――泉、失恋に捧ぐ冷笑。
ふと、辺りが思ったよりも明るいことに気がついた。
だいぶ眠っていたのだろうと思っていたが、まだ日が沈んでいない。
「そういえば、今、何時だ?」
時計代わりである携帯電話はカバンの中。しかし、一度気になったものはどうしてかすぐに確かめたくなってしまう。
もう教室はすぐそこだっていうのに、足を止めて横の教室の時計を見る。
五時二十分。嘘みたいだが、あれから一時間半程度しか経過していなかった。
……とはいえ、下校時刻をだいぶオーバーしている。
部活や委員会などが他校に比べ盛んではないこの学校では、生徒会の定めた「金曜日は五時下校」という偏屈な校則がまかり通ってしまっている。
ちなみに、その他の曜日は六時下校、休日は土曜日の午前中のみ校舎を開放している。
こんな状況になっているのも、例の“悪い噂”のせいらしい。
ああいうことがあった以上、俺がこの時間に学校に残っているのは仕方ないことなのだが、なんとなく悪い気がするので早々に下校しよう。
まずは教室に置き去りにされているであろうカバンの救出だ。俺の教室はこの、次の、次。
教室に着いた。けれど、中には入れずにいる。中から人の気配がするからだ。
忘れ物……だろうか? 俺と同じで。
もしくは部活動を終えた生徒がルールを破って居残りしているとか。
どちらにせよ、別に俺が教室に入っても問題は無いよな?
――――見てはいけないものを見てしまった。
ドアの真向かい、窓側の壁に男子生徒が寄りかかって座っている。
顔はよく見えないが、夕日が反射するほどの金髪から、彼がこのクラスの生徒ではないことがわかる。
問題はそっちじゃない。その男子生徒の上。
女子生徒がその脚に跨って座り、男の背中に左手を回し、右手を男の胸に当てて、耳元で何かを囁いている。
本来の俺ならば「なんだ事後か」とかるーくスルーできるレベルの出来事なのだが、残念ながら今回に限ってそのクールさは見る影も無く、俺は咄嗟に顔を引っ込めた後、ずるずると後ずさりをし、廊下の壁に背中をつけ、へなへなと情けなく座り込んだ。
心臓が張り裂けそうになる。ただし、昼に感じたそれとは真逆の感情。
喉がカラカラで、床につけた指がガクガクしている。
信じられない。信じたく、ない。
夕日に照らされる美しい顔。
体の火照りを窺わせる、紅潮したその横顔。
少しだけ汗に濡れた焦げ茶の髪。乱れた息を顕す、上下する肩。
……なんだよ、なんだっていうんだ。
顔と名前の一致すらまだのくせに。
偶然のトラブルがあっただけで、俺と彼女の間柄はただのクラスメイトでしかないっていうのに。
「なん、で――――」
こんなにも、喪失感。
たったあれだけのことで、俺は彼女に――――
……馬鹿だな。
教室であんなことをやってるくらいだ。きっと二人が付き合ってからはそう短くはない。
俺が彼女を意識した時には、とっくに彼女にはあの彼氏がいて――――
「く、っそ……」
頭が混乱してる。なんて、脆い。
よくあることじゃないか、そんなの。
可愛いと思った子に既に彼氏がいる。全国のモテない男子を幾度となく絶望させてきたシチュエーション。
俺だってほら、三年前――――
「おい」
「……っ!!」
突然の呼びかけで我に返ると、一人の男子生徒が俺を見下ろしていた。
思わず声を上げそうになる。
「ここで何をしている?」
俺が応えるより早く、そいつは教室をスッと覗き込み、冷笑。
「フッ……覗きか。感心しないな」
こいつ……ッ!! バレたらお前だってただじゃ済まないだろうに……!
とにかく、この状況はひたすらにマズい。
俺は誰ともわからぬまま男子生徒の腕を掴み、廊下を全速力で駆け出した。
「はぁっ……はぁっ……」
どこまで行くか考えていなかったので、校舎をやたら走り回り、いつのまにか俺たちは上履きのまま体育館裏まで来ていた。
さすがにここまでくれば大丈夫だろう。
「人を連れて急に走り出すとは、なんのつもりだ?」
「……なにって、中の、二人に、気づかれる、ところ、だった、だろうが……!」
これだけ走って息ひとつ切らしていないのに加え、悪びれる様子もなくとぼけていることに無性に腹が立つ。そこでさらに冷笑したと思えば、
「フッ……覗きならいつ気づかれてもいいという覚悟でやれ」
なんて言っていやがる。
……この生意気な年下――……のはずだ――に一発鉄拳でも食らわしてやろうかと顔を上げると、そこに立っていたのは見覚えのある顔だった。
生徒会長の三島。俺より1年遅く入学してきた三年生。
個人的な付き合いがあるわけじゃないが、なんせ一年生のときですら生徒会の実質トップとして何かにつけてしゃしゃり出ていた男。
二年間集会等の度に校長と同等の露出を行っていたんじゃ、俺だって顔くらい覚える。
しかも不自然なくらいパーツが整っていて、逆にそれが特徴になっているという奇妙な顔をしている。
……目の前の男がこいつだって気づけないくらい、さっきの俺は冷静さを欠いていたのか。
ふぅ……、と息を落ち着け、応戦する。
「お前、なんでこんな時間学校にいるんだ。生徒会長が校則破っちゃダメだろ」
そしてまたわざとらしい冷笑。こいつってやつは……。
「愚かな。キサマが起こした問題の後処理をしていてこの時間だ。まったく、また面倒なことをしてくれた」
いくら喧嘩腰で応じたからって「キサマ」呼ばわりされる筋合いは無いのだが……分が悪い。ここは俺が悪かったと素直に認めよう。
「っと、手間かけさせて悪かったよ。ありがとな」
「まったくだ。そしてその問題児が学校に残ってやっていることが覗きとは……。つくづく働き損だったな」
……息を吐くように人を貶すヤツだな、こいつ。
「まあいい。そういうことだ。とっとと帰宅しろ。さっきの二人もあれで慌てて帰ったことだろう」
「っ! まさかお前、そのために俺に声をかけたのか?」
三島がまた冷笑する。
「さあ、どうだかな。お前がとっちめられるのを見たかったのも確かだ」
……俺はいつ、どこでこいつの恨みを買ってしまったのだろうか?
応じるのも馬鹿馬鹿しいのでヤツのいう通りとっとと帰ることにする。
「――じゃあな、お疲れさん」
憎たらしいヤツだが俺が仕事を増やしてしまったのは確かだし、さっきは随分長いを走らせもしてしまった。純粋に労う。
「……フッ。覗きの趣味はこれっきりにするんだな」
……何か言ってやりたくなるが、特に文句が思い浮かばず、
「……お前こそ、覗きはやめろよな」
なんて根拠の無い捨て台詞を吐いて、踵を返し靴に履き替えるため昇降口に向かう。
返事は無い。……ただ、背中に殺気を帯びた視線を感じる。
これは本気の殺気だ。茶化したら殺される。今後彼の趣味には触れてやらないことにしよう――――。