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あたしは、猫。  作者: 碧檎
第二章 花嫁がやって来た
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10 お姫様の生態

 まだきょとんとしているその緑色の瞳から僕は目を逸らす。

 いったいなんだって言うんだ。さんざん我慢してるっていうのに……簡単にあんなことされると困るんだ。

 唇にはまだその余韻が生々しく残っていた。口の中はまだケーキの甘さでいっぱいだったけど、唇の上に残るその熱くて滑らかな感触はそれ以上の甘さだった。猫の舌とは全く違った、その柔らかい感触。もしあの場に誰もいなかったら……僕は――。

 さっきの様子から想像するに、きっと猫にはキスなんて概念自体がないんだろう。よくは知らないけど、猫にあるのは全部すっ飛ばしたあとの行為だけなのかもしれない。

 猫の求愛行動が急に瞼の裏に思い浮かんで、僕は頭に血が上る。

 ああ、こんな想像すること自体おかしいんだ。これでは、変態のシャルルに変態と言われても仕方がないじゃないか……。

 ふと視線を感じてポケットを見ると、シャルルがにやにやしながら僕を見上げている。

「なあに? 真っ赤じゃない。湯気が出そう。何を想像してるの?」

 グフフと笑いながら話しかけられ、僕は再度シャルルをポケットに押し込むと、ボタンをしっかりと掛け直した。

 そして頭を抱えつつ、応接間へ戻ろうと扉に手をかける。

 ――早く頭の中からアリスを追い出さないと。

 ローズ姫の姿を思い浮かべ、僕は深呼吸をする。あれだけ美しい人だ。それに優しそうだし。今は圧倒されるだけだけど、きっと好きになれる。好きになればアリスのことは普通に猫として見れるようになる。大丈夫。今ならまだ間に合う。

 王のあの嫌らしい笑みが頭から離れなかった。あんな風になる前に――僕は……あの人と同じになるわけにはいかない。

 扉を開こうと手に力を入れたとたん、背中にアリスの声が響く。

「あのお姫様には気をつけた方がいいわ」

「なんで?」

 アリスは言葉に詰まる。どうやら特に理由はないようだ。何となく気に入らないだけ。さっきのあれは妨害行動ではなかったみたいだけど。どうも無理してる感じがするからな……。また何をやらかすか分からない。釘を刺しておいた方がいいのかもしれない。

「理由もないのに、そんなこと、よく知らない人に向かって言うもんじゃないよ」

「あの人が美人だからって、目がくらんでるんじゃないの?」

 アリスはわざとらしくふんと鼻を鳴らす。そのけんか腰の口調に思わずむっとする。確かに、彼女は美人だけど、僕はあえて目をくらませようとしてるんだ。邪魔はしないでほしかった。

「そんなことないよ。確かにきれいな人だけどね。僕はそんなことだけで人を好きなったりしない。――アリス。もうさっきみたいに邪魔はしないよね?」

 僕が睨むとアリスは少したじろいだが、むきになって言う。

「じゃあ――リュシアンはお金に目がくらんでるんだわ!」

「目がくらんで何が悪いんだ。金持ちになりたいのは当たり前だろう?」

 アリスの顔がこわばる。その緑色の目を丸くして、――何を言われてるか分からないっていう顔。

 僕だって自分の口からそんな言葉が出てるのが信じられない。確かに少しは心を動かされはするけれど、本当は、お金なんて生きていくに十分なだけあればそれでよかった。それ以上のものなんか面倒の種にしかならない。

 でも、いいところのお嬢様猫で、たいした苦労もしたこともないアリスにそう言われると腹が立った。食べるものを買う金がなくて困るとか、働かないと食べていけないから学校に行けないとか、貧乏人と付き合うなって言われるとか――アリスはそういう目にあったことなんか無いから――だから――

 忘れかけていた過去が蘇り、口の中が苦くなる。僕は彼女に背を向けると、あえて自分にもアリスにも厳しい言葉を選ぶ。

「アリスには分からないよ。貧乏人の苦労なんて。君は……お気楽な猫なんだから」

 僕はアリスの顔を見ることが出来ない。――どんな顔するか、分かっていたから。

「――貧乏でもいいって笑ってたリュシアンはどこに行っちゃったのよ! こんなのってリュシアンらしくない!」

 悲鳴のようなその声に振り向くと、銀色に光る人影が廊下の端を走っていくのが見えた。

 急に廊下が寒々しく感じた。燃えるように赤いはずの絨毯も一気に色褪せる。

「馬鹿ねえ。わざわざ嫌われるようなこと言って。もうちょっとうまくやればいいのに」

 籠った声がポケットから響く。

「いいんだ、これで」

 大きく息を吸い、胸の痛みを飲み込むようにすると、僕は応接間の扉を開いた。


 *


 数刻後、僕たちは音の割には滑らかな動きをする馬車の中にいた。領地を案内することとなったのだ。

 空はどんより曇っていたけれど、幸いまだ雨粒を落とすこともなかった。地平線は収穫間近の小麦が風になびいて黄色い海のようだ。その果てしなく続くと思えるような小麦畑の中をひたすら馬車は駆けていく。

 ポケットの中はさっきようやく静かになった。どうやら暗くて暖かいそこでシャルルは昼寝中らしい。

 アリスはあれから部屋に閉じこもってしまって、出かけると呼んでも出てこなかった。自分でそう仕向けたこととはいえ、いざそうなってしまうと、心苦しかった。

 でも、一度決めてしまったからには、それを貫かなければいけない。中途半端が一番駄目だ。

 とにかく……今は王や姫に気に入られないと。そして、出来るだけ早くアリスのいるあの城を出て行かないといけなかった。


 僕の目の前には、王が何か考えているのか、少し鋭い目で窓の外の景色を眺めている。その隣にはローズ姫。瑠璃の瞳で僕をじっと見つめていた。

「ねえ、侯爵殿」

 ローズ姫が身を乗り出したかと思うと、僕の隣に腰掛ける。僕との彼女の間には、ほんの拳一つくらいしか距離がない。何とも言えない花のような香りが僕の鼻孔をくすぐり、一気に顔が赤らむのを感じた。姫はそんな僕に構わず、にっこりと笑うと、僕の傍にある窓を指差し、小鳥のような声で尋ねる。

「あの遠くに見える広い小麦畑、全部ユペールの領地なのですって? 豊かな土地ですのね」

 彼女は少し身を乗り出して窓に近づく。目の前でドレスの胸元が少し開き、僕は思わずそこに釘付けになる。

 ――う、わ……あ

 ローズ姫は、固まる僕に、はっとした様子で胸元を手で押さえる。そして困ったように微笑んだ。「私ったら……思わずはしゃいじゃって。はしたないわ。ごめんなさい」

 なんと答えてよいか分からず、僕はただ赤くなって俯いた。

 しばし馬車にはガタガタという車輪がはねる音だけが広がった。しかし結局、妙な沈黙に耐えられず、僕は口を開く。

「ええ、と。そ、そうですね、領地の話でしたね。お聞きになっていらっしゃると思いますが、この土地は元々私のものではないのです」

「お聞きしましたわ。あの人食いを倒されたのですってね! それで今はこの自治州を治めていらっしゃるとか。どのようにされたのです? お父様も何回か退治に兵を派遣しましたのに、どうしても出来なかったことなのですって。まずこの土地に入ること自体とても難しいというのに……ぜひ武勇伝をお聞きしたいわ」

 にこにことそう言われたけれど、言葉に詰まる。大体僕は武勇伝の主人公ではないし。それに退治って言っても、な。

 シャルルは確かに変態だけど、それは僕を含め、身近な人間に多少の害を与えるくらいのものだ。いわば小さな害虫。国王が兵を挙げてまで退治する類いの悪ではない気がする。

 王がこだわるのにはきっと何か別の理由があるはずだった。……それが何かは分からないけれど、シャルルは結局何も教えてくれなかった。

 僕はとりあえず、アリスから聞いただけの所々曖昧なシャルル退治の話を披露する。

 ローズ姫はその瞳をきらきらと輝かせ話を熱心に聞いていた。ちらりと見ると、王も耳を傾けていて、感心したように微笑んでいた。

「侯爵殿が婿に来てくだされば、この自治州も再び王家の管理下になり財政も潤うことだろう。そうすれば税も減らすことが出来る。なにしろここで穫れる小麦は他と比べて質も良いし、しかもこの広さでの収穫高だ。それなのにあの人食いはそれを独り占めして……」

 この王は、じゃあ、民のこと考えて? それでこの豊かな土地を? そうであれば……それはとてもいいことなんじゃないか。

 僕は、自分の育った町の住人を思い浮かべる。痩せた土地で育った収穫したばかりの小麦も、自分の腹を満たすこともなく、すぐに税として取り上げられてしまう。不出来な欠けた麦を粉にしてくれと、粉屋に持ち込んで、パサパサのパンを焼いて食べる、そんな暮らし。 

 税が減れば……上質な麦も作った人間の口に入るようになる。それは、今みたいに一部だけが潤うよりも、いいことなのかもしれなかった。

 そう考えると、アリスの一件でどうしても好意的に見れなかった目の前の人物が、少しだけましに見えて来た。

「ところで、侯爵殿はいつもはどんなお仕事をされてるのです?」

 ローズ姫が僕の膝にその小さな手を置きながら話しかけてくる。

 ――お姫様って、こんなに大胆なもの?

 その生態を知らない僕には、とにかく刺激が強すぎる。もうどうしたって顔が赤らむのを押さえきれない。頭が茹だってくるのが分かった。

「ええと、領地の管理の一環で……嘆願書などに目を通したり、あと農作物の出来などの調査書を確認したり、実際に畑を見て回ることもあります」

「それは、さぞ大変でしょうね。これだけ広い土地ですもの。……あとでお仕事をされてるところ、見せてもらってもいいです?」

 もたれかかるように体を寄せられて、上目遣いに見つめられる。

 僕の視界には長い長い睫毛、潤んだ瞳、つややかに光る真っ赤な唇、そして開いたドレスの胸元から見える、その柔らかそうな白い谷間。

「え、ええええと」


 『――関係者以外立ち入り禁止よぅ!』


 思わずシャルルとのその約束も忘れ、頷いてしまいそうだった。

 ふとポケットの中から殺気を感じ、警戒するよりも早く――やられた。


 ガブリ


「――――!」

 あまりの痛さに思わず飛び上がりそうになる。

 今日はもう二度目だ! しかも同じところ!

「どうかしまして?」

 不審そうにローズ姫が覗き込む。僕はポケットを容赦なくぎゅっと握りつぶすと、必死で笑顔を作る。

「ぐぎゃっ」

 妙な悲鳴が上がったが、僕はあわてて咳をしてごまかした。

「……申し訳ありません。仕事を見られるのは苦手で。ご遠慮いただいても――」

 そう言うのが精一杯だった。そして顔を上げて、一瞬固まる。

「――え?」

 僕は僅かに見えたものがとても信じられなくて思わず目を擦る。呆然とする僕の耳に王の乾いた咳払いが聞こえ、一瞬視線を逸らす。そして視線を戻したときには目の前の姫は何事も無かったかのように微笑んでいた。

「……そうですの。それは、残念ですわ」

 何だ、今の――……気のせい、だよな?

 疑う僕の手をその華奢な手が包み込み、僕の頭は一気に使い物にならなくなる。


 『あのお姫様には気をつけた方がいいわ』


 ふとアリスの言葉が一瞬蘇ったけれど、僕はすでにいっぱいいっぱいで、目に映るすべてに気を払うことは出来なかった。


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