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――解、バッド・イントロ・チャプター。

 朝、八時の二十分前。だいぶ早めに学校に到着したというのに、テニスコートのある中庭からは既に大勢の生徒が詰めかけていた。

 OBのうちの数人が朝練に顔を出したのだという。練習開始を三十分近く繰り上げ、テニス部は今、放課後と同等の練習を行っている。


「だから、バスケ部(こっち)に来たんですか?」


「……そういうわけじゃない、けど」


 釈然としない俺の答えを聞き、やれやれと肩をすくめるケロちゃん。体育館のステージの(へり)に座り、両足をばたばたと動かしている姿は、歳相応で可愛らしい。



 昨夜、「アル・フィーネ」でのあの出来事の後。

 二人乗り自転車の帰路や、家に着いてからの空いた時間、俺とイズミはやや言葉少ななりに他愛もない話をいくらかした覚えがある。

 何故だろう。丹羽についてや、俺の問題発言についてなど、早急に話し合うべき話題はたくさんあったというのに、それらよりもまず先に夜空に月が無いことについて話しあった。

 まあ、なんてことはない。新月だ。

 イズミと出会った日が満月の直後で、今が新月の最中。つまり、その間は二週間。長かったような、短かったような。

 俺がそうぽつりぽつりと勢いもなく語りかけると、イズミは心ここにあらずといった様子でただ「そうね」とだけつぶやいた。それはまさに、闇に融けゆく下弦の細月のごとき力無さで。




「昨日のこと、角部長(せんぱい)から聞きました」


「……そっか」


「反省してください」


 その口調は、紛れもなく冷たい。

 まったく、この子は本当に心優しい女の子なんだな。



 床に就く前に一度“植草”からの電話を受けたイズミは、その報告がてらか、居間で俺に声を掛けてきた。

 しかしイズミはいつまで経っても電話の内容を語ろうとはせず、「その前に」と、何か胸の辺りに(つか)えたものを慎重に処理するがごとく、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


『……さっきの』


 それは、あまりにつらそうで。

 「事故とはいえ自分の気持ちの一端を伝えることができた」なんて半ば浮かれていた自分を、思わず絞め殺してしまいたくなった。


『どうして貴方は、私を苦しめるの?』


『苦し、める……?』


 今までに耳にしたことのないほど、か細く衰弱しきった声。


『前に言ったよね、私。……ううん、私たち。全てが終わったその時に――』


『……ああ、覚えてる』


『なら!』


 縮みきった喉から、切ない声が上がる。


『……どうして、今変わろうとするの?』


 俺は、変わっちゃいない。俺は一目見た時からイズミ、君に惹かれていて――

 いや、そうじゃない。そういう話をしているのではない。イズミの言う「変わる」とは、つまり「関係を変える」こと。

 「私たち(・・・)は、今はまだ変わってしまってはいけない」。そう、言っている。


『どうして……私を困らせるの?』


 細切れの嗚咽を交えつつ、イズミが続ける。


『応え、られない。――わたし! …………応え、られないよ』


 「応えられないんだよ?」と、小さく、僅かに自嘲の色を織り交ぜて。


『もし……もしもの話よ? もし、今この場で貴方に「好きだ」と告げられても』


 時計の秒針がカチ、と鳴り。


『――私は、それに「ノー」と返すと思う』




「まさか、それでイズミ先輩を諦めて角部長を狙いに……」


「なわけあるか、この」


 手刀が、ふわふわしたベージュの髪に吸い込まれる。まったく、この子も言うようになったもんだ。血か、環境(角さん)か。純粋無垢で可愛らしかったケロちゃんが、だんだんと兄貴に似てきている。嗚呼、非常に嘆かわしい。


「それで、先輩はどうするんですか?」


「ん? どうするって?」


 む、と唸り不満げな瞳を向けてくる。


「イズミ先輩のこと、諦めるんですか?」


 ――なんだ、そんなことか。


「諦めるも何も、」


 立ち上がって、背筋を伸ばす。ぱきぱきと骨の鳴る音。フロアに見える慌ただしく走るバスケ部の生徒たち。


「俺とイズミは、そういう関係じゃないから」


 数秒、間が空く。その間、ステージの縁に座ったままのケロちゃんがどんな表情をしていたのかは、想像に難くない。


「また、そうやってはぐらかすんですね」


「んー……そう言われても、紛れもない事実だからさ」


 はぁ、という溜め息。遠慮はもうしない、と決めたのだろうか。


「先輩はいつもそうです。いつもいつも、自分勝手です。自分の視点からしか物事を考えられてないんです」


「俺、不器用だからなあ」


 大真面目に言ったつもりだったのに、くすくすと笑われてしまったので、遅れて俺も笑う。どこまでも不器用だ、俺は。



 部活動終了のチャイムが鳴る。聞き流しながら、ぼんやりとイズミのことを考える。あいつ、丹羽とうまく話を付けられるだろうか。


「先輩」


 制服の裾が軽く引っ張られる。

 まいったな、「先輩」と呼ばれるのにも、もう慣れてしまった。


「先輩、なんだかいつもと様子が違って見えます」


「……多分、頭打ったからだよ」


 絶え間なく続く、微弱な頭痛。紫煙の中に居るかのように、ずっと不透明なままの思考。

 他人には、人格が変わってしまったかのように見えているのかもしれない。


 ステージから飛び降りると同時に、


「先輩!」


 餞別か何かか。


「どうか……気をつけて」


 よほど、「死地へ向かう兵」じみた顔でもしていたのだろう。そんな顔をしていたままでは、今度こそイズミに申し訳が立たない。一度目を閉じ、深呼吸。二度目を開く頃には、準備は整っているはずだ。



 “植草”からの連絡によると、疑わしい人物はこの期に及んでゼロ――そう、丹羽も含めてだ。

 そして俺とイズミも、昨日の邂逅から「丹羽 烈人はおそらく“大人(ライヤー)”ではないだろう」という推測を立てた。ここに、三者の見解が見事に一致したことになる。


 最後に、丹羽 烈人を直接問いただす。「お前が“大人(ライヤー)”ではないのか」と。

 はっきり言って、ただの悪あがきだ。


 不可視の新月が昇りきった空に、逃げ終えた金星を探している。

 散らばる星も無い空。見えないけれど、灰色の薄い雲が広がっているのかもしれない。


 それさえ、わからない。

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