彼がいた世界
初めて会ったのは地下のお店だった。男二人に女一人でドカドカと階段を下りてくると、慣れた様子で席につき、ふいにこちらを見て「お前は誰だ?」と彼は言った。初見だったしコックコートだったし、おまけに急にそんな風に言われたものだからなんて答えていいかわからず「お客さんです」と、答えたのを覚えている。
そうやって僕たちは知り合った。その夜、どんな会話を交わしたかはそれ以上憶えてはいない。でも近くでお店をやっていると聞いて、さ っそく翌日に足を運んだ。一軒家の一階で、小綺麗なお店だった。ガラス張りの引き戸で、入り口の上に「キッチンソルト」と看板があるだけのシンプルな店構えだった。盾形の黒板には白いチョークでメニューが書き出してあって、ガラス越しに店内を覗き見るとそこには昨晩隣りに座っていたコックコートの彼がカウンターの中で煙草を吸っていた。
「昨日のことは憶えてない」
カウンターに座り、出されたジョニ黒のロックを呑んでいると彼は言った。煙草を吸いながら同じくジョニ黒のロックを呑んでいて、僕以外にお客さんはいなかった。
「憶えてるなら明日来いって言われたんです」と僕は言った。「だから来たんですけど」
「憶えてないんだよ、昨日のことは」と彼は言った。「でもまぁ、来てくれて嬉しいよ」
そう言って彼はまだ中身が入っている僕のグラスの上でジョニ黒のボトルを傾けた。おかわりなんて頼んでないのに。その後も何度となく無言で足されていくウィスキーを目にしてきたけど、あのときは財布の中身が気がかりで仕方がなかった。ボッタくられようにもそれだけのお金を僕は持っていなかったから。ちなみにその日の会計は千円で、それからお店がなくなるまでずっと変わらなかった。
二十代前半の僕にとって彼のお店は根城になった。暇さえあれば足を運び、注がれるがままに茶色い液体を呑み続け、意識も曖昧なまま千円を置いて帰っていった。今となってはそんな変わり映えのしない夜を何度繰り返してきたかわからないけど、傍から見れば同じような夜でも、現場にいた僕には毎晩が刺激的だった。壊れた万華鏡の中を転がってでもいるみたいに。平日の夕方から酔い潰れてカウンターで寝ているなんてざらにあったし、午後九時ごろで扉に鍵がかかっていることもあった。そういうときは大抵どこかに呑みに行っているときだったけど。世に言う飲食店の常識なんてあそこにはなかったし、そこに立っている彼にも当たり前なんて言葉は無意味だった。彼がいる世界は彼の世界で、僕たちがいる世界とは一線を画していた。
でも彼は僕を受け入れてくれた。お金もないなんでもないただ若いだけの僕のことを。世間からしてみれば僕は何者でもなかったし、 彼の世界にいる彼もまた何者でもなかった。僕たちは似ていた。歳は一回り以上違ったけど、同じ世界の住人だった。唯一の違いは彼はすでに自分の世界を持っていて、僕は持っていなかった。
彼は僕の道しるべだった。何者でもない僕にとって、彼は僕が進むべき道そのものだった。それが世間的には間違っていても、彼が見せてくれた世界は僕の未来だった。
あのころのことを振り返ったらキリがないし、思い出そうと思えは部屋の隅に積もった埃と同じくらい些細なことでも、それは僕にとって良い思い出でしかない。吐き出したいけど、吐き出すのがもったないゲロみたいに。汚い喩えに聞こえるかもしれないけど、そういう言い方が僕には正しく思える。きれいだとか汚いだとか、そういうことで括る世界に僕たちの思い出は存在しないのだ。ゲロも涙も含めてそれが思い出で、そのどちらもきれいで汚い。それが僕たちのいた世界で、視力0・5が見ることができる正直な世界だった。そのことを教えてくれたのは他でもない彼だったし、それが僕の知りうるあのころの、彼がいた世界だった。




