1 あたしは、猫。
あたしは猫。名前はアリス。歳は一歳。――でも、もう大人よ。
あたし、今日は大嫌いな主人に連れられて、隣町まで来ているの。
なんで大嫌いかって? だって主人ったら、いつも、何に対しても熱狂していて、あたしはその様子に興ざめしちゃう。いい歳なんだからもうちょっと落ち着けないのかしらって、ずっと思ってる。
この間だって、どこそこの女の子が結婚式に出るからって、なぜか大はしゃぎ。わざわざ出かけていって、人の迷惑も顧みずにドレスを押し付けて、あれが似合うだのこれが似合うだの、おせっかいを焼いてばかり。
あたしはその後、そこの家の奥さんが迷惑そうに舌打ちしているの、しっかり見たんだから。
あーあ。主人ったら、そんなことばっかり。あたしに対しても同じで、放っておいて欲しいのに、ひたすら自分の都合で可愛がろうとする。
そんなに馴れ馴れしくしたいのなら、もっとぴったりの――そうよ、従順な犬でも飼えばいいのに。
あたしは、とにかくそういうの駄目なの。もっとクールに生きていきたいのよね。
ああ、それにしてもなんて暑いのかしら。こっちは毛皮着てるんだから、もうちょっと考えて欲しいわ。まったく気が利かないったら。
まあでも、しょせん、あたしなんて単なる所有物。――そんなこと、分かってはいるんだけど。
* * *
その日はものすごく暑い日だった。
主人は買い物に夢中になっていて、馬車の中に残したあたしのことなんかすっかり忘れている。窓から差し込む光は、中の空気をどんどんと暖めて、光を避けて影で小さくなっても、もう限界。あたしは馬車のドアを引っ掻いて、なんとかこじ開けた。ドアに傷がついて怒られるかもって思ったけれど、このままだと、怒られるどころか死んでしまうんだもの!
少しだけ冷たい外気と砂埃が馬車に流れ込み、視界に噴水が飛び込んでくる。水しぶきが光に反射してキラキラと輝いていた。優しい水音が埃っぽい空気を洗う。
ねえ、だれか――水! 水をちょうだい!
冷たい空気と水を求めて馬車の外へと飛び出すと、体にまとわりついていた熱が一枚二枚と剥がれて行く。
でも、助かったわ! と、思ったのもつかの間だった。ドドドという音に顔を上げると、大きな黒い馬が目の前に迫っていた。
――あ、あれ? 結局あたし、死ぬの?
ドカンと体にぶつかった大きな衝撃に、あたしの目の前は一気に真っ暗になった。
*
「ああ、目を開けたよ! 父さん!」
気がつくと、目の前に一人の少年がいた。
――変な髪型……。
初対面の人間のそこを見るかって思うかもしれないけど、それもしょうがない。だってそれくらい髪が目立ってたんだもの。
濃い灰色の艶のない髪は伸び放題のぼさぼさで、後ろに一つに束ねられたまま、しばらく櫛を通した形跡がないように見えた。前髪は鼻の下まで伸び、顔の大部分を隠している。僅かに覗く顔は薄汚れていて、ちらりと見えた頬に薄くそばかすが浮いている。
主人とは大違いだった。あたしの主人は、女性だったからかもしれないけれど、もっと綺麗な格好をして、髪はいつも高く結い上げられ、形の良い卵形の顔がすっきりと見えるようにしていた。もちろん毎日の化粧も欠かさない。だから、余計に奇妙、珍妙だった。
「あの、ここはどこ?」
少年に向かって尋ねると「あ、君……」彼は口をぽかんと開けてあたしを見た。
「魔法の猫よ」
「言葉が話せるんだ……」
少年はただただ感心したという表情をした。
そう、あたしはただの猫じゃない。魔法によって、言葉を話せるようになった特別な猫。その仕組みは魔法使いだけの秘密となっていたけれど、言葉を話せる猫の存在自体は有名だった。そんな猫は人気も高く、当然お値段も高いため、一部の裕福な人間にしかとても手に入れられるものでははない。そして、目の前に居る少年は明らかに裕福ではなさそうだった。
この人、たぶん魔法の猫を見るのも初めてなんだわ。
目を細めてにやりと笑うと、体を丸めて立ち上がろうとした。
「つっ」
後ろ足に激痛が走り、立ち上がれず、再び丸まって床に倒れ込んだ。――痛い! なんで?
「ああ、駄目だよ。骨折れてるみたいだから」
「なん、で」
「あれ? 覚えてない? 君、馬に轢かれたんだよ。あと少し打ちどころが悪かったら死んでた。このくらいで済んで良かったね」
少年はそう言うと、グレーの髪をかきあげ、にこりと笑う。
――うっわ……きれい……!
あたしは、その瞳に一気に目を奪われた。
隠されていた少年の瞳は、あまりにも美しかった。澄んだ泉を覗き込んだかのような、深い深い青色。それが窓から差し込む光を受けてキラキラと輝いている。改めてよく見ると、顔の造りは意外に端正だった。穏やかな柔らかい線を描く眉と目の形。意外に高い鼻梁。そうして全部まとめてみると、カサカサの乾いた唇の形もすごく整っているように見え始めるから不思議。観察しているうちになぜだか心臓が急に激しく音を立てだした。
あれれ? なんで? 変だわ。あたし。人間なんかにときめいちゃって!
そんな想いを顔に出すのが嫌で、その青い瞳からふいと目を逸らし、急いで話を切り替える。
「さっきの質問だけど、……ここってどこ? あたしの主人を知らない?」
「ここはオーランシュの粉屋だよ。君の主人かぁ、君のこと探してるかもしれないね」
オーランシュ、それはあたしが住んでいる町、バルザックの隣町――城下町の名前だった。
「だれも探しに来なかった?」
「うん。多分」
「多分?」
「……僕は、ずっとここにいたから、知らないんだ。ちょっと父さんに聞いてくるよ」
ずっと、ここに――って、つまりずっと看病していてくれたということ?
扉を開けて部屋を出て行く少年の背中を見ながらそう気がついて、なんだか心が暖かくなった。
主人は、あたしの世話などは全部使用人任せにしていて、自分の好きな時だけ構おうとするのだ。もちろん具合が悪い時でも、それは同じだった。だから、余計に嬉しかった。
耳を澄ますと、隣の部屋から声が聞こえて来る。
「……うん。そうか、銀色の綺麗なメス猫ね。……やっぱりあの猫のことみたいだな」
ドアが開いたかと思うと、少年がいきなりあたしを抱き上げ、お腹の辺りを見ようとする。
え? な、何してるの?
あたしはじたばたしながら裏返った声で叫ぶ。
「ちょ、ちょっと……どこ見てるのよっ!」
「ど、どこって」
「あたしならメスよ! 失礼ねっ。話が出来るんだから聞けばいいでしょ!」
初対面のレディに対してどういうつもりよ!
腹が立って、思いっきり少年の手を引っ掻いた。がりっと鋭い音がして、その大きな手に筋が三本走る。
「いてっ!」
少年は悲鳴を上げたけれど、あたしを落とすようなことはしなかった。どうやら怪我を気遣ってくれているらしい。あたしをそっと床に置くと、少年は小さな声で謝った。
「ご、ごめん」
少年がその長い前髪の下で赤くなっているのを見て、つられたように顔が熱くなる。
――うっわ……そんな顔しないでよ! こっちが恥ずかしいじゃない!
「えと、探しに来たんだって、やっぱり。……アリスって君のことかな?」
「そ、そうよ。あたしのこと!」
動揺を隠せなくて、上ずった声が出てしまう。あぁ、もう! 調子が狂っちゃう!
「父さんさ、君の事あんまり良く見てなかったみたいで、知らないって言っちゃったみたいなんだ。ごめんよ」
「いいの……あたし、あの家出たかったから、ちょうど良かったわ」
あたしが、半分本音で、半分強がりでそう言うと、少年は驚いて目を見開いた。
「え、じゃあこれからどうするんだよ?」
「……なんとか、するわよ」
強がってそう言ったものの、生まれてこのかた、ずっと裕福な家で養われて来たのだ。そう簡単に自立できるわけない。
言ったばかりで取り消す事も出来ず、本気でどうしようと頭を悩ませる。な、なんとかって……どうするつもりよ、あたしったら。
落ち着かなくなってもぞもぞと足を擦り合わせると、上からくすくすという笑い声が聞こえ、頭がそっと撫でられる。暖かいその仕草に顔を上げると、青い瞳があたしを優しく見つめていた。
「とりあえず怪我が治るまでは、ここに居ろよ。怪我が治ったら、出て行くなり、家に帰るなりすればいいだろ?」
不安を見透かすようなその笑顔に、あたしはいつの間にか素直に頷いていた。
そうしてあたしはこの粉屋に厄介になることとなった。
少年は毎日甲斐甲斐しくあたしの世話をしてくれていた。足が不自由で動けないあたしに、ご飯を食べさせてくれたり、川で汲んだ水で体を洗ってくれたり。昼間は仕事で忙しいはずなのに、あたしのことを忘れることは一日だって無かった。
怪我が大分良くなってきたある日、あたしは、話しかけようとして、少年の名を知らないことに気がついた。
少年は一日の仕事を終え、粉だらけの作業着を脱ぎ、寝間着――って言っても、粉が着いていない同じような服だけど――に着替えている。彼は着替え終わると、冷たくなりかけた夜風を遮るように小さな窓を閉めた。そして床に跪くと古ぼけた本を前にお祈りを始める。
あたしは一足先に、彼のベッドを占領して丸まり、お祈りが終わるのを待って尋ねた。
「ねぇ……あなた、名前は?」
「リュシアン」
少年はそう答えながら、寝床の中央に陣取るあたしを気にして、遠慮がちに隅に潜り込む。
リュシアン、か。なんだか水が流れるようなきれいないい響き。
「ふうん、リュシアンね……。何歳なの?」続けて尋ねると、リュシアンは軽くこちらに体を向けた。
「十七歳。君は?」
「女の子に歳を尋ねるもんじゃないわ」
「……ごめん」
リュシアンは困ったような顔をして頭を掻く。その様子が予想通りに可愛らしかったので、笑って答えた。
「一歳よ。猫だからもう大人だけど」
「へえ。大人になるのが早いんだ」
「死ぬのも早いけどね」
「そうか……猫って寿命が短いのか」
「なによ、そんな顔しないでよ。その分毎日充実してるんだから」
思わぬ悲しそうな顔に狼狽えて足をばたつかせると、前足が彼の前髪に当たった。その瞳が髪の間から覗いて、またもやあたしは釘付けになる。
なぜかその瞳の色が頭の片隅を刺激して、ちりちりと痛んだ。何かしらと気にしながらも、どぎまぎする心臓を押さえて、俯いた。――うん、やっぱり、このひと絶対髪型で損してると思う!
「髪くらい切ればいいのに。鬱陶しいでしょう? それ」
リュシアンは、前髪を少し持ち上げると、上目遣いでそれを見上げる。
「まあね。でも切りに行くお金もないし。毎日忙しくて、そんな暇もないんだ」
「あなたの家って、貧乏なの?」
彼の顔に僅かに影が差した。あ……。さ、さすがに失礼だったかも。
ところが、一瞬後悔したあたしの予想を裏切り、リュシアンは影を撥ね除けるようににっこりと笑って頷く。「そうなんだ。貧乏暇なし」
誇らしげとも思える態度に、唖然とする。
あたしの周りに居た人間は、誰も彼も『貧乏』をひどく恥ずかしいことだと思っていた。なんにつけても、お金儲けの話や、きれいなお洋服の話、美味しい食べ物の話。うんざりするくらいそんなことばっかりだった。猫にとっては、それは何の意味も無いこと。お腹いっぱいで、いっぱい遊べて、たくさん眠れれば、それだけで満足だもの。
――でも、彼はあたしの知っている人間とは違うみたい。
不思議な人だわ。
あたしは、俄然、このリュシアンという少年に興味が湧いて来たのだった。
そしてひと月後。後ろ足の怪我も大体治り、あたしは足を引きずりつつも歩けるようになった。
でも――なんだか……治って欲しくないような。喜ぶべき事なのに、なんだか憂鬱な気分になっていた。
怪我が治れば、ここを出て行かなければならない。行き場所が見つからなければ、『家』に戻らなければならない。それらも辛かったけど、何よりも、リュシアンのあの笑顔を見ることが出来なくなる――それが一番嫌だった。
あたしは今までに何かに執着をしたことなど一度も無い。なのに、あの笑顔だけはどうしても手放したくないと切に感じていた。見るものすべてを暖かく包み込むような、ほっとするあの笑顔。あたしの知ってる打算や計算ばかりの人間とは全く違うその雰囲気。
――もしかしたら、これが恋なのかも。心の隅でそう思った。
それでも、あたしはその感情をごまかし続けていた。だってね。
だって、あたしは、猫なのよ――?




