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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第三章 魔法薬のレシピ
24/71

23 からっぽな空

 僕らはそのまま岩陰で寄り添って朝まで過ごした。僕も彼女も一言も発しなかった。体は疲れているというのに睡魔は全くやって来ず、僕は眠った振りをして、アリスの様子をうかがっていた。彼女は濁った空を睨みながら、じっと何かを考えていた。

 体温を分け合えるほどに近くにいるというのに、僕たちの間にある壁はとてつもなく高く、険しく、そして冷たかった。

 そして厚い雲の間から差し込む朝日が岩肌を照らし出す頃、僕は一人立ち上がる。後ろは振り向かなかった。

 ――どうして?

 背中に投げかけられる、問うような視線が痛かった。

 神の名を知らない彼女はその罪を受け入れられない。

 罪とは何だろう。神とは何だろう。

 僕はどうして、それらから逃れる事が出来ないのだろう。いっそ、猫になってしまえれば。アリスのように神の名を知らなければ、罪を罪と知らなければ、どれだけ幸せに生きて行けるのだろうか。

 僕はできもしない幻想を胸に、ただひたすら山道を駆け上がり、やがて頂上へとたどり着く。それでも答えは出ず、目の前には旅の終わりを示す白い木が立っていた。

 まだ昼のはずなのに、あたりは崩れかけた天気のために薄暗く、今にも日が暮れそうだと錯覚する。

 あ、れ……? 確か、昨日は……

 ふと様子がおかしい事に気がつく。白い木が放つ光は山の中腹からでも見えるくらいに明るかったはず。それなのに今は――

 違和感を感じ、木を凝視すると木の下には五つの人影。その手にはおのおの大振りのシャベルが握られ、数人がその根元を大きく掘り返している。

 なにを……?

 シャベルが動くたびに白い光が弱って行く。それなのに彼らはそれに気づく事も無く、淡々と作業を進めていた。

 思わず僕は走り出す。

 途中枯れた木々が寂し気に立ち並ぶ。根元の土はぬかるんでいて、木々はそこに溺れていた。そして根が腐ってどろどろに溶け、嫌な匂いを放っている。このところの異常気象にやられてしまったのかもしれない。流通量の減りとそれが急に結びつく。

 目に入る人の形が次第に明らかになり、僕はいったん立ち止まる。そして目を見開いた。

 あれは、もしかして――

 男には見覚えがあった。あのでっぷりと太った男と、その傍にいるガリガリの骨のような男は、そうだ、蛙と蛇に変身した……あの時の王の侍従。

 あの王ならば、やりそうだと思った。人身売買という事業を失ったあの金の亡者は、価格の高騰にいち早く目を付け、その木自体を手に入れその流通を独占するつもりなのだろう。

 しかし――それがうまく行くとは思えない。その弱って行く光を見て僕は確信していた。

 この木は、ここでしか育たない。しかも、すぐに手を打たないと……他の木のように枯れてしまう。

「やめろ!」

 木が悲鳴を上げているような気がして、僕は反射的にそう叫んでいた。

「お、おや?」

 のんびりと作業を鑑賞していた太った男が、こちらに視線を流すと、驚いたように立ち上がる。飛び上がるようなその動きは体の割に洗練されていた。

「おいおいおい!」

 妙に嬉しそうにその顔を輝かせ、痩せた骨男を手で招きながら、彼は近づいて来る。

「奇遇だな。会いたいと思っていたんだぜ!」

「一体何をしてるんだ」

 僕は男の言う事を無視して尋ねた。太った男はニヤニヤ笑いながら答える。

「ん? 見て分からない?」

「実の乱獲か」

「人聞きの悪い。この木をもっといい場所に移してあげようってやってる事じゃないか」

「この木は、ここでしか育たない。ほら見ろよ、どんどん弱ってる。馬鹿な事はすぐに止めろ!」

 僕の激した様子に、男は少し眉を上げ、何か考える様子だったけれど、やがて言った。

「…………ああ、そうか。お前、確かあの猫が好きだったんだか」

「だから何だ」

「それでここまでやって来たと。健気だねえ。もう簡単には手に入らなくなるって言うのに。――この木は王のものとなる。そして実は王家の専売だな。あの方は、魔法使いが大きな顔をしている現状が気に食わないんだと。実が流通しなくなれば、奴らも気軽に魔法を売れなくなる。収入源がなくなれば自ら頭を下げに来るだろうってさ。そうやって実に込める魔法を買いたたけば、新たな事業の出来上がりだ。お金の事となると、さすがだね、あの人は」

 半分は呆れたような口調だった。

「そうだな、おそらくあの実は一粒で金貨一枚ほどで取引されるようになるだろう。貴族サマには痛くも痒くもないだろうがね」

 あざけるような笑いが不快だった。

「金、金って……お前達の主人は、どこまで腐ってるんだ!」

 僕の言葉にも彼は全く動じず、にやにや笑いがさらにひどくなる。

「って言ってもな、お前さんもすぐに金が欲しくなる。あの猫を人間にするためには実が必要なんだからな。どんな高額でも支払うようになるだろうよ。……さーてと、おしゃべりが過ぎたな」

 ゆらり、その体が温度を高めたかに見えた。間抜けに見えていたその目が一瞬で玄人のものと変わる。

「!」

 ぞくりと悪寒が背を這った。それはこの間命の危機を感じた時と同じもの。

「……じゃあそろそろこの間の借りを返させてもらおうか」

 男がシャベルを振り上げたかと思うと、僕めがけて振り下ろす。とっさに飛び退いてそれを避ける。シャベルは土へ深々と根元まで突き刺さった。それを難なく引き抜くと、男は嗤う。その目が鋭く僕を睨んだ。

 再び彼がそれを肩に持ち上げ、直後重力に逆らわずに振り下ろす。足先にそれが再び刺さり、僕は後ろによろける。武器になりそうなものを探すけれど、枯れた枝が数本落ちているだけで、全く頼りにならない。土を掴み投げつける。嗤って避けられる。自分が大人にあやされている子供になったような気がした。

 シャベルは追って来る。そこだけ闇の中で浮いたかのようにそれは僕に迫り来る。男の顔はもう見えない。見る余裕など無い。

 ――避けられるか――

 盾になるようなものは周りに無い。背を向けて走り出したところ、僕の足を溶けかけた根が掴んだ。無様に倒れ、振り返ると、すぐ傍に男が立っていた。

 シャベルのその尖った切っ先が雷光に煌めき、僕はそのまぶしさに目を閉じる。この間とは違って、死は甘く優しく僕を誘っていた。僕は……心のどこかで、死に救いを求めていた。


 ――もう、駄目だ――





 ――――ザン


 音を立てシャベルが頬をかすめた。小さく鋭い痛みが一筋頬に走る。え――助かった……?

 目を開け跳ね起きようとしたけれど、シャベルが服を巻き込んで地に突き刺さっていて動きがとれない。慌てて男を見上げると、白いものが男の顔に張り付いている。

 それは――

「アリス!」

「うお! 離せ! 離しやがれ!」

 ガリガリガリっと凄まじい音がしたかと思うと、血まみれの男の顔が現れ、僕はその凄惨さに一瞬目がくらむ。この間の王とは比べ物にならないほど無数の傷跡がその顔に走っていた。

 彼女はスタッと地面に降りると、僕を庇うように前に立ち、その背を丸め、毛を逆立てて男達を威嚇した。そしてこちらを見る事も無くまくしたてる。その横顔は泣いているように見えた。

「……リュシアンの馬鹿! なによ、簡単に諦めないでよっ! あたしは諦めないわよ。あんなの人の作った勝手な理由じゃない! だいたい、死ぬ気だったら何だって出来るでしょ? 一緒に地の果てまででも逃げるってくらいの男気を見せなさいよ!」

 それが、彼女が一晩かけて出した答えなのか――。

 一緒に死ぬでも無く、そして僕から離れるでも無く。一緒に生きる道を探す、と。

 どうして、こんなに彼女は強いんだろう。何が彼女をそこまで強くする?

 僕は必死でシャベルを抜こうとするけれど、深々と突き刺さったそれはなかなか動かない。

「こんの!」

 男は怒り狂い、アリスに掴み掛かろうとする。そして掴んだかと思うと噛み付かれ、再び悲鳴を上げる。

「――落ち着け」

 冷たい声が響き、アリスに丈夫そうな袋が被せられた。傍で顛末をじっと見つめていた骨男がようやく動いていた。

「こいつは、いい土産だ。あの方は気に入っていた。お前も、その傷の礼はもっと楽しい方法で返せばいいだろう?」

 袋が激しく変形する。所々布の目から爪が飛び出ていた。僕は必死でシャベルを持ち上げる。

「出しなさいよ! レディに対して失礼でしょ!」

 ぐらりとシャベルが動き、それが抜けた。僕は立ち上がり、袋を担ぎ上げる男に向かって僕は追いすがる。どうしても腑に落ちない。腑に落ちなかった。どうして、お前達は――――

「アリスは猫だ! 獣と交わればどうなるか知ってるだろう? ……お前達は神に逆らっても平気なのか?」

 瞬間、骨男は妙な顔をした。お前は何を言っているんだ、その目がそう言っていた。

 太った男がその顔を拭いながらせせら笑った。

「はぁ? 神に逆らう? ああ、聖典に反してる事は十分知ってるがな。それは、ほら、姦淫するべからずってやつだ。だーれもそんなもの守ってないがね。黙ってりゃバレないし、バレたって女房に半殺しにされるだけだ。捕まりゃしねーよ。でも……獣だって? 何言ってんだ。――――魔法の猫なら、元は人間だろうが!」

 野太い声が槍のように僕の胸を刺す。ザアっと、雨粒が急激に地を打ち出した。一瞬辺りの音が全て消える。


「……に、んげん?」


 それははたして自分が言った言葉だったのだろうか。ひどく遠くで声が響く。――僕はその言葉の意味を一瞬忘れてしまったかのようだった。

「は、こいつそんな事も知らねえのか、貴族のなりをしてるくせに。お前らの間じゃあジョーシキだろ? ……お? ってことは、こいつ本気で猫に惚れてたって訳か? そりゃ……かなりイカレてるな」

 太った男が呆れたようにそう呟く。その声からは怒りが消え去り、哀れみだけが残っていた。

 骨男がふと屈むと地面に落ちていた小さなものを摘む。そして淡々と説明を続けた。

 その指には一粒の真っ白い実。

「魔法の猫ってのはな、猫に変身して元に戻れなくなった『人』。人であった記憶も理性も捨てて『猫でいることを選んだ人間』なんだよ。原因は知られてないがな。まあ……どっちにしろ、この実がなければただのしゃべれる猫だ」

 男の指から実が放たれたかと思うと、それは音も無く足下へ落ちる。その足が動き、そして小さな雫は砕け、弾けた雨粒のように儚く大地へと溶けた。

 怒濤のようにいろいろな事が頭の中に沸き上がり、それらが重なり繋がって一本の線になって行く。シャルルがアリスとの仲を取り持つのは? 王が聖職者であるにもかかわらずアリスを求めるのは? そして何よりも、彼女のその高い知能と、人のような心。それは鼠となったシャルルとまるで同じで――

 どれをとっても、人間を猫に変えたと考える方が自然だった。

「じゃあ――僕たちは――」

 僕は男達の方へ一歩足を進め、アリスに手を伸ばす。

 直後。カッと視界が真っ白になったかと思うと、ドンという轟音が辺りを包む。アリスの悲鳴がそれに続いた。

 はっと顔を上げると、雷に打たれた木が燃えていた。男達は呆然とそれを見つめ、その隙を見てアリスは袋から飛び出す。そして一目散に走り出したかと思うと、何かを必死で叫びながら僕の腕の中に飛び込んできた。

 僕は一瞬彼女を強く抱きしめる。そして次の瞬間、男が止めるのも振り切って駆け出していた。

「お、おい! あぶねぇぞ!」


 人間だったなんて。

 ――人間だったなんて。

 ――――人間だったなんて。


『この実がなければただのしゃべれる猫だ』

 希望が、燃えていた。

 真っ黒な炎を上げて。

 僕は、

 彼女を手に入れたいのに。

 神は、それを許してくれるというのに。

 

 腕の中のアリスはいつの間にか気を失っていた。僕は彼女を少し離れた所にあった岩の窪みに横たえると再び駆け出した。しなければならない事があった。

 炎は目と肌を焼き、煙は鼻と喉を刺した。木は根元まで裂け、その火の勢いは雨の勢いに勝っている。木を掘っていた男達が根元で倒れていた。それは絶望的に焼け焦げていて、その生死は確かめずとも分かるくらいだった。二人組がそれに気づき、慌てて彼らを蘇生させようとしているけれど、僕は立ち止まれない。凄惨な絵も心に響く事無くすり抜けて、もう目の前の炎しか目に入らない。

 上着を脱ぐと、力一杯火を叩く。何度も、何度も。

 お願いだ。消えてくれ!

 火の粉が舞う。髪の毛が焼け嫌な匂いがする。

 ずっと夢見ていた。――小さな家。転げ回って遊ぶ小さな子供達。それを見て隣で微笑むアリス。そんな、ごく普通の幸せ。

 ほんの一瞬見えた、小さな、でも目映いばかりの希望が、炎に焼かれ小さくなって行く。

 お願いだ、消えてくれ! ……僕のアリスを、僕の恋人を、奪わないでくれよ! 今、たった今なんだ。今知ったばかりなんだ。僕のものにしていいと、共に歩んでもいいと、言ったそばから取り上げるなんて。


 神様、――――かみさま!





 プスプスと木が音を立てていた。

 僕は抜け殻のようになってそれをじっと見つめていた。

 いつの間にか夜が明けている。木は一晩中燃え続け、ほとんど炭のようになってしまっていた。そこにあったはずの命はもう、無い。

「もともと弱ってたんだよ。いつかはこうなったんだ」

 野太い声が慰めるように背に掛けられた。

「泣くな」

 乾いた声が今はなぜか暖かかった。それでも僕は声の主の方を向く事も無く、ただ木を見つめ続けた。

「ほら……二人とも無事だったんだしさ。命があっただけでも良かったろ」

「俺たちはもう行く。お前ももう帰れ」

「…………『嬢ちゃん』が風邪引くぞ」

 その言葉がようやく心に引っかかり、のろのろと視線を動かす。岩場ではアリスがまだ横たわっていた。

 引き寄せられるように足が動く。

 傍に立つと、彼女を抱き上げ、そっと抱きしめた。それは小さくて、暖かくて、柔らかかった。

 彼女を抱きしめたまま木に背を向けた。ここにいても、もう、仕方が無かった。


 辺りを見回すと男達は既に姿を消していた。残されたのは炭のような木の残骸と石を積み上げた三つの墓らしきもの。やはり彼らは助からなかったらしい。いつの間にか二人によって埋葬されていた。

 命があっただけでも――良かったんだろう。確かにそうかもしれない。でも、僕の大切なものは、こうして腕の中にあるのに、触れられないものに変わってしまった。

 ここにいるのに、実体がない。彼女は魂だけを猫の姿に残して、僕の元から去ってしまった。

 空を見上げた。雨は上がり、空には何も無かった。ただ透明な空気がそこにあるだけの澄み切った青。

 それは、――あまりにも悲しいからっぽな空だった。


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