――窺、is she...?
「なーんであんなカンカンに怒るのかしらね」
福住先生が保健室から出て行った後、入れ替わりでイズミがやってきた。
「イズミ。聞いてたのか」
個々のベッドを仕切っているカーテンをカラカラと開けて、俺が寝ているベッドの横に置かれた背もたれのない椅子に腰を下ろす。
「偶然聞こえただけよ。それにしても、 あれじゃまるで弟でも叱ってるみたいじゃない」
俺が昼休みというこの時間にこうして保健室のベッドで横になるなんていう無様な姿を晒しているのは、ぼんやりとした記憶とイズミや先生の話によると、朝のHR直前の時間に芳邦にぶん殴られたからだという。まったく、なんつー馬鹿力だ。
「ま、福住先生はああいう人だから」
つまり俺は完全に被害者でしかないはずなのに、何故か福住先生にこっ酷くお叱りを受けるはめになった。
あの人は生徒への過保護が災いして、たまにそういう暴走を起こす。どうしてか俺はあの先生のお気に入りらしいので、このようなとばっちりを受けるのには慣れている。
“布施との接触”の時は本当に命が関わる出来事だったためか、さすがに俺を責めるようなことはしなかったが。――――いや、あれは俺が加害者として扱われたからなのかもしれない。
「で、由利也クン。調子の方はどう?」
「悪くはない。ただ――――」
あの“いつかの幻影”を思い出す。
推測するに、あれは多分小学校の真ん中あたりの学年の頃の思い出だろう。はっきりとは覚えていないし、あれが実際の記憶であるかどうかも疑わしい。
頭を強く打ったせいか、混濁した記憶がミキシングされたらしい。他にも、中学の頃の何気ない日常の光景などが急にはっきりと思い出せるようになっていたりする。
「ただ?」
「いや……なんでもない」
他にも額の辺りを中心に鈍い頭痛を感じるなど、明らかに後遺症らしきものが残っているのだが、曲がりなりにも医療に携わっている福住先生にはともかく、イズミにはそんな余計な心配させてしまうようなことは言えない。
憂い気に「そっか」と呟き、椅子の座部ごと体を回転させ、百八十度向き直るイズミ。窓にかけられたカーテンの隙間から幽かに入り込む陽射しに照らされた横顔は、いつか月光に映しだされた時のような神秘的な美しさを醸し出している。
俺はそれに、夢境の少女を重ね見た。
「それよりっ!」
再びくるりとこちらを振り返ると、俺を咎める口調で言う。
「貴方、芳邦ごときのパンチでのびちゃうってどういうこと!? 一般人の攻撃にも耐えられなくて、一体どうやって“大人”と戦うつもり!?」
ごとき、か。言葉の綾とはいえ、そんな風に言われたことを知ったらあいつ、きっと血の涙を流すぞ。
「打撃でダウンしたんじゃない。単に頭の打ちどころが悪かったんだよ」
怨念の篭った一撃だったから、とかいうジョークはすっとばす。今も、感じるのは後頭部にできた特大のたんこぶからのヒリヒリという痛みだけだ。他に内的な頭痛はあるものの、外傷としての怪我はどれも大したものではないと思われる。
「――――イズミ。俺、どこ怪我してた?」
突如、言いようのない違和感に襲われる。
「ぇ? んーと、肘をアスファルトに擦りつけてたと思うけど……」
言い淀む語尾は、ちゃんとは確認していなかったという自省のためだろうか。
確かに肘の部分が擦れている制服を脱ぎ、微かに血の滲んだワイシャツの裾を捲る。と、
「……傷が無い」
そこには、まるで何事もなかったかのようにいつもどおりの姿をした肘があるだけだった。
「じゃあ、芳邦は完全にお咎め無しってことなのか?」
「そ。事を荒立てたくないから、由利也クンのせいってことにしちゃった。ごめんね」
朝の事件のその後の話をひと通り聞き終わる。……まったく、そういうことだったのか。
「鬼ごっこの末にボロベンチに飛び乗り、その衝撃でベンチを大破させた上そこから転げ落ち頭を打って意識不明」では、福住先生が怒らないはずがない。
そんな言い訳を真面目に考え出すイズミも凄いが、それを先生に受け入れられてしまう俺って一体……。
「まあ、あれは完全に傷害事件だからな……」
受験を控えた高校三年生にとって、ああいうことをしたのが学校にばれるというのは死活問題だ。その時点で学校推薦という受験の抜け道を完全に遮断されてしまう。
さすがにそうまでなってしまうのを眺めながら「自業自得だ」と嘲笑ってやれるほど、俺は人間ねじ曲がっちゃいない。
「それと由利也クン。貴方、テニス部の子たちと何を話してたの?」
「え?」
何を、と来た。
「えーと……遠まわしに丹羽ってやつの話を聞き出したり……」
曖昧に受け答えする。はっきり言って、よく覚えていない。これも怪我の後遺症だとしたら相当だ。
俺がぼけた記憶から何とか会話の内容を捻り出し語ると、イズミは「ふむふむ」とそれに聞き入った。
「――ありがと。それでね、今日の放課後、テニス部の練習に混ぜてもらえることになったから」
「……マジで?」
いくらあの三人が責任者であるとはいえ、こうもうまく事が運ぶとは。
「ええ。これも由利也クンのおかげね。最近あの三人と仲良いみたいだし」
いや、それはさすがにイズミが普段から彼女らと仲良く接してるからだろう。って、イズミが謎の鋭い眼光をこちらに向けながら不敵な笑みを浮かべているのは何故だ。
「そういうわけで、頑張って放課後までに体調戻しておいて。もう体育祭まで日も無いし、のんびりやってる暇は無いんだから」
「体育祭……か」
体育祭といえば、その当日はもちろん、前日準備や後片付けや代休などでおよそ一週間ほど通常とは違う日程で校時が進む。そうなれば、その混乱に乗じて見当をつけていた“大人”が逃亡を図ることだって考えられる。今の、それまでの期間こそが、掴んだ尻尾をたぐり寄せられる最後のチャンスなのだ。
それに、体育祭にはもう一つ問題がある。当日、学校内外の人間が無数の接触を繰り返すことになるということだ。俺とイズミは、“大人”がそれを利用して何かをしでかすのではないかと睨んでいる。
杞憂かもしれないが、もしそんなことが起こってしまったらとりかえしのつかない大惨事になる。なんとしても体育祭までに“大人”を特定しなくてはならない。
と、五時間目開始五分前の予鈴が鳴り響く。すなわち昼休み終了の合図だ。
それを受けて、イズミが椅子から立ち上がり小さく伸びをする。
「それじゃ私、そろそろ行くね。何かあったら連絡して?」
「了解。じゃ、また放課後に」
「うん。中庭のテニスコートに、運動靴履いてだからね。……ちゃんと来てよ?」
「はは、わかってるって」
やけに不安げな顔をしているイズミ。笑って返しはしたものの、俺はくだらないことで数時間も気を失っていたのだ。どれだけ彼女にいらぬ心配をかけさせてしまったのかは、想像に難くない。
イズミは俺の返事を聞くと、にっこり笑って廊下へと消えていった。
「……さて」
はっきり言って、体調は芳しくない。前頭部を中心とした頭痛は絶えず続いているし、体が熱を持っている気もする。
ひょっとしたら、実際のところ頭へのダメージは馬鹿にならないものだったのかもしれない。それを引き起こしたのがあんな馬鹿げた出来事だったから、いまいちシリアスになれないが。
それを解消するためにも、もう一眠りしよう。
眠りには、いくつか役割がある。一般論、体の休息、脳の休息。俺にとっては――――
俺は、再びのあの夢見を渇望している。遠い記憶。密閉、熟成された記憶の中で神格化された、思い出の中の少女。
俺はずっと、恋していた。