――解、ハート・キャント・ノウ。
「いつにも増して浮かない顔してんな、名執」
すぐ近くから声をかけられ、ようやくその存在に気付く。
「……芳邦。俺、そんな顔してるのか?」
多分、相当やつれた顔をしてることだろう。目も耳も何もかも、今の今まで機能を放棄していた……気がする。
それさえ覚えていないほど、朝から絶えず上の空だった。
「ああ、ひでえ顔してる。もしかして、」
「あー、あー。……そういうの、いいから。お前は次の授業の準備でもしてろ」
この様子だと、芳邦には昨日のことは伝わっていないようだ。不幸中の幸いか。
「次の授業ってお前……たった今午前の授業が終わったばっかだぞ。大丈夫か?」
見ると、壁に掛けられた時計は正午をいくらか過ぎた時間を指し、教室は弁当箱を手に寄り添いあう生徒たちで溢れかえっていた。
「……そういえば、そうだったな」
「おいおい……」
もう一度教室を見回す。やけに静かだと思ったら、あの賑やかな女子生徒たちがたむろしているはずの席が、四つ並んで空席になっていた。
「……芳邦、イズミは?」
「はぁ? お前が知らなくて俺が知ってるわけがあるか?」
「それもそうか」と口に出す寸前、芳邦が軽い溜め息を一つ意味ありげに吐いてみせた。
「と、言いたいところだが……さっき角のやつが来てさらってったよ。何やらワケアリな感じだったんで、今日は諦めろ。あいつがああいう顔するときゃ、身の程知らずの説教と相場が決まってるんだわ」
「角さんが……」
いったい、何の用事だろう? もしかして――
二人の会話の内容を勘ぐろうとして、やめる。それをするのは本当の下衆だ。
「つーわけでよ。今日は俺も暇だし、彼女に見捨てられたサビシーお前と一緒に飯でも食ってやろうと思ったんだが?」
「いや、でも俺は……」
弁当が無い、と言おうとしたところで、机の上に置かれた小ぶりの重箱のような弁当箱が目に入る。
「それ。お前が寝てる間に彼女さんが置いてったんだよ、チクショウ」
「……そうか。なら、問題無いな」
それを聞いた芳邦がニヤと笑い、ズズと音を立てて椅子と机を引きずってきた。音からして、相当物の詰まった重い机らしい。詰まっている、というのは――本当に、羨ましい。
「そーいや、お前とこうして昼飯を食うのは初めてだな」
購買の焼きそばパンをかじりながら芳邦が言う。
「あー……そう言えばそうか。悪いな。俺、あんまり人と一緒に弁当食ったりする人間じゃないから」
「……それはひょっとしてギャグで言ってるのか?」
俺の周りに人が集まるんじゃない。俺の傍らにいる人間が、いつも人を集めるんだ。
一年生の時の、加納 沙耶香がそうだった。その後の二年間の、遠東 和輝もそれに近い。
そして今も、立松 イズミがまさにそう。彼女がいなければ、俺は完全に独りだ。
「……おい、そこで黙るかよ?」
芳邦だって、俺がイズミと親しくしてるのがきっかけで話すようになった仲だ。角さん、ケロちゃん、それから久留米に木戸に杉山。俺が今この学校で口を利ける人間とは、全員イズミを通して知り合った。もし俺がイズミと出会わなければ、きっと俺は独りのまま卒業までを過ごしていたことだろう。
その時は、それでいいと思っていた。独りでいい、と。独りの何が悪いのか、と
でも今は違う。俺は、イズミを離したくない。一時も欠かさず側にいたい。この世界にある他のどんなものよりも、イズミを求めている。
近頃の俺は、どうかしてる。狂しい。こんなにはっきりと誰かのことを好きになったことが、未だかつてあっただろうか?
母さん、姉さん、三佳さん。家族を愛おしい、かけがえないと思えるほど、あの日までの俺は出来た人間じゃなかった。結果、三佳さんに対する歪んだ家族愛だけが残った。
加納 沙耶香。あれは……負け惜しみのようだが、本当に周りに流されただけだったと思う。「女の子が一緒にいてくれる」という状況に、きっと俺は“あの少女”のことを重ねて見ていたのだろう。
俺は、イズミのことが好きだ。でも、何故? ……いや、ここのところずっと一緒にいたのだし、彼女は女性として凄く魅力的だから、同棲までしてしまっては惚れない道理が無い。
だけどそうじゃない。何か。何かが俺をイズミの方へと引っ張っている気がする。理性より深く、本能よりも不条理な何かに、俺は引っ張られている。
不快じゃない。それはまるで“俺”という存在の根底にある根源的行動原理のように感じられる。はたして、ただの恋愛感情というものはこれほどまでに不可避の衝動だっただろうか。
『俺とイズミは、そういう関係じゃない』。これまでに何度か口にしてきた言葉だが、今朝のそれは、その言葉が虚勢としか思えないくらい、重みに欠いていた。
俺は、イズミに側に居てほしい。彼女の側に居たい。そのためにどうしたらいいのか。それだけがわからない。はっきりとした拒絶の意を告げられて、俺はどうしたらいいのか。
「……そろそろいいか?」
芳邦の声で我に返る。その声に、いつものふざけた色は無い。
「悪い……ちょっと考え事してた」
「んなこた、わかってる。……お前、その様子じゃ立松と何かあったみたいだから言うけどよ」
いつになく真剣な眼差しを真っ直ぐ俺に向けてくる。
「お前、いくらなんでも受け身すぎんだよ」
ドク、と心臓が大きく跳ねる。
自分自身よくわかっていても、他人から改めて言われると苦しい言葉というものがある。俺にとって、今の言葉こそがまさにそれなのかもしれない。
「確かに、お前が立松と仲良くなれたのはラッキーだったのかもしれない。ひょっとしたら、お前はそうやってラッキーだけを頼りにして生きてきた人間なのかもな。俺は別に、それに関しちゃ否定はしねえよ。
だけどな。それならそれで、ラッキーを十分に活かせよ。偶然手にしたものを、みすみす手放すようなことはすんじゃねえ。ラッキーで手に入れたってことは、この先同じように手に入る可能性の少ないってことだろ。なら、意地でもしがみつけよ。意地でも離すなよ。完全に手中に収めてから、それから自分の身に下りた幸運に感謝しろよ。掴みかけたくらいで満足して手放すんじゃねえ」
熱っぽい口調で言い切り、
「……って、前々から言ってやりたかったんだ俺はお前に。見当外れなことは言ってねえよな?」
いつもの様子でニカと笑ってみせた。
「85点……かな」
「そりゃ、俺にしちゃ十分すぎるな」
カラカラと笑う芳邦。その姿も、今までとはどこか違って見える。まさか、こいつに説教されることになるなんて、思ってもみなかった。……まったく。
高々ひと月に満たない付き合いだけで、人の中身まで見通すことなんてできない。それを今、身を持って思い知らされた気がする。
「ありがとう、芳邦。おかげで気が楽になった」
「おーおー、感謝しろ。そしてとっとと告って玉砕して、俺に道を譲ってほしいもんだ」
「……いちいち謙虚だな、お前」
目の前の芳邦が、俺の知っている芳邦とは違う誰かに見える。俺の知っている芳邦なんてものが、どれほど不明瞭なイメージだったのか、今わかった。
僅かな期間の付き合いで見える「内面」なんてもんは、最初からそいつが外に向かって開放してる部分でしかない。俺は今まで他人と深く関わったことがほとんど無かったから、その意図的に開放された「内面」をその人の全てだと勝手に思い込んでたわけだ。
……まったく。なにが「審美眼」だ。本当に、可笑しくて可笑しくて死にたくなる。
「――本当に、助かったよ。あやうく俺は一生莫迦のまま過ごすところだった」
「……? おう、今告らないのは本当にただのバカでしかねーな」
くつくつと笑う芳邦を見て、小さく息を吸い込む。
「告白は、しない」
「……は、」
「言われたんだ。『今告白されたら、多分断るだろう』って。だから、告白しない」
「そりゃ、当たり前だが……」
「違うんだ。俺はそれで悲観してた。俗っぽい言葉で言えば、フラれた気でいた。けど、違うってことに気付いたんだ。今が駄目なら、今じゃなきゃいい。告白するのが駄目なら、告白しなければいい」
詭弁だ、と笑われるかもしれない。どこまでも情けない男だ、と蔑視されても無理はない。
だけど、俺はそれが“今”できる最善だと思う。
「イズミは、“今”の関係を良く思ってくれている。なら、俺はそれを維持しようと思う。掴んで、絶対に離さない。時が来るまで、絶対に」
「……究極の受け身だな。アグレッシブで傍迷惑な受け身だ。呆れたもんだが、それでいいんじゃないかと思うぜ」
芳邦は、笑わなかった。らしからぬ表情で、ただ一度真っ直ぐと俺の目を覗き込んで、席を立った。
「その弁当。蓋開けただけでまだ手ェ付けてないみたいだが、ちゃんと食ってやれよ? ったく、付き合ってもないのに手作り弁当って、何だそりゃ。すげえわけわからんところに居るよ、お前ら」
別に貶すつもりは無い、とでも言いたげに笑ったのち、またしても机を引きずって元の位置に戻し、そのまま芳邦は教室を出て行った。
もしかして、芳邦は角さんを通して何か俺とイズミに関する情報を聞いていたのかもしれない。そんなことは、本当の本当にどうでもいいことだけれど。
「さて……」
目の前には、卵と鶏肉の二色そぼろ、強いタレの匂いがする焼き鳥、輪切りのゆで卵など、とにかく鳥づくしの弁当が展開されている。どうしてこうなったのか問い詰めるのは、全て食べきってからだ。
イズミが教室に戻ってくる前にたいらげてしまおう。それが弁当を作ってくれた者に対する礼儀ってやつだろうから。
慢性の頭痛を、今は感じない。
どういう時にあの頭痛を感じないのか、ぼんやりとだけど、ようやくわかってきた気がする。