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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第四章 優しく残酷な魔法
32/71

31 懐かしい我が家

 埃っぽい風が耳を撫でた。懐かしい。ちょうど一年前だわ。あのとき、馬車に轢かれて……リュシアンと出会って。

 あたしがやって来たのはオーランシュ。シャルルにもジョアンにも黙ってこっそりと城を抜け出して来たのだ。だって知られたら何を言われるか分からない。

 夜明け前からずっと走りっぱなしで、しかも夏の日差しもきつくて、もうくたくただった。

 体から抜け出た水分を補うため、広場の噴水で水を飲む。一年前にはたどり着けなかったこの噴水。人心地ついて見回すと、様々な店が建ち並ぶ。目線を南に向けると、王宮に向かうにつれて道も整えられ、宝飾店や服飾店などのきらびやかな店が増えていた。前の主人はこの並びで買い物をするのが好きだったわねと、そんな事を思い出す。そうそう、それで暑くて……死にかけたのよ。

 今日は、あの日と同じくらいに暑い。地面から立ち上る陽炎が、景色をぼやけさせていた。

 北に目を向けるとそちらは下町だ。王宮から離れるに従い、庶民向けの店が増えていく。色とりどりの食べものが店先に並べられていて、あたしのお腹を刺激した。店先で気怠そうに寝そべっていた犬があたしを警戒するようにグルルとうなる。

 今はもう泥棒猫じゃないわよ! ちゃんとお金だって持ってるんだから!

 リュシアンの家に残して来たお金で何か食べ物を買おう、あたしはそう考えていた。前に王からせしめて使わなかった分は庭に穴を掘って埋めていたのだ。

 通りをリュシアンの家に向かって歩いて行くと、古くて小さな家が見えて来た。家の裏では水車が川の流れに乗ってゆっくりと回り、その水音が辺りに涼しさを運んでいる。

 懐かしく思いながらじっと眺めていると、家から疲れた様子の男の人が出て来た。リュシアンのお父さんだった。見ると家の扉の脇に人が立っている。お客さんらしい。

 見つかっちゃったらリュシアンにもバレちゃうかも。そう思って、庭に入り損ねて、家の影でこっそり様子を窺う。

 お客さんはリュシアンに用がある様で、お父さんを見ると渋い顔をした。

「ああ、リュシアン君は? パンの事で話があるんだが」

「ああ……またかい。いくら言っても無駄だよ。今は事業を拡大する気はないって」

「本人と話させてくれよ、気が変わるかもしれないだろう?」

 お父さんは少し困ったような顔をして、それから躊躇った様子で口を開く。

「リュシアンはなあ……出かけてるんだ」

「どこに?」

「このところ、毎日隣町にな。どうもバルザックに恋人が出来たらしいんだ。あの奥手なリュシアンがひどく熱心でな。パンの事もどうもその恋人のために頑張ってるみたいなんだよ。あいつは何も言わないが、彼女と会う時間を作るために必死なのが見え見えでおかしいんだ」

「ああ……そういうわけか。じゃあ、はやいとこ嫁に来てもらえばその気になるかもな。あ、でも結婚しちまったらパンが売れなくなるかもしれねえな? でも、おやっさんももうすぐ娘さんが出来るってわけかい。そりゃあ、めでたいねぇ」

 ガハハと笑うお客さんに向かって、お父さんは照れたように、でもしっかりとすごく幸せそうに微笑んだ。その笑顔はリュシアンによく似ていて、あたしはリュシアンが笑ったのかと一瞬錯覚した。

 ――――コイビト、ヨメ、ケッコン――――

 頭の中をそれらの単語がぐるぐると回る。それと同時に目の前の景色もぐるぐると回っているような気がした。

 うそよ、そんなの。だって……つい一月前よ? あんな風に、好きだって言ってくれたのは。そんなに簡単に心変わりなんてするの? 違うに決まってる。いくら何でも、あのカタブツのリュシアンがそんなこと。

 それ以上その場にいる事が我慢できずに、回れ右をして駆け出した。

 自分の目で確かめないと。絶対嘘に決まってるんだから。でも、もしそうなら――――

 想像すると胸を鋭く刺されたように痛みが走る。

 あんな風に、中途半端なままなんて。彼の中ではとっくに終わっていて、あたしだけ、まだ引きずってるなんて。もしそうだったら、そんなの、許せない。

 喉と鼻の奥が焼けるように痛かった。ぐっと、その痛みを飲み込むと、あたしは、目の前に広がり始めた懐かしい町並みを睨む。

 そんな風に終わるくらいなら――彼のあのきれいな顔を思いっきり引っ掻いて、こっちから振ってやるんだから。


 *


 街の中央にある噴水に顔を突っ込む。空気よりも水が恋しかった。喉がからからに干上がっている。走りすぎて足ががくがくいっていた。

 暑いを通り越して熱かった。もう、毛皮を全部脱いでしまいたい! さすがに猫の姿を恨めしく思う。

 喉が潤うと、しばらく放心してその町並みをぼんやりと眺める。当然だけど、あたしがここに住んでた時とあんまり変わっていなかった。噴水を取り囲むように四角い石が丁寧に並べられ、円を描いている。そんな風に舗装された広場では、オーランシュとは違い、風が吹こうと埃が舞う事も無い。漂う空気の色が違っていた。

 勢いに任せて走って来たものの、この広い街でリュシアンの行方なんか分かりっこ無かった。

 相変わらず、あたしって、馬鹿だわ。

 お腹がグルグルと鳴り、そっと撫でると、さっきたらふく飲んだ水でタプタプと音がするような気がした。余計に自己嫌悪に陥る。

 せめてお昼ご飯を食べてくれば良かった。朝食べたっきりで、昼も食べずにここまで駆けて来て、もう日が傾きかけている。仕事から帰る人々が一様に足を急がせていた。一食どころか二食抜く事になりそうで、一気に脱力する。もう、シャルルの城に帰る気力も無かった。

 途方に暮れているところに、ふと良い香りが腹ぺこで敏感になった鼻を誘う。あれ? この匂い。昨日嗅いだあの……

「――――あ!」

 匂いのした方向を見ると、噴水の水越しに黒い髪が目に入る。噴水の向こう側の淵に腰掛ける少年の横顔は……リュシアンだ!

 あり得ないほどの偶然に飛び上がって駆けつけようとして、直後足が止まった。

 彼の視線の先には女の子がいた。 

 ――う、そ。

 女の子はおそらくリュシアンと同じくらいの歳で、どこかのメイドなのかもしれない、白いエプロンをつけて買い物かごを脇に置いていた。茶色い髪が丁寧に編み込まれ、その毛先を束ねた空色のリボンが風にひらひらと揺れる。

 二人は熱心に話し込んでいるように見えた。どちらかというとリュシアンが強く何か訴えているように見える。女の子はぼうっとした様子で、リュシアンのその瞳に釘付けになっていた。耳を澄ますけれど、噴水の音なのか、それとももっと別の音なのか……耳鳴りのようになって聞こえて来ない。

 二人の様子を見ているうちに、お父さんの言葉が耳に蘇る。「恋人が出来たらしい」。それは何度も何度もあたしに言い聞かせるように繰り返される。

 うそよ。ただ……話してるだけに決まってる。

 そう思って祈るように見つめていると、やがてリュシアンがその女の子の手を握り、顔を輝かせ――直後、真っ赤になって手を離した。女の子も恥ずかしそうに俯いて、でも嬉しそうにしている。

 その、あまりにも初々しい雰囲気は、まるで付き合いだしたばかりの恋人同士のよう。

 衝撃で視界が急激に狭まるのが分かった。見えている風景が、リュシアンの横顔が、小さく縮んでいく。

 そろそろと後ろに後ずさる。そして一気に身を翻して駆け出した。さっき引っ掻いてやろうと考えていたことなんか、もう頭の片隅にも無かった。

 そして、混乱が判断を鈍らせた。踏み出しては行けない方向へ、二度とその地を踏むまいと思っていた場所へあたしは足を進めていた。

「――――アリスお嬢様?」

 え?

 その声に我に返ると、懐かしい門構え。

 目の前で、どっしりとしたカルバン侯爵邸があたしを待ち構えていた。



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