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――解、ライアーズ・ムーン・パレス。

「イズ――――!?」


 俺が声を発するより早く、イズミは跳びかかったその勢いのままに男の腕を蹴りつけていた――否、イズミの蹴りを男が自らの腕で防いでいた。


「随分と手荒い歓迎じゃないか、立松 泉」


 勢いの乗った蹴りを防がれたイズミは、しかしそのままくるりと身体を翻し、カツンと小さな足音だけを立てて教室の床に着地した。

 黒ジャージの男――黒川は、突然飛び蹴りを食らわされたというのに、まるで中学の同級生に再会したかのような平然とした態度を取っている。それを見て、疑念が確証に変わる。

 この男こそが―――!


「よくも抜け抜けと私の前に姿を現してくれたわね、“大人(ライヤー)”!!」


「――いかにも。しかしお前ら……まさかあの丹羽(ガキ)を疑っていたとはな。……くく、傑作だ」


 大げさな手振りと共に教室に静かな嘲笑を響かせる。白色電灯に照らされた教室の底に、どろりとした汚泥が溜まっていくような錯覚を覚える。

 一見飄々としているように見える黒川(ライヤー)だが、眼光だけは見るものを突き刺すような鋭さを放っている。俺が今までに見てきた奴らとは格が違うということが、容易に見て取れる。


「しかしまあ、それでいてよく一目で俺が“大人(ライヤー)”だとわかったものだな?」


「舐めないで。あなたのその()――そんなもの、忘れるわけがない」


「ああ、これか……」


 切れ長の眼を大きく見開く。一重の瞼から覗く瞳。その中で、本来黒であるべき虹彩が、油粘土のような濁った灰色をしていた。


「てっきり光の反射だと思っていたわ。だけど、あの場所に瞳を照らすほどの光源は無かった。それにもっと早く気づいていれば……」


「『制服のボタンがはっきりと視認できた』」


 (ぽつり)、と黒川が呟く。


「だから瞳が光って見えてもおかしくないと早とちりしてしまったのだろう」


 くく、という小さな忍び笑いが、何故か頭の中まで入り込んでくる感覚を引き起こす。


「制服――あれはあなた自身の物だったのね、卒業生さん」


「その通り。この歳で学ランを着るのには違和感が拭えなかったがな」


 黒川が気味の悪い笑いを再開する前に、イズミが続けて問う。


「……まさか、ボタンが一つ足りなかったのって」


「卒業する時に、当時なついてた後輩に与えたからだ。おや、その様子だと(ライヤー)を探す手がかりにでもしてたのか? ――おいおい。お前あの時、苦し紛れに俺の脚に蹴りを何度か入れてきただけだったろうが」


 黒川の顔が嘲笑と共に醜く歪む。聞こえてくる、微かな歯ぎしりの音。しかし、なおも黒川の嘲弄は止まらない。


「お前は本当に無能だなぁ……いやはや本当に。お前独りだけなら、こちらとしても警戒するに足らん存在なのだが――まいったよ。本当にまいった」


 凡百の舞台俳優のような安い演技じみた挙動。何故か、それが俺を無性に苛立たせる。


「“大人(ライヤー)”。貴様の目的は何だ? なんで、わざわざ俺たちの前に姿を現した?」


 黒川の体がゆっくりとこちらを向く。首を四十五度傾けたまま、灰色の瞳を俺に向けてくる。


「よくぞ訊いてくれた、名執。このちび娘に付き合っていたら、いつまでも話が進まんところだった」


「イズミを愚弄するな“大人(ライヤー)”。質問に答えろ」


 出来る限りの睨みを利かせ、威嚇する。こうでもしなければ、怖気に負け、対峙することすらままならない。

 「怖い怖い」と、黒川はまた芝居けたっぷりにおどけてみせる。


「今日はお前ら二人にいい話を持ってきた。詰みかけてるお前らにな」


「いい話、だと……?」


「そう怖い顔をするなよ。その眼、マジに苦手なんだ。いいか、よく聞け。――俺はお前らの敵じゃない」


 ……何?


「ふざけないで!! “大人(ライヤー)”は私たちの敵、全ての人間の敵よ! それとも何!? 今更自分は“大人(ライヤー)”じゃないとでも言い出すの!?」


 俺の斜め前に立つイズミが、今までに聞いたことのないような怒声を張り上げる。それを受けてもなお、黒川はその演技がかった態度を変えようとはしない。


「俺は正真正銘“大人(ライヤー)”だ。この辺り一帯を拠点に十年間、細々とEPDを売りさばいてきた。”覚醒”させた人間も決して少なくはない。儲けは微々たるものだし、俺を慕う者も一人としていないがな」


「十年間、だと……!?」


 この半年で高峰 真美、布施 悠二、高峰の”従者”、綿貫 麻実の少なくとも四人がEPDによって“溺者(ドランカー)”、あるいは“覚醒者(スレイヤー)”へと変容した。ならば、十年間で一体どれだけの人間がその被害にあうのだろう。

 と、黒川が俺の表情を見て口角を醜く引き攣らせた。歪だが、表情としてはおそらく、(わら)い。


「そこの女からどんなホラを吹きこまれてるかは知らないが、EPDを摂取した人間の全員が全員“覚醒者(スレイヤー)”になるわけじゃない。確実に“溺者(ドランカー)”には()るが、大半は二週間でクスリの効果が消えてお終いだ。俺みたいなのが売ってるチープなブツじゃそうそう簡単には“覚醒”しない」


 確か、前にイズミから粗造品の話は聞いたことがある。その時は、効果自体は変わらないと教えられたものだが。


「っと、それはともかく。よく聞け。俺はもうEPDの売買には関わっちゃいない。言うなれば俺は既に“大人(ライヤー)”を辞めている、ただの一介の“覚醒者(スレイヤー)”に過ぎない」


「何を――――!!」


 イズミが黒川の言い分に食って掛かる。今にもまた飛びかかりでもしそうな気迫だ。


「お前は本当に人の話を聞かないな……おい名執、そいつを押さえろ」


 灰色の瞳が睨みつけてくる。そこに宿っている敵意は、何故かイズミではなく俺に向けられているような気がしてならない。


「イズミ。頼む、今は抑えてくれ」


「くっ――――!!」


 敵の言いなりになっているのが苛立って仕方ないが、まずは向こうの話とやらを聞くのが先だ。イズミには感情を抑えてもらうしかない。


「困った娘だな。品が無い。こんなのを好くような奴の気がしれん」


 くく、という黒川の嘲笑が、どこへ宛てられているのか、室内に響き渡る。


「……で、“大人(ライヤー)”ではなくなった“覚醒者(スレイヤー)”のお前が、俺たちに何の用だ? まさかイズミへの個人的な用事じゃないだろうな」


 と、黒川の嗤いがそこでぴたりと途絶え、耳が肩に付きそうなほど傾けた顔が俺の方を向いた。


「――お前、まだ勘違いしてるのか」


 ぞくり、と全身に鳥肌が立つ。冷たい灰色の瞳が、まばたきもせずひたすら俺を睨みつけている。


「そうか、忘れていやがるんだな。娘の方がお前より早く俺に反応した時点で、おかしいとは思っていたんだが」


「……何を、言っている?」


 上手く声が出ない。訳も無く喉が絞まる。


「俺は四日前にその娘を襲った男だが、それが初対面だ。ましてや因縁などあるわけもない」


 くく、という嗤いに同調するかのように、傍らのイズミが静かに語りかけてくる。


「由利也クン。勘違いしないで。あいつは、かつて桜塚高校に巣食っていた“大人(ライヤー)”――“大本”の“大人(ライヤー)”、ではないわ」


「っ――!」


 俺はまた、いつの間にか早とちりをしていた。今の今まで、目の前に立っているのがイズミの敵であると完全に勘違いしていた。


「……その様子じゃ、本当に忘れているみたいだな。――まあいい。とにかく、俺はお前らが探している“大人(ライヤー)”とは別人だ。だからこそのいい話(・・・)なわけだがな」


「それは、どういう――」


「教えてやろうというのさ。お前らが探している“大人(ライヤー)”が、今どこで、どんな姿をして何をしているのか」



 イズミが再び身を乗り出そうとしたのを、右手で制する。だからといって、俺が冷静だというわけではない。心臓の鼓動はどんどん早くなっていっているし、握った左手にはたっぷりと汗をかいている。


「どういう風の吹き回しだ? “大人(ライヤー)”を辞めたからといって、お前と“大本”の“大人(ライヤー)”は同種の仲間じゃないのか?」


 黒川がゆっくりと首を回して鳴った、コキという音が、まるで鹿威しの音のように静かな教室に響く。咄嗟に出た俺の質問が「あまりに馬鹿げている」とでも言いたげに。


「俺はヤツが嫌いだ。ヤツは俺を自分の手駒だとでも思っているらしい。――立松。お前を襲ったのもヤツの指示だ。立松 泉に脅しをかけろとな。そうやっていいように使われるのも、もういい加減こりごりというかな、腹が立って仕方ないというわけだ。言うだろう、『敵の敵は味方』と。理由はただそれのみだ」


「それで。あなたはその見返りとして何を求めるの?」


 落ち着きを取り戻したイズミが、間髪入れず、極めて冷静に尋ねる。これは転がり込んできた他に無いチャンスだ。この交渉は慎重に、確実に行わなければならない。そして、交渉に必要なのは自分の優位を保つことだ。

 黒川が歪に顔を(ゆが)ませ、ゆっくりと口を動かす。


「求めるのは――――俺の身の安全」


 あまりに予想外の返答に、イズミが絶句している。


「身の安全、だと?」


「ああ、そうとも。お前らが追っている“大人(ライヤー)”の情報を渡す代わりに、今後一切俺に関わらないでいただきたい。何も護衛しろと言っているのではない。『頼む見逃してくれ』と言っているんだ。簡単な条件だろう?」


 目の前の男が何を考えているのか、全く理解できない。この学校の卒業生の中に“大人(ライヤー)”がいたなんて、イズミやそのバックの植草らだって掴んでいなかった情報のはずだ。こうやって俺たちの前に姿を現さなれければ、永遠に見つからずに済んでいたかもしれない。

 それに――――


「何の冗談? 私を子供扱いしてみせたあなたが、私たちに対して命乞いなんて」


 そう。黒川はFDファイアー・ドライヤー無しの状態とはいえ、一対一の闘いでイズミに怪我を負わせたほどの手練だ。「脅しをかける」という名目であれだけの力の差を見せつけてくるのだから、その全力はまるで計り知れない。


「は、よく言う。そんな化物(おとこ)を飼い馴らしておいて」


 一瞬、何かの冗談だと思いイズミと顔を見合わせようとする。しかし、イズミは表情を硬くしたままだ。


「――そうね。彼は私なんかよりよっぽど恐ろしいわ。その力がどれほどのものか、測りあぐねていたけれど、“大人(ライヤー)”のあなたが認めるほどなら、よほどのものらしいわね」


「ちょっと、待てって。何言ってんだ。イズミは特殊な訓練を受けた兵士で、俺はただの一般人。加えて運動神経の鈍さはお墨付きだ。何の冗談か知らないが――」


「――貴方。その虚飾(ウソ)はそろそろもたない頃合いだと思うわ」


「な、にを」


 イズミの瞳が、黒く、黒く、黒く、黒く――――


「覚えてるか?」


 灰色の瞳が、淀んだ瞳が、澱んで、濁り、濁り――――


「俺は三年前、お前に殺されかけたんだ」


 脳裏に浮かぶ光景。イズミに話してから。頭を打ってから。より鮮明に思い出されるようになった、あの光景。

 重なる。この教室とあの教室が。イズミと加納が。黒川と、あの男が。

 黒い瞳のクロカワが醜く(わら)う。


 視界(セカイ)が歪む。頭痛。神経の軋む音が聞こえる。体はしっかりと地に足着いて立っているのに、虚体(からだ)が揺らいでいる。

 そうそう、 俺 は昔っから弱っちくてさ。いや、病弱だったわけじゃないんだけど、なんていうのかな、その、


 存在が、脆い


「――――由利也クン?」


 イズミが 俺 の顔を覗き込む。心配そうな表情を浮かべている。心配はかけられない。だって 俺 は、誓ったんだ。 俺 がイズミの支えになると。



 チャイム。鳴っている? 低く響く。もう 俺 は四年間も聞いている慣れ親しんだチャイム。中学は私立で変わった学校だったから、メロディーが違ったんだったな。高校に入学した時、懐かしいなって 俺 は思ったんだっけ。


 クロカワが穢い灰色の眼を向けてくる。 俺 はこいつを殴った。血が出ても、腕が折れても、眼が潰れても、 俺 は殴った。不純、不純不純不純不純不純不純――――!



 俺 は、   の元を離れちゃいけなかったんだ。離れている間に、こんなにも、




 熱。じわりと。肩から胸から背中から手のひらから、頬から。満遍なく、体中から。


 暗い教室に、ふたり。イズミと、 俺 。今は、いつだ。

 教室に音は無い。 俺 の体は音も立てず、ただ、




 やがてカーテンを通して昏い新月の夜が透る。本当に真っ暗で、不確かな 俺 には逆に居心地が良い。不確かの中で確かさを増し、俺は取り戻され、

 ゆっくりと、ゆっくりと(くら)視界(セカイ)が現れる。


「目、覚めた?」


 視界に映ったのは、真っ暗な天井とイズミの顔。どうやら俺は、いつの間にかイズミの膝枕で眠りに就いていたらしい。


「イズミ、俺……」


「だいじょぶ、ただの貧血だよ。きっと、私がちゃんと体に良いご飯作ってあげてなかったからだね。ごめん」


「……ん」


 頭痛は無い。ただ、脳にまとわりつくような不快感が頭の中に残っている。貧血、ってことだろうか。

 辺りは暗い。教室の電気は、おおかた巡回の用務員が室内の様子も確かめず消していったのだろう。月の無い夜ということもあり、教室内は本当に真っ暗闇となっている。目が慣れているからか、イズミの顔だけははっきりと確認できる。


「いま、何時?」


「もうすぐ八時半。昇降口と正門の合鍵は持ってるからその辺は心配いらないけど、さすがにちょっと遅すぎるね」


「そう……だな。月も無いし」


 イズミは、いつものイズミだ。あんなことがあったのに。あんなに取り乱していたのに。どうしてそんなに落ち着いているのだろう。



「黒川が、明日の夜に取引をしようって」


「明日の夜? あんな美味しい交渉、即決にしなかったのか?」


「…………、“彼ら”にも一応相談しておこうと思って」


「そっか。一人で勝手に決めていいことじゃないもんな」


 二人きりの校舎は、とても静かだ。この広い校舎内に、俺とイズミの二人だけ。柄じゃないけど、この静けさはまるで夢の世界の大きな城に居るかのような気分だ。月の無い空の下の、青い砂漠に建てられた大きな城の中に。



「……そろそろ、帰ろっか」


 イズミの小さな呟きに呼応して、俺は体を起こす。一体どれくらいの間、こうしてイズミの膝に頭を預けていたのだろう。起こした体で自分の頭の重さを感じ、申し訳なくなる。


「っとと、大丈夫かこれ、足……」


「ねえ、由利也クン」


 ここが砂漠の城ならば、響く声は姫の弾く琴の音か。イズミの声がいつもより一層透き通って聞こえる。


「やっぱり、さっきのことは忘れて。その方が、二人のためだと思うから」


「そっか……残念だな」


 本当は忘れたくはない。だけど、イズミが忘れてくれと言う限り、俺は忘れるしかない。

 今この瞬間。既に「さっきのこと」が何であったのか、俺の記憶からは消え去ってしまっている。それでいいのだろう、きっと。それが彼女の望むことなのだから。


 イズミが立ち上がり、大きく伸びをしている。その横顔を、新月(つき)(ひかり)が照らす。

 そういえば、月の光は人を狂わせるという。


 彼女はこの後、こう言うだろう。「“大人(ライヤー)”との戦いに向けて身を引き締めなければならないから、しんみりするのも今夜この場限りにしよう」と。

 そう言われてしまえば、俺は彼女の言う通り戦いに備えて気持ちを入れ替えるだけだ。



 だから、この場限り。今だけは。どうか無礼を許してほしい。青い砂漠の姫よ。

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