――疑、数多の矛盾。
気持ち傾きつつある陽射しをベランダからガラスを通して部屋に取り込んでいる、午後五時前。
五月末のこの時間帯というのは、はたして夕方と呼んでいいものかと首を捻ってしまう。
俺はソファーに腰掛けながら、担当である夕飯の献立の思索に行き詰っていた。
ガラス越しのベランダには洗濯物は一つとして干されていない。何を隠そう、脱衣所に置かれている洗濯機は乾燥機能完備なのだ。しかも三年前の春モデルの最上位機種ということで性能も申し分無し。炊事以外の家事をほぼ完全に放棄している俺にとって、こんなに便利なものはない。
そういうわけで、俺の洗濯物は今も全て洗濯機に突っ込まれっぱなしだ。
当然だけれども俺のとイズミの洗濯物とはちゃんと分けている。
と、イズミといえば。
彼女は放課後の一件以来、なかなか口を聞いてくれようとしない。自転車の後ろに乗ることも頑なに拒み、そのせいで家までの道のりを自転車を押して歩く羽目になってしまった。当然、その間もほとんど会話は無し。
ようやく家に着いたと思えば俺が自転車を仕舞っているうちに合鍵で部屋に侵入、脱衣所から脱水・乾燥済みの洗濯物を掻っ攫い、早々に自分の部屋に閉じこもったらしく。俺が部屋に着いた時には既にもぬけの殻で、脱衣所では俺の分の洗濯物で腹を満たした洗濯機がゴウンゴウンと唸りを上げていた。
隣の部屋からガラガラとベランダのガラス戸を閉める音が聞こえる。洗濯物を干し終えたらしい。六時過ぎには陽が沈むというのに、律儀なもんだ。
……それなら学校行く前に干しておけばいいのに、と思ったけど、彼女も彼女で始めたばかりのこの生活にまだ少し不慣れでいるのだろう。
さて。同棲開始二日目にしてパートナーに対し大失態を犯してしまった俺だが、まったくこれからどうしていこう。部屋に篭ってしまうだろうイズミに向かって、今はどういった行動を取れば……、
がちゃり。
「……へ?」
音のした方向を振り返と、小さく開いた壁のドアからこそりと、制服を脱いだイズミが部屋に入り込んできている。
火のついた夜叉のような恐ろしい憤怒の形相を浮かべている――というのは俺の失礼な想像だったようで、むしろ白い頬を対とされる色に染め、おずおずとこちらに視線を向けてきている。……一体全体これはどうしたことか。
大きめのサイズの真っ白なチュニックの下に、黒のハーフレギンス。おまけに髪をいつかのように二つに結び、肩から胸にかけてのところに束を垂らしている。
イズミにとってはただのカジュアルな部屋着ファッションなのかもしれないが、私服をあまり見慣れていないせいか、心臓がはち切れそうになるほどの刺激を受けると共に、すっかり目を奪われてしまった。そのせいか彼女は余計困ったようにドアの前で立ち尽くしてしまっている。
チュニックから覗く、黒いレギンスに包まれた長い脚が、もじと揺れている。えーと、ああ、何か言葉をかけないと……。
「――よかった、脚の怪我治ったんだ」
イズミは一瞬虚を突かれたような――あるいは呆れたような――顔をした後、こくと頷いた。
……ああああ。何をやってるんだ、俺は。そうじゃないだろ。確かにそれもそうだけど、だけどそうじゃないだろ! 確かにイズミは登校時長い黒のソックスの下に包帯を巻いていたけど! それが今はレギンスを履いているわけだから包帯は取れたのだろうけど! っていくらなんでも取り乱しすぎだろ俺!
「落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け……」
「ゆ、由利也、クン……?」
落ち着け俺。落ち着け、俺。
「由利也クン、あの……」
「――イズミ!!」
「……ぁ」
……しまった。やってしまった。せっかく向こうから声を掛けてくれたところだったのに、俺は何をやっているんだ。
そして、どうする? 思いっきり呼び止めてしまったが、どうする?
ああ、もう。どうとでもなってしまえ!
「えっと……その…………か、可愛い。すごく」
しばし沈黙。
数呼吸置いて、イズミの顔がかぁぁと一気に紅潮した。多分、俺の顔はそれよりずっと前から真っ赤だったのだろうけど。
「ぁ……ぇ……と…………ぁ、ありがと……」
「っと……あ……あ、うん」
それまでの経緯とか雰囲気とか、そういったものを全て吹き飛ばしてしまう俺の空気の読めなさ。誰かの命の掛かった大事な場面で発動しないことを祈るばかりである。
「そ、それで。何か話でもあったり?」
……あるだろう、そりゃ。いつまで呆けているつもりなんだ、俺は。
「ぁ、うん。……その……隣、行ってもいいかな?」
「……え?」
隣、といえば隣だろう。詰めれば四人や五人は掛けられる――主に寝転がるために生かされている――サイズの、俺が今腰掛けているソファー。その、隣のスペースだ。当然空いている。イズミがそこに座りたいと言っている。それだけのことだ。昨夜は僅かに間を空けていたとはいえ、並んで座ってテレビを観ていたじゃないか。今更何を恥ずかしがることがある?
「――恥ずかしいに決まってんだろうがっ!」
「え!?」
引き続き『馬鹿か俺は。』
「あ、いや、違う、違う違う! いいって。大丈夫、うん。大丈夫ですよ?」
「由利也クンがイヤなら私別に……」
「そ、そんなことない。嬉しい、超嬉しいって。ほんと。本音です」
「でも恥ずかしいって……」
「いーや、そんなことはない。何も恥ずかしいことはないしヤマしいこともない。大丈夫です。来てくださって構いません。あー、えー、大丈夫デスヨ? だからほら、おいで!!」
………………。何を言ってるんだろう、俺は。
「ぇと…………行きます」
てとてと、とおっかなびっくり歩いてきたイズミが、ゆっくりとソファーに腰掛ける。俺との距離、最短部位で五センチ強。近すぎる。それはさすがに近すぎる。
心臓がツーバスを刻む。
二人して、黒く沈んだ四十六インチプラズマテレビの画面を無言のままじっと眺めている。横から差し込むやや橙がかった陽の光によって、その画面にはソファーに座ったままガチガチに表情を強ばらせた俺とイズミが映り込んでいる。そうやって客観視することで、二人の体の距離の近さを実感してしまう。
「て、テレビ……点けようか?」
「ぁ、……うん」
二人とも、隣に座っている相手がテレビの画面に反射した自分たちの姿を見ていることは、自分も同じくその像を見ることでわかってしまっている。だからこそ気まずく、照れくさい。
「あれ……?」
手元に置いておいたはずのリモコンが見当たらない。まったく、備えて憂うるくらいなら、むしろ最初から備えない方が――――
「――あ」
リモコン発見。確かに俺のすぐ近くにあった。だがそれは……
「あのー……イズミさん」
捜し物が見つからずあたふたとしていた俺の様子を見かねて、座ったままソファーの上にリモコンを探してくれているイズミ。ソファーの上に散らかっている、俺のカバンや学ラン。散らかしている俺が悪い。だけど、リモコンはそこじゃなくて……。
「その……あなたのお尻の下に」
「ぇ? …………あ……」
イズミの臀部とソファーの間に挟まれ沈み込み、上からチュニックの弛みを被せられ、かろうじてその「地上D」と書かれたボタンを覗かせているテレビのリモコン。凝視してはマズいと視線を逸らすと、さらにそこにはスラリと伸びた靭やかで艶めかしい脚。再び視線を逸らし、前を向き直る。最初からそうしておけ、俺。
テレビの画面に映る、セピアカラーの二人の虚像。俺の顔だけが、みっともなく赤い。
やがて画面に色が灯り、夕方のニュースが都内の風景を映し出す。
何の変哲もない住宅地の、どうでもよすぎるちっぽけな話題。男性レポーターが開かずの踏切の「開かず」っぷりをせかせかと囃し立て実況する中、俺とイズミは未だ沈黙を保っていた。
さっきよりも傾いた陽は、三原色の混濁から作られるビジョンの上にそのオレンジを重ね、未だそこにうっすらと二人の姿を投影している。
直線距離十五センチほどの間を隔てて並ぶ二つの顔は、どちらもさっきよりは落ち着きをみせている。そろそろ会話に持ち込むべきだろう。
「あのさ、イズミ」
「ん。なに?」
距離が近すぎてお互い横を向けないため、二人とも真っ直ぐテレビを見つめたまま会話を交わしている。もっとも、この距離で正面から向き合ったら、とてもじゃないがまともに会話なんてできないと思う。
「さっきは……ごめん。あ、さっきって、その、学校でのこと」
「ぁ、うん。だいじょぶ。って、謝られるようなことでもないしね」
あはは、とイズミが笑う。レポーターがストップウォッチを止める。二十三分十八秒。
「怒って……ないのか?」
「怒るって……。私の方こそ『ごめん』だよ。あんなに取り乱しちゃって」
取り乱した?
「それじゃ、口を聞いてくれなかったのも、自転車に乗りたがらなかったのも……」
「…………恥ずかしかったから。――――むぅぅぅ! 仕方ないじゃない!」
拗ねた声を上げるイズミ。その真っ赤に染まっているだろう顔を拝めないのがちょっと悔しい。
「――そっか」
機嫌を損ねてしまったとか、嫌われてしまったとかじゃなくて、ひとまず安心する。
「むぅ……。由利也クン、私をイジめてそんなに楽しい? むしろ愉悦しんでる?」
「いや、俺にそんなSっ気のようなものは無いはずだけど……。んー、どうなんでしょう」
「なにそれ!? 自分のことなんだからわかるでしょ!」
「自分のことならわかるってのはちょっと早計だろ」
お互いの体を真横に感じながらの言い合い。なんだか滑稽だ。
「ほら、そうやって。由利也クン、絶対愉しんでる!」
「さて、どうだかな」
「むぅぅ。さっきだって急に服のこと褒めたり……」
「服を褒めたんじゃなくて、全部ひっくるめたイズミを褒めたんだよ」
「なっ……!?」
こうなったイズミが、どんな小っ恥ずかしい台詞も全部受けきってくれるということは、今までの経験からわかっている。
俺はかなりイズミの「照れ」に引きこまれやすいらしい。だったらこうして、常にからかう立場に立ち続けたほうが身のためだろう。
「もう……! 私を困らせて、そんなに楽しい!?」
「あー……確かにこれは愉しいかもしれない」
「むぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
と。
『ぴりりりりりり ぴりりりりりり』
イズミのチュニックのポケットから携帯の着信音が鳴り響く。途端、イズミの表情がびっくりするくらいの速度で落ち着きを取り戻した。
「――ごめん由利也クン。ちょっと出てくる」
「あ、ああ……」
多分、今までの『照れ屋で、俺にからかわれっぱなしだったイズミ』も、演技などではないのだろう。電話に着信が入ったことで、切り替わったのだ。『普段のイズミ』から、『戦いに身を置くイズミ』に。着信を合図として。
思わず背筋が凍る。今まで見えていたものが、虚像であったかのような感覚に。
テレビに視線を戻す。『以上、日本最後の開かずの踏切からお送りしました。』
夕飯のオムライスを皿に盛りつけ終わったところで、ようやく電話を済ませたイズミが外から戻ってきた。
そうか。電話の相手に俺の家で暮らしていることがバレたら、色々とマズいことになる。だからイズミは隣の部屋でなく、わざわざ外に出ていた。
「今日、売店で制服のボタンを購入した男子生徒が一人いたそうよ」
「一人、か」
手元から上がるケチャップの濃い匂いが鼻を刺す。
「二年三組、丹羽 烈人。――テニス部よ」
「テニス部……!」
クラスの中でも一際目立っている、あの三人の顔が浮かぶ。“綿貫 麻実”の情報を聞いた時と同じ気持ちだ。
もし万が一そいつが“大人”だったとしたら、あの三人に危害が加わえられる可能性がある。それは……避けたい。
「明日、三年生の三人を経由して接触を始めようと思う。いい?」
「……っ」
唾を飲む。それじゃあ、俺たちがあの三人を巻き込むのと同じじゃないか。
「と言っても、私たちがテニス部の活動に関わるための口実になってもらうだけ。心配しないでも、彼女たちを巻き込むようなことは絶対にしないわ」
「ああ……わかってる」
バスケ部の時だって、角さんには少し辛い思いをさせてしまったけど、結局何か害を与えたわけじゃない。今回も、心配はしていない。俺はイズミのやることをただ信じ、サポートするのみだ。
「了解してくれたみたいね。――――それじゃ、ご飯食べよっかっ」
一呼吸を挟んだだけで、イズミはその緊張の糸を断ち切った。
「すごい由利也クン、こんなすごいの作れたんだ!」
ところどころ玉子が擦れたストッキングのようになってしまっている、俺の拙いオムライスを前に大喜びしてみせるイズミ。
その言葉の響きに、偽りの揺らぎは聞こえない。
「お待たせ。由利也クンの洗濯物は緑の方のカゴだからね」
シャワーを浴び終え、火照った体にTシャツとデニムのホットパンツという軽装をまとったイズミ。心なしか、自分でチョイスしたその刺激的な服装を恥じらっているような素振りを見せている。
その仕草に、偽りの翳りは無い。
「もう寝るね。由利也クンも、明日も今日みたいにちゃんと起きてよ? じゃ、おやすみ」
もうじき日付が変わるかという瀬戸際、隣の私室へと戻っていくイズミ。ドアノブを引き寄せた後、もう一度こちらを振り返り控えめに手を振る。少し恥じらいの混じった笑顔。
その瞳の奥に、偽りの色は見えない。
「くそっ……!」
電灯を消し、ベランダのガラス越しの街灯の光を受けながら、一人ベッドの中で藻掻く。
あれから何時間もの時間が経過した。夕飯を一緒に食べ、順番に浴室を使い、その後ソファーに並んで座りテレビを見ながら談笑した。
だっていうのに、俺の意識はずっと虚ろなままだった。
電話がかかってきた時の、イズミの豹変。それを目にしてから、俺は目の前のイズミの姿が霞んで見えるような錯覚を感じた。
『普段のイズミ』は、演技ではない。俺を騙しているのではない。根拠の無い直感ではあるが、俺にはそれが解っている。
なのに、信じられない。虚構にしか思えないのだ。
疑っているわけじゃない。受け入れられないだけだ。
『普段のイズミ』と『別のイズミ』が存在する。ただそれだけのことが。
思えば最初に出会ったイズミは『戦いに身を置くイズミ』だった。それから俺は『普段のイズミ』を知った。だったら、その二重の在り方に文句など付けられる立場に無いともいえる。
だけど、やっぱりダメなんだ。俺にはその在り方が、虚勢にしか思えないから。
俺はイズミを支える。俺は『普段のイズミ』に対し一人の異性として接し、『戦いに身を置くイズミ』の孤独を拭い去ってやることで、イズミの在り方の二重を取り除く。
できるだろうか、俺にそれが。
……わからない。だけど、そう身構えなくたって、俺が自然体でイズミの側に居てやれるだけでも、彼女は在り方を少しずつ変えていける。……そんな直感、楽観視、希望的観測。
もし俺にそれができたら、その時は俺も――――
――いや、いい。もう寝よう。言われたとおり、明日は早く起きよう。
少しでも多くの時間を、彼女と共有したいから。