――窺、is this テニス部?
自動販売機から、ゴトンという音と共に紙パックに入ったヨーグルト飲料が排出される。この自販機には、三百六十五ミリミットルという実に微妙な容量のドリンクが、横三列にも亘って陳列されている。
ここは古宮高校部室棟横。学校の敷地内には三箇所自販機が設置されているのだが、一番利用しやすい昇降口前の自販機のラインナップは(俺にとって)極めて微妙な顔ぶれであり、飲み物が欲しくなるとわざわざこうして校舎裏まで訪れるのだった。
部活動時間中のこの場所は、驚くほど人気が無く、遠い喧騒を受け止める山彦装置でしかない。
俺たちは昨日の反省を踏まえ、「部活組が登校した後・それ以外が登校する前」という二人にとって一番都合の良い時間に登校した。学校に着くなりイズミはバスケ部の活動している体育館へ行ったが、俺の方は“綿貫 麻実”の一件以来あそこへ行くのは何となく気が進まなくなってしまったので、こうして一人時間を潰しているのだった。
(ま、そういう意味じゃこの場所だって同じだけどさ)
視線をプールのある方向に移すと、あの時と同じ佇まいをしたトイレが視界の片隅に入る。イズミに聞いたところ、綿貫が破壊した内装はいつの間にかすっかり元の様相を取り戻してたそうだ。きっとそれも“彼ら”の仕業だろう。
時刻は八時、十五分前。初夏とはいうものの、夏というにはまだまだ微弱な陽射しを浴びながら、俺は部室棟の前に置かれたプラスチック製の青いベンチに、独り腰を下ろした。
「あれ。なんか黄昏れてるやつがいる」
「珠月。その使い方は誤用だ。『黄昏れる』を人間に対して使う場合は……」
「あ、なとりくんだー!」
無惨。静寂が突如として亡き者にされる。
「テニス部三人娘。どうしてここに?」
賑やかに校舎の方から歩いてきたのは、制服を三者三様に着こなしそれぞれテニスバッグを担いだ三人の女子生徒だった。
部活動に所属している生徒が部室棟前に居ることに対し疑問を投げかけるのは我ながらどうかと思うが、他に言いようが無いのだから仕方ない。
「どうしても何も、これから朝練だからに決まってるじゃない」
『何を言ってるんだこいつは?』という表情を浮かべているのは、ショートカットの髪を明るい茶色に染めた制服姿の女の子、久留米 珠月だ。
俺はというと、逆に『何を言ってるんだ俺は』という心地。
「そっか、テニス部は朝練の開始、八時からなんだっけ」
「ほう。名執が部活事情に明るいとは、慮外千万極まるな」
容赦なく失敬な文句を突きつけてきたのは杉山 零。ベージュ色の長袖のカーディガンに、流れるような長く黒い髪を垂らしている。顔立ちは美しく、フレームの細い銀縁の眼鏡をかけている。背丈は久留米とちょうど同じくらいで、体の線は細めの久留米よりも更に細い。
いかにも生真面目そうな外見からは、彼女がスポーツをやっているだなんてとてもじゃないが想像できない。
「れいちゃん、なに言ってるかわかんないよ」
杉山の横では、木戸 つばめがニコニコと笑顔を浮かべている。ほんの少しだけ茶色がかったボブカットの髪に、シルエットから発育の良さが一目で見て取れる、いわゆる「出るとこ出てる」体型の体。いつもほわほわとしていて、言っちゃ悪いが頭の弱い子という印象が拭えない。
「で、名執さんはなんでこんなところでボケーっとしてるわけ?」
口調に嫌味ったらしさは感じられないが、なんて酷い言われようだろう。
「いや、別に。しいて言うなら暇だから、かな」
「ふーん」
暇ならもっと遅く登校すればいいのに、というツッコミが来なかったことを喜ぶ。
久留米の隣に立つ杉山が訳知り顔をして鼻で笑っているのは、この際見なかったことにすべきだろう。
「あれ、立松さんは?」
「ぶっ!」
ヨーグルト飲料がすさまじい勢いでストローの中を逆流した。
そういえば、俺とイズミの噂を過剰に広めた張本人だったな、こいつ……。
杉山がまたしても「ふっ……」と笑う。くっ、苛立たしいというより、むしろ何故か悔しい。
「いずみちゃんならさっき体育館のとこにいたよ~」
いかにも口の軽そうな木戸にも当然知られている。そういえば、イズミはコレをどう誤魔化すつもりなんだろうか。俺は……とりあえず今まで通り適当に否定しておこう、波を荒立てぬよう。
「バスケ部か。私はあの遠東氏の妹君だと勘繰っていたのだがな……」
「それはさすがに深読みしすぎでしょ。まぁ、あたしもてっきり角さんだとばかり……」
「ふたりとも、昨日は夕飯ごちそうさま!」
完全に俺を置いてけぼりにしてトークが進行している。さすがは三人娘、三人で一組として完成されすぎていて入り込む余地が無い。思えばあの角さんですら苦戦してたもんなあ。
先ほどから知った名前がちらほら挙がっているが、もはや盗み聞きをしている心地なので内容は聞かないでおこう。
と、不意に目に入った中庭の時計が八時を指しているのに気付く。
「おーい、もう八時みたいだけど……」
控えめに話に割り込むと、案の定久留米にキョトンという顔をされた。彼女は右腕の内側にある腕時計の文字盤を数秒見つめた後、
「もう八時過ぎてるじゃん! どうする杉やん?」
などと、まるで自分がそれに気付いたように言った。
「……『杉やん』は止めろ『杉やん』は。――ふむ、ネットも張ってない道具も出してないおまけに着替えてもいない、か。つばめはどう思う?」
「部長のみづきちゃんがやりたくなさそうな顔してるから~、やらなくていいんじゃないのかな~」
ほわほわした高い声でのんびりと意見を述べる木戸。……って、珠月――久留米が部長?
「なるほどなるほど。つっ子の言い分も一理あるよね。ていうか十五理くらいありそう?」
「素直に『面倒だ、やりたくない』と言え。……やれやれ、仕方ない」
「って、おい。杉山もそこで納得しちゃうのかよ」
というか、朝練を中止するなんて、三人の中で決めちゃっていいものなのか? 三年はこの三人だけと聞いたけど、下級生はもう準備を始めてたり――――は、無いか。だって、部室棟の前にずっと居るのに他の生徒を誰一人見ていないし。
「まあ、私だって体調の悪い時にはなるべく体を動かしたくない。今日は生理三日目で……」
「杉ちゃんがそんなこというなんてめずらしいな~。今日はなとりくんがいるから?」
絶妙なタイミングで木戸が割り込む。具体的に言うと『今日はせい』の辺りで。
「なっ!? 何が言いたい、つばめ」
「だって昨日はずっとなとりくんの話題で持ちきりだったでしょ? みづきちゃんとかいろいろすごいこと言ってたしー……」
「な、何も言ってない! 名執さん、あたし何も言ってないからね!」
もはや完全に木戸のペースだ。うーむ……アホの子、侮れん。
「いや、それはいいんだけど……。テニス部っていつもこんなユルい感じなのか?」
この三人は大会でも結果を残していたりとするといつかイズミから聞いていたので、はっきり言って予想外だ。
「まあね。自由参加の朝練には、基本的に下級生は誰も来ないかな」
「いや、昨日は丹羽が来ていたぞ」
「――っ!」
思わぬところで挙がった名前に、つい反応しそうになる。一瞬強ばらせた顔を、木戸が不思議そうに眺めてきたが、気取られないように痒くもない頭を掻いて無理やり誤魔化す。
「丹羽? ああ、二年の。あたし、あいつ嫌い」
「珍しい。随分ストレートだな」
「だってあいつ、テニス始めた動機、絶対モテるためだもん。あいつってそういうやつ」
「そう言ってやるな。始めた時からすればかなり上達しただろう」
「ふん。どうせああいうやつは大学行ったらサークルで女漁りに精を出すに決まってる」
「酷い偏見だ。テニスをやってる男子が皆そうだと言うなら公方だって……」
「なに? 嫉妬? 残念でしたー。ハルくんはあたし一筋ですー」
「おぉ~、すごい自信だねみづきちゃん」
脱線の予兆を感じ取ったところで、一時三人の話を聞くのをやめる。
こんなところで『丹羽 烈人』の情報を得られるとは棚ボタだ。一度情報を整理しよう。
その一。モテるためにテニスを始めた……と久留米に思われている。
その二。入部当時は下手だった。
その三。部長である久留米に嫌われている。
……うわぁ。なんて役に立たない情報。久留米の偏見が混じった話とはいえ、聞く限り俺には到底好きになれない類の人物であることは間違いなさそうだ。こりゃあ、考え方に共感の持てた綿貫の時とはまるで別の展開だぞ。はっきり言って、本人を直接見る前から「関わりたくない」とさえ思う。
その後、半ば予定調和的に久留米の惚気話が展開され、気付いたときには部室棟前には朝練を終えたサッカー部らしき生徒が集まり始めていた。
さて、そろそろこの場を離れよう。もし今この場面をヤツに見られると、少々マズいことになりそうだ。
「じゃあ俺、そろそろ教室に戻るから」
またしても、盛り上がっているガールズトークに無理やり割り込む形になり、話の中心である久留米には露骨に眉間にシワを寄せられた。
「待て、名執」
「ん?」
ベンチから立ち上がったところで、何故か杉山に呼び止められる。
杉山たちは俺が座っていたベンチを取り囲むように立っているため、三人にどいてもらわないとここを離れられないという状況だ。
「何だ?」
「いや。時間も丁度良いから私達も教室に戻ろうと思ってね」
「そだね~。結局カバンも持ったままだし」
「そういえば、あんたには立松さんとの話を聞かずじまいだったしね」
俺の意見を聞こうとする気一切ゼロのまま、『それじゃあみんなで一緒に教室に向かおう』でまとまりつつある三人。いやいや、ちょっと待ってほしい。
「よく聞いてくれ。――俺はイズミとの関係で良からぬ噂を立てられている」
「なに、突然。そんなの当然知ってるって」
「うわさっていうか~……」
「良からぬ? それは相手に失礼じゃないのか?」
三人から、それぞれ別の方面からの非難を受ける。くそ、めげないぞ。
「……コホン。えー、そういうわけで、俺は何故かヤツから酷い恨みを買っているらしい。まことに遺憾であるが」
「ヤツ?」
「誰だ? 貴公に恨みを持つ男なら校内に幾らでも居るだろうから、特定できない」
久留米と杉山はそれぞれ別の観点から悩み、「ヤツ」が誰かわからないでいるようだ。
久留米は俺の交友関係の狭さから。そして杉山は、イズミに好意を持っている男は校内にごまんといるということから。
「よしくにくんでしょ? ね、よしくにくん」
と、ここでまさかの木戸の冴えた回答。ただのアホの子じゃないな、この子。
「よくわかったな。そう、正解だ木戸。……………………って、え?」
よく見ると、木戸の豊満な体の陰に、やつれた小柄な男が立っている。
「よォ名執…………。お前さんよォ、昨日は一言も口聞いてくンなかったなァ……。何か都合の悪ィことでもあったかよ……!?」
「ひぃ……っ!」
泥に汚れた白い練習着を着た、血色の悪い土色の肌をした坊主頭。目は輝きを失うというより、むしろギラギラとした殺意で一際輝いているように見える。
「角、ケロちゃん、そして噂の立松嬢。たぶらかしやがって。……かと思いきや、今度ァテニス部にまで手を出してやがンのかァ……!?」
「ご、誤解だ芳邦! 何から何まで全部誤解だっての!」
「――へ? そうなの? マジで? なーんだ、全部誤解だったのかー。あはははは」
と、先ほどまでと打って変わって、(はっきり言って気持ち悪い)笑みを浮かべる芳邦。
「は、ははは。わかってくれたか。わかってくれればいいのだよ。ははは」
釣られて、気色悪い笑みが込み上げてくる。ああ、もう、どうにでも、なれ。
「あははははは」
「はははははは」
女子三人はというと、久留米はドン引き、杉山は憐れみ、木戸はニコニコ。三者三様の表情を浮かべ、芳邦の背後数メートル離れたところでこちらを見ている。
「あ、いたいた! 由利也クン! もう、なんでこんなところに!」
その更に後ろから、今一番ここに来てはならない人物が近付いてくる。
芳邦の拳がグッと握られる。俺に掛けられた声が、ヤツにとって最後の弾鉄となったようだ。
「名執…………」
「待て芳邦! 早まるな!」
「この、裏切り者ぉぉぉおおぉぉおぉおぉぉぉおぉぉぉ!!!!」
直後、彼をスポーツマンたらしめている鍛えあげられた右腕から放たれた拳が、軟弱な俺の体とその後ろの古ぼけたベンチをまとめて吹き飛ばした。
俺の体は宙を舞った後部室棟の壁に打ち付けられ、元々損傷の目立っていたプラスチックで出来たベンチは無惨にも背もたれが大破し、砕けたブルーのプラスチックがネガティブな桜吹雪のように俺の周囲に散乱した。その衝撃で飛び上がった、ベンチに乗っていた空の紙パックが、最後に地面に横たわった俺の顔へと見事に着地を成功させた。
……ということを、その場で気を失った俺はのちに保健室のベッドでイズミから聞かされたのだった。