね、取り次いで欲しいっていうのは。主人は忙しいんだ。そんなに簡単に会えるわけ無いだろう?」

 そう言うと、女性は眉をひそめながらじろじろと僕の顔を覗き込む。

「ふぅん? のぼせ上がるだけあって、確かにきれいな顔をしてるが……なんであの子もこんなのに引っかかるかねぇ。何だい、その細っこい腕は。へなちょこじゃないかい」

 あなたの腕が異常なんだ。……駄目だ。この人には僕が持っているものが何一つ通用しない。僕は一瞬でそう悟った。それでも今追い出されるわけにはいかない、粘るしか無かった。

「ぼ、僕は……パンを売りに来ただけで」そう言いつつ、パンの入った袋を差し出すが、女性はそれを掴み、中身を一瞥すると棚にどんと置いた。棚が揺れ食器がカチャカチャと不安定に揺れる。

「ふん、嘘を言い慣れてないね。顔が引きつってるよ。正直にお言い。何しに来たんだい」

 女性とはとても思えないようなドスの聞いた声で恫喝され、竦み上がる。

「まさか記者じゃないだろうね? 最近またうろついてるって噂を聞くが」

「記者?」

「違うのかい。じゃあ……記者でもないのにお屋敷の事を探りたがるとなれば……公爵家の人間かねぇ……」

「公爵?」きょとんとすると、婦人はその瞳と同じ色の頭をぼりぼりとかいた。

「それも違うのかい。じゃあ何だってんだい。今日はなんだか知らないが上がバタバタしててね、いつもより忙しいんだ。主人に報告しなきゃ行けないんだよ。さっさと吐きな!」

「…………え、ええと」

 なんと言えばここを切り抜けられるのか分からずに黙り込むと、いきなり後襟を掴まれ、足を払われ、猫のように持ち上げられる。ねえ! ……あり得ないだろう! その二の腕!

「もういいよ。面倒ごとはまっぴらだ。二度と来るんじゃないよ」

 軽々と持ち上げられたまま、裏口へ運ばれる。足が届かず、空を歩きながら僕は慌てて言った。このまま帰るわけにはいかないんだ!

「ま、待ってくれ! ね、猫の事で、聞きたい事があるんだ!」

 叫ぶように言うと、婦人の足がぴたりと止まる。

「猫?」

 一瞬の間を逃さずに言葉を埋め込む。

「最近まで飼ってた猫と喧嘩して、えっと……家から逃げたんだ! それで、それで、ずっと探してたんだけど……ここで見かけたって話を聞いて」

 嘘は苦手だ。家から逃げた――正しくは追い出された――のは僕で、探してたのは情報で、見かけたというのは昔の話だったけれど、とにかく色々省いて真実だけを手早く伝えた。

 どうやら作戦は失敗した。でも……少しでも情報が欲しかった。


 部屋には沈黙が重く横たわっていた。

 やがて僕はそっと床に下ろされる。襟元を糺して婦人を振り向くと、そこには驚愕の表情があった。

「……もしかして、その猫は、銀色の毛で緑色の目をしていて……アリスって言う名の……魔法の猫……?」

 僕は頷く。俯いて黙りこんだ女性を不審に思い、少し身をかがめてそっと覗き込むと、彼女は涙ぐんでいた。

「……アリスお嬢様……」

 お嬢様? 呻くようなその言葉を怪訝に思い、視線で問う。婦人は僕の腕を掴み、辺りを見回すと、先ほどの部屋に入って扉を堅く閉める。そして小声で問いただした。

「あんた! 嘘じゃないんだね? 一体どこまで知ってるんだい?」

 先ほどとは打って変わってその声には懇願するような響きが混じっていた。

 彼女の目には人を思いやるような暖かい光があった。それを見て僕は、決めた。彼女には小細工はせず、本音で話してみようと。

「何も。――――それを知るために僕はここに来たんです」



 婦人の名前はマリーと言った。随分前からこの屋敷に務めているらしい。

「アリスお嬢様はね、ほんっとうにいい子なんだよ」

 僕は頷きつつも尋ねる。さっきから何だろう、そのお嬢様って。

「お嬢様って、いくら何でも猫に対して変だろう?」

 僕がそう言うと、マリーはムッとしたように僕を睨む。

「お嬢様をお嬢様って言って何が悪い」

「……?」

「アリスお嬢様は、正真正銘、この侯爵家のお嬢様だよ」

「は……?」

 お じ ょ う さ ま ?

「な、何言って……」

 マリーは悲しげに眉を寄せる。

「ひどい醜聞だろう? だから皆必死で隠してるけどね。隠してるから一年経っても見つからないと思うんだが。……ああ、言っておくが、この事が漏れたら命は無いと思っておいた方が良いよ」

「どういうことだよ……そんな」

 だって、アリスは、『主人』って言っていた。その主人ってのが……まさか親だという事なのか?

 その歪さに一瞬吐き気を催す。小さく息をつくと、部屋の空気とともに飲み込んだ。

「三年前かねぇ、あの親子がこの侯爵家にやって来たのは。旦那様が結婚を強く望まれてね。子連れの未亡人と聞いて一時期大変な話題になったんだが……知らないのかい?」

 知るわけが無い。その頃は新聞を買う金などなかった。頭を振ると、マリーはため息をつく。

「まあ、ゴシップに興味津々な男はあたしも嫌だけれどね。でも侯爵家の縁談くらいは知っておいた方が良いと思うよ。アリスお嬢様はその頃十三歳で。そりゃあ、可愛らしい娘さんだったよ。母親、つまり今の奥様もお美しいけれど、やはり若さだろうね、瑞々しくて。奥様が薔薇なら、お嬢様は百合のような可憐さだったねぇ」

 思わず頷く。そうだ、アリスの雰囲気はまさしくそんな感じだ。気品があって、凛としてて、でもそれでいてどこかほっとする。

「どうして猫に?」

「それがねぇ……はっきりした事は私ら下っ端には分からないんだ。夕方は人の姿だったというのに、朝になったら猫の姿でベッドにいらしてね。それっきり元に戻らなくなっちまったんだよ」

「原因は? 何かあったんじゃないのか?」

 覚悟を決めていたけれど、いざとなるとそれを聞くのは怖かった。それでも続きを促すと、言いにくそうにマリーは顔をしかめた。「ひょっとしたら……ってのしか無いけどね」

「何?」

 僕の表情を見て何か感じるものがあったのかもしれない。マリーはひどく気の毒そうに言う。

「お嬢様は公爵様に嫁ぐ事が決まってたんだ。後妻としてね。二十も年上の男だよ? まったくどうかと思うよ。相手の男は昔お嬢様を見かけて目を付けていてね、結婚できる十六になるのを待っていたんだ。侯爵家としても相手が公爵様じゃあ、断る理由も無い」

「嫁ぐ……?」

 まったく別の想像をしていた僕は、一瞬その意味が分からなくなる。じわじわと理解して目を見開いた。

「お嬢様が十五の時に、正式に申し込みがあってね。その直後だったね、猫に変わられたのが。だからそれが原因だろうって」

 それじゃあ、と僕は焦る。

「その縁談は……もちろん破棄されたんだよね?」

 だって彼女が家を出てもう一年経っている。そう願った。

「……いいや。先方がまだ待ってる。さっき言っただろう? 公爵家のものかって。表向きにはお嬢様は臥せっているという事になってるんだ。逃げたってのは先方のメンツ丸つぶれだからね。でもあまりにそれが長いものだから、疑われててね。いろいろ理由を付けて誤摩化してるんだが、早く差し出せとうるさいんだよ。だからこっちもぴりぴりしてる」

「でも……アリスは魔法の猫だ」

「都合が良いらしいよ、あちらにとっても。もう跡継ぎはいるから、今更新しく子は要らないらしくてね。最初混乱が起きると反対していた家のものも、魔法の猫だと聞いて大人しくなったそうだ。大枚叩いて魔法使いも雇うらしい。まるで人形だよ。お可哀想に」

 王の顔が瞼の裏に浮かんで、納得した。ああいった人間にアリスが人間であろうが猫であろうがそんな事は関係がない。アリス自身を愛していない人間にとっては、彼女の幸せの事など最初から考える余地がないのだ。

 意に染まぬ結婚。それが理由なのか? 確かに、それも一端かもしれないけれど……何か僕は重大な事を忘れている気がした。混乱する頭を振る。

 ――そうだ。

「アリスが猫に変わった日に、何か変わったことは? その公爵様がこの家に来ていたのか?」

「いや? どうしてだい?」

 黒い影。雷。――男。今の話にはそれらが関係していなかった。

「じゃあ……誰か男が屋敷に侵入したとか、そういうことは?」

 マリーの様子からはそんな事は考えられなかったが、念のためにはっきりと聞く。万が一と思うと震えが走った。

「……そんな事は無かったと思うねぇ。あったら大騒ぎだよ」

「そう、か……。本当に何もないんだね? 些細なことでもいいんだ」

 しつこく聞くと、マリーは天井辺りに視線を漂わせてしばらく何か懸命に思い出していたが、やがて言った。

「いいや。何も……いや、あえて言うなら、旦那様と奥様が大げんかしてたくらいかね。まあ、猫に変わられたお嬢様の事を考えれば当然だろうが」

 ほっとした。でも小さなしこりが胸に残る。……一体なんだ、僕は何が気になっている? 懸命に心の中を探るけれど、追えばそれは逃げて、捕まってくれなかった。

 結婚が重要な意味を持つ事は分かったけれど、結論づけるには何かまだ手がかりが足りない気がしていた。

 僕の思考を遮るように、天井で派手な足音が響く。マリーを呼ぶ声も聞こえて来た。どうやら何かあったらしい。話はさすがに打ち切りだろう。マリーは部屋から僕を出すと裏口へと誘いながら小声で囁いた。

「とにかく、お嬢様がここに戻るような事があっちゃいけないよ。あんた、ホントは居場所に心当たりがあるんじゃないかい?」

 ……バレてたか。

 僕は肯定とも否定ともとれないように曖昧に微笑む。この人は信用できると思ったが、こういう事はどこから漏れるか分からない。

 マリーは念を押した。「もし見つけても……ここに返しちゃいけないよ? 分かるね? お嬢様はここにいちゃ幸せにはなれないんだ」

 言われなくても返すつもりは微塵も無かった。



 生温い夜風を肩で切りながら、僕は足を早めて家路を急いだ。あまりの事に父さんの事を忘れかけていたのだ。具合が悪くなっていたら大変だ。

 喉からはぜいぜいと息が漏れ、髪の毛が汗で額に張り付く。腕で拭って、立ち止まる事も無く走り続けた。

 そして家の明かりがぼんやりと見え始めた頃、僕は大事な事を忘れていたのに気がついた。

「あ、しまった」

 あの様子じゃマリーは知らなかったかもしれない。でも、尋ねるくらいはしなければいけなかった。

 立ち止まり、後ろを振り向いた。アリスの正体が分かった事で舞い上がって忘れていた。馬鹿さ加減に腹が立ち、自分の頭をげんこつで殴る。

 シャルルの話を思い出す。猫から人間に戻るには魔法薬を使えば良い。しかし……その逆は? それをする意味は?

 横たわる夜の闇に向かって、呆然と呟く。

「アリスを猫に変身させたのは……一体誰なんだ」

 答えは当然返って来なかった。


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