――疑、まず初めに。
一時間目は件の国語。二時間目は忌々しい体育。
そしてその後に控えた三時間目が退屈極まりない世界史の時間であることを、学年が変わってから、今初めて知った。
壇上に立つお爺ちゃん先生の強烈に訛ったアクセントの西洋人名は、もはや魔術の呪言に等しい。到底それを真面目に聴く気にはならないので、眼前に広がる後頭部の群れをぼーっと眺めつつ、物思いに耽っているわけだ。
こうして俺が教室で寝ずに授業を受けているというのは、ひょっとすると何年ぶりとかいうほどの珍事かもしれない。先程からちらちらとこちらを振り返っては耳打ちをし合う某三人娘の姿が見えるのも、仕方ないといえる……かどうかは怪しいが。
寝ていないのは、まず第一に眠くないからだ。昨夜は普段に比べ早く床に就いたし、目覚めも大変すっきりしたものだったし。おまけに朝から許容量ちょい過多気味の運動を強要されたわけだから、いつものような眠気があるはずがない。
と、地味に冷や汗モノの出来事をついうっかり思い出してしまった。
第一があれば第二がある。俺が眠れない理由その二。それは今もこうして教室のあちこち(主に右斜め前)から注がれている視線。俺の心の平穏を見事に粉砕玉砕してくれたのは、もちろん――
「くしゅんっ」
「いずみちゃん、もしかして風邪引きさん? 今日は朝からずっとくしゃみしてるね~」
「んー……そうかも」
「えー、木戸。授業中に堂々と大声で後ろに話しかけない。立松も応じない」
というわけである。いや、イズミに全責任を押し付けるつもりはないのだが……主にダメージを受けたのは俺の方なので、それくらい言ってもバチは当たらないだろうと思う。
あの時俺はどうしても「イズミがいつバイクの免許を取得したのか」という野暮な疑問で頭がいっぱいになっていて――ちなみにその疑問に対しては、イズミからトンデモナイ応えを頂いた。トンデモナさすぎたので口外はできそうにない――、先のことなどまるで考えていなかったわけで。
……つまるところ。自転車を二人乗りしている所を登校中の生徒に目撃されまくったのである。
時間帯とタイミングがあまりに悪すぎた。遅刻ギリギリの時間というのは、同時に登校してくる生徒が一番多い時間でもある。
その群れの中に、偶然とある人物が居てしまったのだ。寝坊し、朝練を欠席したらしい、テニス部三年久留米 珠月が。
三度の飯より自他の色恋沙汰を好み、また飯の代わりに霞を食す仙人が如く他人の色恋沙汰を食って生きているとの噂まで立つ彼女(芳邦談)である。
何も知らない俺とイズミが暢気に二人揃って教室に入った時には、既にその目撃情報はクラス中に広められており、……地獄を見る羽目になった。
本気の殺意を込めた視線を投げつけてくる芳邦。HRを終始無言のまま執り行なった福住先生。三人とも揃いも揃ってニヤニヤ笑いを止めない、元凶・三人娘。名前を知らないような「ガリ勉組」の生徒からさえ睨みつけられる始末。
……嗚呼、俺の安息はいとも容易く絶えてしまった。
こうなれば、俺に残された道は一つ。
熱りが冷めるまでを耐え凌ぐことのできる、俺の唯一絶対の必殺奥義。それは。
重たい頭を上げ、壁に掛かった時計を見る。午後二時過ぎ。教室に生徒の姿は無い。
「やった……っ! 俺は勝った……っ!」
途中イズミに髪をくしゃくしゃと弄られたり、芳邦に旋毛を全力で指圧されたり、ケロちゃんに耳元で囁かれたり(おそらくはイズミの指示だろう)、角さんにおもいっきり首の皮を摘まれたりしたようが気がしないでもないが、俺はこうして放課後までを耐え切ってみせたのだ。やはり睡眠は世界を救う。これ真理なり。
「……ばか」
わりと力の篭ったチョップを後頭部に浴びせられる。
振り返ると、拗ねたような面持ちで立っていたのは全ての発端となった人物。
「ってぇ……。ちょっとは自分の筋力考えてくれませんかね」
「重々に考慮した末の調整だったんだけど、ご満足頂けなかったかしら?」
ぶんぶんと肩を回すイズミ。俺の目が寝ぼけているからだろうか、そこに残像が見えるのは。
「ごめんなさいイズミさん大変長らくお待たせいたしましたが名執 由利也只今起床いたしました」
「……よろしい」
イズミは腕を組んでから、鼻を鳴らした。満足気なそれではない。むしろ、最大まで溜め込んだ俺への不満を露にするような――――
「――――あ」
俺の腹がグウと鳴ったことで、ようやく彼女が怒っている理由に辿り着いた。
「あ、うぁ、えっと……! …………イズミ、ごめん、弁当……!!」
「いいよ。私もまだ食べてないから」
ぶすーっとむくれたイズミの姿。普段の脳天気な俺であればそれを可愛いとかなんとか言っていただろう。……実際可愛いのだから仕方ないのだけど。
俺は自分勝手からとんでもないことをしてしまった。イズミと目を合わせることさえ恐ろしい。
「由利也クン。私、本当に気にしてないから。顔、上げてよ」
少しばかり怒りの色が隠しきれていないが、俺を諭すようにイズミは言った。俺はおそるおそる顔を上げる。
目の前のイズミは静かに微笑んでいた。とはいえ、無理をしている感じは否めない。
「由利也クンは、皆の態度にちょっとびっくりしちゃっただけだよね? いかにもああいうのに慣れてなさそうだもの」
「それはそうだけど……」
だからといって、イズミが弁当を作ってくれたことも忘れて昼さえ――故意に――起きようとしなかったというのは、男としてあまりに論外な行動だ。
と、イズミは再び微笑みかけてくる。
「仕方ないよ。それに、あそこで一緒にお弁当食べてたらもっと面倒なことになってたと思う。ナイス判断だよ、由利也クン。減点込みで55点、かな」
「あ、う……」
言葉に詰まる。いくら他人に赦してもらえても、自分自身が許せない。その優しさにほいほい乗ってしまいそうになり、自己嫌悪からまた自分が許せなくなる。それでいい。正しい負の連鎖だ。
「……本当に、ごめん」
「私はもう、赦してるよ。――――さ、早く食べよ。私もうお腹ぺこぺこだわ。ほーら、そんな辛気臭い顔しないで。落ち込んだままじゃ私の作ったご飯なんて絶対美味しくなんかないんだから」
そう言ってイズミが赤黒二つの弁当箱を机の上に置く。数時間ぶりに再会したその小ぶりの重箱じみた弁当箱からは、まだ微かに今朝と同じ良い匂いが漂っていた。
「由利也クンが寝てるうちに、“例の用務員”と会ってきたわ」
弁当箱と同じく、漆塗りかのように艶やかに光る赤い箸で卵焼きをつまみながら、イズミが言う。
「用務員……」
“例の用務員”。俺はそれが誰なのか知らされていないが、そいつはこの学校に唯一忍び込んでいるという“彼ら”の一員らしい。イズミと“彼ら”を繋ぐ二本のパイプのうちの一つである。
アスパラガスのベーコン巻きを、刺された楊枝を持って口に運ぶ。うん、すごく美味い。
「朝――これも由利也クンが寝てる間ね――調査を頼んでおいたの」
「調査?」
それらしいことについて何か聞かされた覚えはない。
「まずは綿貫 麻実の件から、『冷蔵庫を所持している部活動は他にいくつあるか』。それと、『全校の男子のうち、ボタンの取れた学ランを着た生徒は何人いるか』」
「……? なんだ、それ」
前者はもちろん理解できる。だが、後者の意味がまるでわからない。
「……ごめんね、後発情報で。今朝思い出したんだけど、私を襲った『学ランの“大人”』の上着には、ボタンが一つ足りなかったの。いつ外れたのかはわからないけど、確かにそいつがボタンの一つ足りない学ランを着ている姿をはっきり記憶してるわ。暗がりの中でどこかからの光をボタンだけが反射して見えたから間違いない。そしてそれがこの学校のものであることも、ね」
自分の胸元を見る。そこに付けられた金色をしたボタン。そこには古宮高校の校章の意匠が刻まれている。モチーフ不明の独特な文様である校章は、近くで見たというのなら他の学校の校章と見間違えることはまず無いだろう。
「それで、調査結果は?」
俺が急かすと、イズミは溜息を付き、
「両方とも、ゼロよ」
苦々しげにそう告げた。