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――窺、isn't there、忘れている何か?

 白いカーテンに囲まれた長方形の閉鎖空間の中で、寝ぼけた目を擦る。

 夢は見たものの、そこに俺の期待したあの少女の姿は無く、中学の頃の些細だが胸糞の悪い出来事を思い出させる、言うなれば「普通の夢」でしかなかった。

 遠く、カコン、カコンと固い地面に何かが規則的なリズムでぶつかるような音が聞こえる。


「……今、何時だ?」


 青いタオルケットの掛けられた体を上半身だけ起こし、長い眠りですっかり重くなった頭を左右に振って時計を探す。


「今ですか? もう五時過ぎですよー」


 ここの壁に時計があるわけがない――というか周りにあるのが壁ではないということを思い出す前に、その外側から回答を貰う。ワンテンポ遅れてポケットから携帯を取り出して画面を開くと、そこには確かに「PM 5:12」と表示されていた。


 「開けていいですか?」という確認の後、カーテンが音を立てて外界との隔たりを解く。


「おはようございます、名執くん」


「はぁ、こんにちは福住先生」


 昼休みの時とはうって変わって、白衣の天使的スマイルを浮かべている先生。眩しくて、ちょっと参ってしまう。


「具合の方はどうですか?」


「えーと、昼起きた時はちょっと頭痛がしたんですけど、今はもう大丈夫みたいです。傷も治って(・・・)ますし」


 そう、治った(・・・)。信じられないことだが、流血を伴うような擦り傷がものの数時間で引いてしまったのだ。まさか俺も、自分の体がそんな丈夫なものだとは思っていなかった。


「そうですかぁ。もう、若いからってあんまり無茶しちゃダメですよー?」


 「何をおっしゃる、先生も十分お若いじゃないですか」、とでも言ってほしいのだろうか、このグラマーなナース(もどき・推定二十五歳)は。

 普通、体のシルエットを覆い隠してしまう白衣をもってしても誤魔化しきれないその曲線美。

 こんな女性が常駐しているというのに仮病を使って保健室に入り浸ったりする生徒が見られないというのは、はっきり言って異常だ。やっぱり生徒同士というクローズド・サークルの中で需要と供給が満たされてしまっているのだろうか。そう考えるとなかなか心中複雑なものである。


「……? どうかしました、名執くん?」


 眼鏡越しに訝しげな瞳を向けられる。福住先生は、保健室に居る時はよく眼鏡を掛けている。そして眼鏡を掛けている時は、必ずと言っていいほどその黒髪の後ろをゴムで縛っている。その風貌はいかにも「デキる女性」といった感じで、ある意味意外な一面とも言える。

 同じような格好をよくあの人がしているが、片やほんわか片やざっくばらん。中身があまりに正反対すぎて、ちょっと笑ってしまう。


「……名執くん?」


「あ、いえ。なんでもないです」


 見慣れた顔のはずなのに、慣れないシチュエーションにあるからか、いつもは気にならない福住先生の女性的な魅力につい惹き寄せられてしまう。……俺に面食いの気があることはもはや否定できそうにない。


「名執くん、今日一日おサボりさんですからね。中間試験までにちゃんと今日の分のノートをお友達に見せてもらっておかないと、テストの結果によっては追試や補講になっちゃいますよー?」


「あー……はぁ、まあ、そーっすね」


 あまりに誠実な先生の言葉に後ろめたささえ感じ、目線を逸らしながら曖昧に受け答えする。

 担当の授業を持っていない福住先生は、俺が普段どのような態度で授業に臨んでいるかをその目で見ていない。そのため、こうも今更感の漂う助言なんかをしてくれてしまう。


「中間試験、か……」


 体育祭まで一週間を切っている今日は、同時に中間試験約一週間前でもある。つまり、代休が明ければ即試験期間に突入というわけだ。だから生徒たちは体育祭の準備をしながらテスト勉強もしなくてはならない。

 結果、半数ほどの生徒は体育祭に無関心だし、体育祭に力を入れている生徒は皆揃って補講の教室でその反省会的談笑をする羽目になる。まったく、この学校の偉い人は何を考えているのだろうか。 


「実行委員になったからって、体育祭(そっち)の方にばかりかまけてちゃダメですよー? まぁ、名執くんは勉強ができる子ですから、実のところ先生あんまり心配してないんですけどね」


 そう言って愛嬌のある笑顔を向けてくる福住先生。その幼さの宿る笑顔を見ると、あろうことか先生が年下の女の子であるような錯覚を覚える。



「あ、そうだ先生。実行委員の次の集まりっていつですか?」


 前回は俺が風邪で休んでいる間に行われてしまっていた。次も行かないというのは少々マズい。


「次、ですか? 次に集まるのは前日準備の時ですけど……」


 ん? それはおかしい。


「あれ? 確か、今週の初めに集まりがあるって……」


「……それは昨日のことです」


 …………なん、だと?


「どうして昨日、来なかったんですか? ああ、いいですいいです。その口ぶりでわかりましたから。つまり、すっかり忘れてお昼寝でもしてたんですよね? ……ふぅ。名執くんがそんなだと、先生ちょっと困っちゃいます」


「う…………」


 口調こそ穏やかなものの、(かげ)りを帯びた声色で脅しにきている。わりかしストレートに怒りをぶつけてくるあれ(・・)それ(・・)とはまた違った恐ろしさに背筋が凍る。きっと脊椎を通る神経の束が生命の危機を本能的に感じ取ったに違いない。


「大体、名執くんはせっかく他薦してもらって実行委員になったというのに、その自覚が足りないんです! 今のところ何もかも彼女に任せっきりじゃないですか!」


 徐々に勢いづいてきた福住先生に捲し立てられる。耳が痛い。

 福住先生のお叱りのほとんどを左の耳から右の耳へとスムーズに受け渡しながら、昨日の昼休みのことを思い返す。

 三分の一ほど覚醒していた意識。それを起こそうとする者の中にケロちゃんが混じっていたのは、そういうことだったのか、と。


「恐縮です……」


「私に謝っても仕方ないです。謝るなら彼女に直接謝ってください」


 …………あ。


「立松さん、口には出してないかもしれないですけど、すごく怒ってましたよ? それもこれも全部名執くんが不甲斐ないから――」


「先生。……もう一度聞きます。今、何時ですか」


「……? ですから、五時過ぎ――って、だいぶ話し込みましたね。もう五時半ですよー」


 ……五時、半。最終下校時刻は六時だ。当然、部活動の終了時刻はそれよりも早い。生徒は皆着替えや片付けを済ませてからの下校となるからだ。


「先生……お世話になりました」


 体調は良くなったというのに何故か重い体を起こし、ベッドから降り上靴を履き、そのまま保健室から出て行こうとする。

 遠く――中庭から聞こえる例のバウンド音が、心なしから最初より激しさを増している。そこに怒りや憎しみといった類いの負の感情が込められているのを感じられるところに、ようやく俺の鈍さも衰えをみせてきたかなという感慨を覚える。


「名執くん? どこに行くんですか?」


 事情を知らない福住先生の能天気な表情が、今は遠い。


「ちょっと…………謝りに、ね」




 ……もちろん、許されるはずなどなかった。

 ラケットを握る体操着姿のイズミは、駆けつけた俺を一瞥し、「着替えてくる」の一言だけを冷たく突きつけ部室棟二階、テニス部の部室へと消えていった。同伴の三人娘からの視線も、俺の身を焼くには十分な威力を持っていた。


「……はぁ。俺って本当に……」


 男として以前に、人間としてどうかと思う。言い訳のしようも無いので、平謝りしかない。今のうちに、少しでもこちらの誠意が伝わるような謝罪の文句を考えなくては。



「お、名執。どうした、無茶苦茶暗い顔してるじゃんか。立松(かのじょ)にでもフラれたか?」


 呵呵と笑いながら近付いてきたのは、顔を見るまでもなくわかる、あの男だ。

 実のところ、「次会った時はお返しにぶん殴ってやろう」なんて考えてもいたのだが、冷静になってみるとあんな厄介ごとは、自分が被害者だろうが加害者だろうが、はっきり言ってもうこりごりだ。


「よう、朝はどうも」


「わりぃ、度が過ぎた」


 だから実際、こんなものだ。



 それから、何となく今の状況を芳邦に相談してみた。しかしながらこいつは「そりゃお前が悪い」だの「お前ってやつは本当に……」だの漏らすばかりで、俺がイズミに嫌われるというのが可笑しくてたまらないらしく、終始カラカラと笑うばかりだった。


 話が一段落したちょうどその時、部室棟の二階のドアがガチャリと音を立てた。出てきたのは制服に着替えた四人の女子生徒。その中の一人、部長である久留米が施錠をしている。カン、カンという音と共に階段を下ってくる四人。その先頭で、イズミが隠しきれない不機嫌を辺りに漂わせている。


 イズミが階段を下り終え、そこで待っていた俺と目を合わせた時、俺を含めた五人が一斉に唾を飲む音が聞こえたような気がした。


「…………イズミ」


 返事は無い。拗ねているのと本気で怒っているのの中間のような表情で、じっと俺を見つめている。オレンジ色に照ったアスファルトの上に広がる、小柄な体から伸びる黒く長い影がまるでイズミの心理状態(いかり)を象徴しているようで、謝罪の言葉を探す俺をたじろがせる。

 芳邦との会話に耽ってしまったため、結局気の利いた口上を考えることはできなかった。頭が真っ白になる。


「その…………ごめん」


 万事休す(チェック・メイト)。どうにでもなれ。



「…………ん、許す」


 その言葉の直後、飛び上がるほど驚いていた芳邦を笑って馬鹿にしてやれる自信は、俺には無い。

 三人娘は、久留米は呆れ顔、杉山は微笑、木戸はニコニコと、またしても三者三様の表情を浮かべていた。




 帰り道、自転車の後ろに座ったイズミから、今日のテニス部の様子について色々な話を聞かされた。


 久しぶりのテニスで、感覚を取り戻すのに手間取ったということ。


(つまり、ノリノリでプレーしてたんだな……)


 顔を合わせたことのない下級生にまで自分の名前が知れ渡っていて驚いたということ。


(芳邦曰く「言わずと知れた古宮のアイドル」らしいからな。……信憑性のほどは知らんが)


 俺がなかなか来ないことに対して、三人娘が終始ぶーぶーと文句を垂れていたということ。


(行ったところで俺はテニスなんてまともにできないんだけどなあ……)


 そしてなにより、


「当の“丹羽 烈人”が不在だったのよね。体育祭のクラス対抗リレーの練習だって」


「リレー……じゃあ、部対抗リレーの選手にもなってるのかな」


「そうね、多分」


 もし、丹羽とやらが“大人(ライヤー)”だったら。その時は、そいつを学校から排除せざるを得ないだろう。無論、体育祭までに。


「……欠員、出ないといいな」


「――そうね」




 夕食を済まし、イズミが浴室に向かった後、俺が一人ソファーに座ってテレビを見ていると、傍らでピリリリと携帯電話の着信音が鳴った。俺の携帯は普段から音の鳴らないマナーモードに設定してある。となると、鳴っているのはイズミの携帯だ。


「脱衣所まで持って行かなかったのか」


 有機ELらしき背面ディスプレイを見ると、発信先として「植草」との名前が表示されている。思わず息を呑む。


 今この携帯に電話を掛けてきているやつこそが、イズミを“大人(ライヤー)”との戦いへと誘った張本人。そう思うとこの電話に勝手に出て罵声の一言でも浴びせてやりたい気持ちになるが、それがどういう結果を引き起こすかはぼんやりとだがわかっているつもりなので、なんとか抑え込む。



「イズミ、電話が鳴ってる。――“植草”からみたいだ」


 携帯を持って脱衣所のドアの前まで行き、その向こうの浴室に居るイズミに声をかける。

 「待って」との声の後、ドアからバスタオル一枚だけを羽織ったイズミが姿を現した。


「う、わ……! イズミ、その格好はちょっと……!」


「由利也クン、携帯」


 取り乱す俺をまるで相手にせず、俺の手から携帯を静かに攫うと、そそくさと自室へと消えていった。

 しばらく呆然としたのち、ふと開け放たれたドアの向こうにある脱衣所の鏡に映った俺の顔が赤くなっていることに気付く。どうやら俺は無意識のうちにイズミのあのあられもない姿を思い出していたらしい。……まったく、どうしようもない。




 しばらくして、イズミが居間へと戻ってきた。今日の寝間着らしい灰色のスウェットを上下に着ている。今まで見てきた私服に比べると少々色気に欠けている気もするが、ゆったりとしたサイズのそれがイズミの危うい幼さを強調していて、見ようによっては可愛らしい。


「今日、ボタンの取れた制服を着ていた男子生徒はゼロ。ボタンを購入した生徒もゼロ。いよいよ怪しくなってきたわ」


 ただし、その口から放たれる内容も、口調も、『普段』より幾分も冷たい。

 一緒に暮らすようになってより一層気になるようになった、今のイズミと『普段のイズミ』とのギャップ。見ているだけで、とても……悲しくなる。



 明日はテニス部の練習に朝練から参加する、ということを確認し、イズミはすぐに自室へと戻っていった。

 脱衣所には脱ぎ捨てられたイズミの下着がだらしなく散乱していたが、何故か取り乱すことはなかった。

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