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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第一部 第一章 あたしは、猫。
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2 猫の恩返し

「そろそろ家に帰るか? アリスはお嬢様だし、こんな貧しい暮らし、嫌になっただろう?」

 数日後、とうとうリュシアンがあたしに向かってそう言った。

 ――来るべきものが来た。あたしは、ギュッと目を瞑ると、胸の痛みを堪えながらわざと明るく言う。

「そ、そうね。あたしみたいな『おじょうさま』にここの暮らしは似合わないわよね。それに、あんまり長く居ると、貧乏がさらに貧乏になってしまうわ――あっ」

 ま、また、あたしったら、なんでこんなこと言っちゃうのよ!

「ハハハ。そうだね」リュシアンは全く気にせずに笑っている。

 ホッとしつつ、やはり負担になっていたのだと動揺した。

 猫一匹と言えど、その食いぶちをどこから捻出しなければならない。リュシアンはどうやら、自分の食事を削ってあたしに与えてくれていたみたい。最近になってそのことに気がついて驚いた。あたしだったら、そんなこと、出来ない……だって自分がお腹が空いちゃうのに。

 うん。やっぱり――世話をしてもらった恩はちゃんと返さないといけないわ。出て行くのは、それからでも、いいわよね?


 その日の夜、リュシアンに気づかれないようにそっと部屋を抜け出すと、近所の家からこっそりとパンをくすねて来た。テーブルの上に無防備に置かれてた、固い固いパン。

 疲れ果てて眠るリュシアンの枕元にそっと置く。そしてその子供みたいな寝顔を見て、微笑んだ。……喜んでもらえるかしら?

 きっと明日はリュシアンもお腹を空かせることはないわよね。そしてあたしにあの柔らかい笑顔を向けてくれるはず。

 あたしはワクワクした気持ちで胸をいっぱいにしながら、ベッドの隅で眠りについた。



「アリス」

 翌朝、食卓からリュシアンが名を呼び、あたしは笑顔で部屋を飛び出す。でも、想像していたお日様のような顔はそこには無く、代わりに曇り空のような顔があった。そしてその手にはあたしが昨日盗って来たパン。

「アリスだろう? これ」

 リュシアンは悲しそうな光をその瞳に浮かべていた。

 ――どうして……そんな顔するの。リュシアンの笑顔が見れると思って、やったことだったのだ。それなのに。

「人様が必死で働いて手に入れたものをこんな風に奪うなんて。僕はこういうやり方は嫌いだ」

 ――嫌い。

 胸をひと突きされたような気分で、俯くと黙り込んだ。鼻の奥がつんと痛み、のどの奥が焼けるように熱い。何か言おうとすると涙がこぼれそうだった。

 結局謝ることも出来ず、そのまま窓から部屋の外へと飛び出した。謝りの言葉なんか分からなかった。だって謝った事なんか、無いんだもの。何が悪かったのかも、分からないんだもの。


 あたしは家に戻る事も出来ず、日が沈むまで木陰でふて腐れて眠っていた。

 時折風に乗ってリュシアンの探す声が聞こえて来た。だけどとても顔を見る気にはなれなかった。

 夜風に鼻先を撫でられてようやく目を開く。ひどくお腹が空いていた。あたしの意地もここまでみたいだった。

 空腹感に負けて、とぼとぼと彼の家に足を向ける。

 ――あたし、馬鹿みたい。あたしって、なんて間抜け。

 空を見上げると、クリーム色に輝く三日月。その欠けた月も間抜けなあたしを笑ってる気がした。なんだか悔しくてもどかしくて――堪らなかった。


 翌朝見た彼はもう怒ってはいないようだった。でも、時折長い前髪の間から悲しそうな瞳を覗かせ、何か言いたげにあたしを見つめていた。

 ――だからそんな目で見ないでってば。

 あたしはその目を避けるように部屋の隅で丸くなる。いつもだったリュシアンのベッドの上で眠るのだけど、今はそんな気にはなれない。

 恩を返したら……出て行くんだから。もう迷惑はかけないから。

 そう自分に言い聞かせ、あたしは目を閉じ、寝たふりをする。

 どうやら、リュシアンはひどく融通が利かないみたい。あたしのやり方では彼を喜ばすことはなかなか出来そうになかった。根本からやり方を変えないと駄目みたいだった。



 結局そのまま眠ってしまったのだけれど、考えながら寝たせいか、夢の中ですごくいいアイディアが浮かんで飛び起きてしまった。――それは頭の隅に残っていたお伽噺の一節。あたしは夢の欠片が消えないうちにと、籠と紐を背負って町外れの山へと駆け出した。


 家を飛び出した時、夜はまだ明けていなかった。でも、山の中腹に辿り着く頃には日が高く昇っていた。

 林を抜けてぽっかりと空が見えるその場所で、あたしは肉球にちくちく刺さるアザミの柔らかい部分を一生懸命千切ると、籠の中にぎゅうぎゅうに詰めた。そうして、紐で口を縛れるようにした大きな麻袋の中にアザミを詰め替え、袋の口を木の枝で支えて大きく開く。袋の端から長く伸ばした紐を握ると、枝を倒さないようにそろそろと袋から距離をとった。

 そんな簡単な罠を仕掛けると、木の陰で昼寝をしているふりをして、ひたすら待つ。

 ――ガサッ

 空に浮かぶ雲をいくつか数えたところで、薮の中から野ウサギがこっそりと顔をのぞかせる。

 予想通りだわ。まだ警戒心の鈍い子供かもしれない。そうそう、こっちにおいで。あたしは昼寝中よ。安心して。

 あたしは薄目を開けて、眠ったふりに集中する。

 ウサギはきょろきょろと周りを見回し、ふんふんと鼻を動かす。警戒しつつも、罠の中のアザミの匂いに釣られて、次第に近づいてくる。

 ほうら、おいしそうでしょう。一気に飛びついちゃいなさい!

 ウサギはとうとう袋の中に飛び込んだ。

 ――えいっ

 あたしは一気に紐を引っ張り、袋の口を閉じてしまう。紐を手繰り寄せると、ずっしりとした手応え。初めての狩りは成功に終わった。

 夢に見た通りだわ。不思議。本当にうまくいっちゃった。

 ――そうそう、夢の中では、このウサギを――



 あたしは急いで家に戻ると、馬車の荷台から粉を下ろしているリュシアンを捕まえて、頼みこむ。興奮していたので、しばらく口をきいていないことなんか、もう頭の中からすっ飛んでいた。

「ねえ。あのね、あのリボンが欲しいの。……貸してくれるだけでもいいんだけど」

 あたしは、リュシアンの部屋に綺麗な空色のリボンが大切に仕舞われているのを知っていた。

 実は誰の物なのかがとても気になっていたのよね。リュシアンに女装の趣味があるとは……思いたくない。

 彼は粉の袋を地面に置くと、額に浮いた汗をタオルで拭い、困った顔をした。

「あ、あれは……うーん」

 いやに歯切れが悪いその様子に、急に不安になった。

 まさか、まさかだけど、そんなわけ、ぜったいに無いと思うけど。おそるおそる問う。

「こ…………恋人の?」

「い、いや……」リュシアンが急に真っ赤になる。

 ――う、そ!

 嫌な予感が的中して驚愕する。足元が急に崩れていくような気分だった。

「そ、そっか……じゃあ、いいわ」

 恋人、か。絶対いないと思ってたのに、な。そうと知れば、頼まれたってそんなものつけてなんかあげないわよ!

 そう思いつつも、あたしはリボンが入っている引き出しから目が離せない。リュシアンはそんなあたしの後ろで、申し訳なさそうなため息をついていた。



 ――できるだけ早く恩を返して、そうしてあの家を出て行くのよ!

 数刻後、あたしはウサギを担いで、王宮へと向かっていた。荷の重さに歯を食いしばり、足に力を入れて一生懸命走る。

 オーランシュは城下町だ。王宮までは猫の足で、一刻ほどで到着することが出来た。リボンは手に入らなかったけれど、代わりに、門の影で精一杯毛繕いをして、身ぎれいにしていった。

「カラバ侯爵の使いで参りました」

 あたしは、出来るだけ堂々と見えるように胸を張り、門番にそう言う。門番は一瞬怪訝そうな顔をしたものの、『侯爵』の地位を軽く見る事が出来ずに、王へと使いを出している。

 カラバ侯爵というのは、あたしが逃げ出した前の主人の名前を少しもじったものだった。元の名をカルバン侯爵と言う。その名はこの国では広く知られているようだった。尋ねられて、何も考えていなかったあたしはとっさにそう言ってしまったけれど、もうちょっと考えれば良かったかもしれない。

 でも、国中に散らばる大量の領主の名前を完璧に王が把握しているとは思えないし。そこまで気にはしないだろう、もし駄目なら逃げちゃえと気楽に考えることにした。



 結局それは取り越し苦労に終わり、あたしは無事に王に目通りを許された。

 一見したところ、王はとても人の良さそうな人物に見えた。長く伸ばした灰色のヒゲがふさふさとしていてとても柔らかそう。この人を見たら、誰もがひげの印象しか残らないのではないかと思う。

 今日捕まえて来た新鮮な獲物を差し出すと、王はあたしをうさん臭げにじっと観察する。その目が意外に鋭い光をたたえているのを見てあたしは少し気を引き締めた。

「魔法の猫が使いとな?」

「はい。主人が、この近くで狩りをしたところ、よい獲物が得られましたので、こちらへのご挨拶にちょうど良いかと申しまして」

「挨拶? ふむ。珍しいこともあるものだ。それはわざわざありがたいことだが……」

 王は多少戸惑った様子で、顎のヒゲを撫でながら、あたしをじっと品定めをするように見つめていた。


 そして、あたしは帰る時に、小さなお返しをいくつか貰った。それは、あたしの腕にぴったりはまる銀の腕輪と、少しのお金。

「つかみはうまくいったみたいよね」

 あたしは意気揚々と家に帰り、そのお金で真っ赤なリボンを買った。――空色はもちろん選ぶはずが無い。



 作戦の成功に味をしめ、そんなことを数回続けているうちに、王宮の人間とも少しずつ仲良くなり、あたしの耳には色々な情報が流れ込んできていた。その中でもあたしの気を引いたのは、ある一つの情報だった。

 ――北のユペール自治州には古い大きな城がある。

 その城とは、この国では知る人ぞ知る〈人食い〉が住んでいるという城だった。人食いは様々な悪事を働いて財産をかき集め、巨大な富を一代で築き上げた。そうして二十年ほど前、王制に反して州の自治を宣言し、外部との繋がりを断った。不満に思った王が軍を派遣したこともあったらしいけれど、人食いは様々な魔法を使って攻撃を防いだそうだ。それだけではなく、人食いはその名の通り人も食らうらしく、領地から戻った者は居なかったそうで……。ユペール内では未だ圧政が続き、苦しむ民の声が絶えないという。

「あの厄介者には手を焼いている。もし追い払える者がいるのなら、いくら褒美を出しても構わないのに」

 あたしが人食いについて尋ねると、王もそのように言って、もの言いたげにあたしを見つめていた。

 ――褒美、ね。それは正当な報酬だわ。しかも人助けになるのだから、リュシアンも文句は言えないはず。

 あたしは、俯くとこっそりほくそ笑んだ。


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