――疑、場違いな平穏。
「…………っ、と」
カーテンを開け放していたベランダから差し込む陽の光を体中に満遍なく受け、混濁した深い眠りから生還を果たす。
いつもより早めにセットした目覚まし時計より、更に幾分早く目が覚めてしまったようだ。部屋の中にイズミの姿は無い。物音もしない。ちょっと、早すぎたかな。まあいい。その方が学校で眠りやすくもなるし……という世捨て人思考。
洗面所で寝ぼけた顔を洗う。冷水が針のように顔中の神経を刺激する。短い前髪がほんの少しだけ濡れるのを鏡に見て、不思議な安堵を覚える。
洗面所のコップには三本の歯ブラシが立てられている。なんとも奇妙な光景だ。緑色で、少し毛羽立っているのが俺が使っている物。
三佳さんが使っていた物はほぼ新品同様の姿で残っている。途中で電動歯ブラシに鞍替えしたからだ。
残る一本がイズミの物。水色で、やや小さめ。毛先は奇抜なカットがなされていて、よく見ると首が曲がるようにもなっている。機能性重視、なんだろうか。
歯磨きを終えたところで、腹が減っていることに気付く。
ここでようやく時計を確認。家を出る時間まで、まだ二時間以上も余裕がある。だったら、久しぶりにまともな朝食でも作ってみるか。隣でまだ眠っているだろうイズミの分も作っておこう。もし「いらない」と言われたら、俺が二人分食べればいい。
「んむ…………。みゅう…………」
フライパンの上で玉子を転がしていたところで、隣と繋がるドアから、奇妙な寝ぼけ言を口走りながらイズミが現れる。よれたTシャツに前ボタンの開いたホットパンツというあられもない格好で、眠たそうに目を擦ってる。
柔らかそうな長い髪には寝グセが付いているが、はたから見る分には、それはまるで手入れの行き届いたパーマヘアのようだ。
「おはよう、イズミ」
「むぅ……? おはよ……」
未だ覚醒しきっていないらしく、寝ぼけ眼で俺の握るフライパンを見つめている。
「あ、これ? 腹減ってたから朝飯を、と思ってさ。イズミも食べるか?」
「めだまやき? うんたべる。二枚」
「了解。もうちょっとしたら、台所空けるから」
俺が朝食を作り終わったら、次はイズミが台所を使って弁当を作る。それにどれくらいの時間を要するのかはわからないが、きっとそれに合わせて起きてきたのだと思うし、なるべく早く明け渡すべきだろう。
イズミはぐきゅる、と腹の虫を鳴かせた後、夢遊病のように体をふらふらさせながら洗面所へと歩いて行った。……朝、弱かったんだな。
と、廊下を歩くイズミの手に何かが握られているのが見える。何かもなにも、アレは……。
洗面所から戻ってきたイズミは、明らかに顔を赤らめていた。
「……お早う由利也クン。その……二枚焼いちゃった?」
「ああ、言われた通り」
はぁぁ、と深い溜息を吐くイズミ。顔を洗ったことでようやく目が覚めたらしく、先ほどの自身の発言を恥じているようだ。
「なんだったら俺が食べるけど?」
「いい。……お腹空いてるし」
俯きがちなまま、更に顔を赤くする。どうやら豪快に空腹をアピールしたことも覚えている様子。
「むぁぁぁぁぁぁ…………」
ソファーに座り込むなり、手に持ったFDの熱風で轟々と髪を掻き立てている。……いや、そりゃあ通常の使用もできるとは言っていたけどさ……。
「ごちそうさまでしたっ」
「ん、お粗末様でした」
朝食を摂り終え、イズミはこれから弁当の用意。俺は……案の定暇を持て余す。さて、どうしたものか。
台所からはイズミがバタバタと冷蔵庫のあちこちを慌ただしく開け閉めする音が聞こえてくる。俺はソファーの上にテレビのリモコンを見つけ、スイッチを入れる。当然ともいえるが、朝のニュース番組が映る。
「由利也クン、あのさ……」
溶き卵がフライパンに敷かれるジュウ、という音を聞き「これはすぐに卵不足が訪れるな」と思考を巡らせていた最中、イズミに声をかけられる。
「えっと、卵不足のことか?」
「ぇ? 卵なら冷蔵庫にまだ三パックくらい残ってたと思うけど……って、真面目な話なんだからいきなり腰を折らないで!」
拗ねるように言う。申し訳ない。声のトーンから察するべきだった。
「ごめん。それで、真面目な話って?」
今日からマークを開始するという「丹羽 烈人」って生徒のことだろうか、と勘ぐってみる。
「あの……その……由利也クン」
「はい、なんでしょう」
気まずそうな表情。真面目な話と言ったけど、“大人”がどうこうの類ではなさそうだ。
「由利也クン、気にしてないの?」
「えーと……気にしてない? 悪いイズミ、話が見えない」
フライパンからは香ばしい匂いが立ち上っている。言い淀みながらも、料理は手際良くこなしているというのがわかる。
「だから、その……うーん。由利也クンにとってはその程度の問題でしかないってことなのかなぁ」
「かなぁ、と言われても……」
情報が少なすぎて、何のことを言っているのか推測することさえ難しい。何の話だろう?
「――だって私、貴方のことずっと騙してたんだよ?」
「……ああ」
その話か。イズミは自分はあくまでただの女子高生だと名乗っていたが、実際はかなり特異な事情を抱えていた。確かに、彼女は俺を欺いていたといえる。
しかし、俺はそれを知った時、いくらか彼女を咎めるようなことを言わなかっただろうか。俺としては、かなり酷いことを言ってしまったものだと悔やんでいるくらいなのだが。
「二歳もサバ読んでたんだよ? 私十九歳なんだよ?」
「……………………えーと、そっち?」
「ぇ、うん」
まったく。実年齢がどうだと言われても、俺はイズミのことを「年齢の割に幼く見える子だ」と思っていたわけで。「実はサバ読んでました」と言われたって、むしろ逆にプラス要素にしか成り得ない。「二十代って言ってたけど本当は三十超えてます」とかじゃあるまいし。
「気にしてないよ、全く」
「どうして? 年齢的には私、高校生じゃないんだよ? 男の人ってそういうのすごく気にするんでしょ?」
……なんて偏った知識。それはアイドルとか、その……そーゆー店とかビデオとか、そっちの話だろう。
「どうしてって言われても……俺も十九だからさ」
「ぁ……由利也クン、誕生日早かったんだ」
「四月。同い年なんだから、気にするわけないだろ。むしろ俺なんて年下との交流、ケロちゃんとくらいしかないから、逆に救われた気分だよ」
「で、でも。学年では私の方が一個上……」
「今は同じだろ。何の問題があるっていうんだ?」
むぅ、と唸り黙りこんでしまうイズミ。
「というか、イズミが年下でも年上でも関係ない。俺はイズミのことがす」
「…………す?」
しまった。馬鹿か俺は。あまりにも本音を出しすぎて、言っちゃマズいことまでそのまま口に出てしまいそうになる。……というか、手遅れだ。
「――ありがと」
取り乱すでもなく、ただ柔らかな微笑を浮かべるイズミ。
失言を言い訳で誤魔化すなんて、現実にはできるわけもない。自分の顔がみるみる赤くなっていくのがわかる。
ピピ、と炊飯器のタイマーが鳴り、イズミが弁当箱にご飯をよそい始めた。
「き、着替えてくる!」
その隙にその場から逃げ出し、制服の置いてある脱衣所へと駆け込む。
時刻は七時過ぎ。あと三十分くらいしてから家を出れば、ちょうど登校中の生徒が少ない時間帯に学校へ行けるだろう。
それまでに、この赤に染まりきった顔を元に戻すことができるかどうか。
……かなり怪しいところだ。




