――解、クライ・ウィズ・ノー・ティアー。
昼休み終了直前になって教室に戻ってきたイズミは、ほぼ空になった弁当箱を机に広げねぎまの焼き鳥を頬張っている俺の姿を見て、可笑しそうに笑った。それはいつもと変わらない、あどけなく優しい笑顔だった。
午後の授業は、滞りなく進んでいった。
中間テストが近いからだろう、いつも受験勉強ばかりしている「ガリ勉組」も少しばかり必死になって授業の内容に耳を傾けている。対して、いつもはわりと真面目に授業を聞いている「部活組」の方が、二日後に控えた体育祭のことで頭をいっぱいにしているのか、終始落ち着かない様子をみせていた。
俺はというと、黒板をちらりと見たあと和輝が去年使っていたノートをパラパラとめくり、「へえ、今ここやってるのか」と確認してみたりしている。ここのところ自分のことでいっぱいいっぱいだったせいか、実行委員にまでなったというのに、体育祭本番が迫っているという事実がどうにも嘘っぽく感じられてしまい、「部活組」のようにそわそわできずにいる。
――イズミは。
授業中だろうが構わず賑やかなテニス部三人娘(というか木戸)に話を振られ、まあ満更でもなさそうに体育祭の話題に乗っているようだった。
器用だな、と思う。
おそらくイズミは気が気じゃないはずだ。皆が話題に挙げる体育祭のその当日に“大人”が行動を起こすだろうと睨んでいるのに、その確証も敵の尻尾もまるで掴めないまま、着々と期限が迫ってきているのを思い知らされているのだから。
高峰 真美、布施 悠二、綿貫 麻実が“大人”ないし“溺者”であったと見抜いた己の直感・感性、そして植草や用務員――底知れない“彼ら”のリサーチ力。それを元に目をつけた丹羽 烈人が、まるで見当違いのただの一般生徒だった――というのは、確定はしていないとはいえ、ほぼ確実と見ていい。
それがどれほどイズミにショックを与えているのか。きっと、イズミに頼りっきりだった俺には想像もできないほどだろう。
こうなってしまえば、俺はあえて目を瞑ってきたある疑問にメスを入れなければならなくなる。イズミが何故「体育祭の当日に“大人”が行動を起こす」という予想を立てたのか、だ。
“大人”という奴らがどういうものなのかを全くわかっていなかった少し前までの俺は、ニュースや創作物からのイメージでのテロリズムを当てはめ、とにかくその行動の結果生まれる被害のことばかりに考えが行ってしまっていた。すなわち、「“大人”がそんな行動に出たら大変だ」。
しかし、綿貫 麻実やイズミを闇討ちした“大人”を見る限り、“覚醒者”と呼ばれる奴らはそういう過激なテロリズムを望む連中ではないんじゃないか、と思ってしまう。奴らはあくまで自らの身の安全を第一として、安全を確保した環境の中で同族を増やしているに過ぎないのでは、と。
俺が今までに得た印象からは、奴ら“大人”がわざわざリスクを負ってまで体育祭などという大きな行事を利用して一挙に同族を増やすなんてことを狙うとは、どうしても思えない。イズミの口から、奴らがそういった大事を起こしたという前例があるという話は、未だ聞かされていないのだし。
確証が無い。前例が無い。なのに、イズミは何故あれほどまでに「起こる」ことを恐れているのか。
俺が今まで見てきたイズミは、色々な事柄を不安に思ってしまう、とてもデリケートな女の子だ。しかし、だからこそ根拠のない不安に苛まれたりはしないタイプだと思う。
ある仮説が脳裏に浮かぶ。
イズミは、「起こる」ではなく「起こす」側を知っているのではないか。「起こす」側の「起こす」という意思を既に伝えられている――つまり、イズミか“彼ら”の元に「起こす」側の“大人”からの脅迫が届いているのはないか、という可能性だ。
それならば、「起こる」危険はあれど確実に「起こる」とは断言できないという今の状況にも合点がいく。確証も前例も無いといっても、犯行予告が届けば警戒するのは当たり前だ。
一つ気になるのは、どうしてイズミはそれを俺に隠したのか、ということだが……それは単に俺がイズミからの信用を得られなかったという理由で納得がいく。今一度、問いただしてみるべきだろう。
六時間目終了のチャイムが鳴るとともに、教室の喧騒がその勢いを増した。
「起立、礼」
……高校三年にもなって「きりーつ」はないだろう、とツッコミたくなるような福住先生の号令の後、一日のカリキュラムから解放された生徒たちはそれぞれ思い思いの場所へ向かい散っていった。「ガリ勉組」は受験勉強のための学習塾へ。「部活組」は明後日に控えた体育祭の準備のため、そそくさと部活動の活動場所へと向かっていく。野球部の芳邦やテニス部の三人娘も例外ではなく、俺やイズミやその他の生徒に軽い挨拶を残し去っていった。
結果、放課後の教室に残る者は少ない。荷物の整理をしているふりをして自らの席に居座る俺と、おそらく同じ手持ち無沙汰から日直が放棄した仕事に手を付け始めたイズミ。それからわずかに残った文化部らしき女子数人。……早く帰ってくれないか。
いい加減ほぼ空っぽのカバンの中を漁るふりをするのも虚しくなってきた頃、ようやく女子たちがイズミと挨拶を交わしたのち教室を去っていった。それにより、俺はやっとイズミと会話を始めることができるようになった。イズミは黒板を濡れた雑巾で丁寧に水拭きなどしている。
「イズミ。その…………手伝おうか?」
「ぇ? ううん、もう少しで終わるからだいじょぶ。ちょっと待ってて」
「そ、そっか。わかった」
もう少しというのもその通りで、俺が話しかけたとほぼ同時に黒板を拭き終えたらしく、イズミは雑巾を持って教室を出て水道へ向かっていった。
「……なんでこんなぎこちなくなってんだろ、俺」
思わず溜め息が漏れる。……まったく。今まであれほど馴れ馴れしく、まるで付き合っているかのような態度を取っていられていたのが信じられない。自分でも気付いていなかったが、あれは驕りからくる傲慢だったのか。冷静になって思い返せば、本当に無様だと思う。
だけど、俺にはもはやそれを突き通すほか道はない。“俺”に動揺があったことを、イズミに悟られてはならない。“俺”は、イズミに対し馴れ馴れしく図々しい今までの態度を取り続けるべきなのだ。
少しして、手のひらをわずかに赤くしたイズミが教室に戻ってくる。
「ごめん、お待たせ」
「いやいや。お疲れ様」
水気を切った雑巾を黒板下の鉄製のフックに掛けているイズミに、気持ちばかりの労いの言葉をかける。
「由利也クン、カーテン閉めてくれる? 窓が開いてたら、それも閉めといて」
「ん、了解」
「お手伝い」感覚で返事をして、数秒。俺は、イズミが俺にその指示をした意味を理解した。窓の外には、コンクリートで埋め立てられた中庭。テニスコートには十人弱の生徒。それから私服を着たの男女数名の姿があった。
「いくら“覚醒者”といえど、喧騒越しにガラス越しじゃ、ここでの会話は聞き取れないと思うから」
「そう……だな」
クリーム色のカーテンを閉めきったことで、昼間にしてはかなり薄暗くなった、俺とイズミ二人きりの教室。異様な雰囲気が漂う。
「部活動終了後に丹羽 烈人と待ち合わせをしてるのは彼の教室――二年三組だけど、今はまだ他の生徒が居るかもしれないし、しばらくはここで待機よ」
「そっちに移動するのは?」
「最終下校時刻――十八時の三十分前、十七時半ね」
「了解」
そして、重い沈黙が流れる。会話の最後を短い言葉で締めてしまったことを後悔した。
「……あのさ、イズミ」
まさか、五時半までの二時間半あまりをこの沈黙のまま過ごすわけにもいかない。この場の緊張に乗じて、色々なことを確認しておくべきだろう。
「イズミは、ずばり丹羽は“大人”だと思うか?」
この質問に対する答えは、丹羽と三人で話をした後に濁した言葉で貰っている。イズミの答えは「ノー」だ。
「……丹羽 烈人は“大人”じゃないわ。たまたまこのタイミングでボタンを盗まれただけの、ただのモテる男の子よ」
“大人”ではないとする確証は無いが、それ以上に“大人”であるとする材料があまりにも少なすぎる。俺たちは最初からそれを承知でごくわずかな可能性に賭け、そして敗れた。
「イズミを襲った『学ランの“大人”』……古宮の制服を着ていたのは確かなんだろ?」
「間違いないわ。ボタンに刻まれた校章を見たのだから。後から気になって調べてみたけど、購買で五つものボタンがまとめ買いされたなんてことも過去無かった」
「なら、生徒の誰かを“溺者”として使役して、その制服を使ったとか?」
「それなら、明日の全校集会の前に紛失したボタンを補充するはずよ。捨て駒にするにしても、EPDを体内から取り除かれた“溺者”が何を口外するかわからない以上、そんなリスキーな手段は取らないはず。第一、そんなことまでして“大人”がうちの生徒を装う理由がわからないわ」
「そうだよな……」
これまで幾度となく議論を交わしてきた話題だ。この場で正しい結論が出るとは思っていない。俺はただ、イズミの意見を確認しておきたいだけだ。
「それを踏まえて、イズミは『学ランの“大人”』は何者だと思う?」
これまでの話し合いに無かった展開に、イズミが微かに息を呑む。
「……学校に巣食う“大本”の“大人”の協力者、でしょうね」
「協力者、か」
イズミは自分を襲った“大人”と“大本”の“大人”とは別人だと考えている。もしそれが正しければ、今俺たちが追っている“大人”のしっぽを掴んだところで、必ずしも“大本”に辿りつけるとは限らないということになる。
「ええ。“大本”の“大人”が協力者に私を襲わせたのは、体育祭の日に起こす行動を私に邪魔されないようにするため」
来た。それだ。
「なあ、イズミ。――イズミはどうして“大本”の“大人”が体育祭の日に行動を起こすと思うんだ?」
「ぇ? それは……私の、直感……」
明らかに語気が弱まる。やはり、そうなのか。
「それはいつか聞いたよ。――もしかして、知ってるのか? “大人”が行動を起こそうとしてることを」
瞬間、イズミの肩が小さく跳ねた。明らかに怯えたその様子は、ついさっきまでの強気なイズミからは考えられないほどの弱々しさだった。
「わ、私……知らない、そんなこと……」
正直なところ、俺の言葉でここまでイズミが動揺するとは考えていなかった。おそらくいつものように上手くはぐらかされてしまうのだろう、とばかり思っていた。はっきり言って、この怯えようは想定外だ。
「イズミ。…………話してくれないか?」
「ぁ、ぅ………。……………ごめんなさい」
その後に長い沈黙が訪れたことから、ようやく俺はそれが拒絶の意味での謝罪の言葉なのだということを理解した。