――由、you&i。
「……あれ? もしかして、叔母さんもう帰っちゃった?」
寝惚け眼のイズミがむにゃむにゃ言いながら体を起こす。
時刻はもう夕方六時を回り、四方の壁には蛍光灯の白い明かりとオレンジの夕日が混ざり合って、独特の色合いを描き出している。
「ああ。イズミによろしくとさ」
まあ、好意的に取ればそんなようなことを言っていた……はず。
「そっか。……うーん、お客様が来てる前で寝ちゃうなんて。ダメダメだなぁ、私……」
「お客様……」
なんというか、こういう仔猫じみたふてぶてしさを可愛らしいと思ってしまう俺の、なんと駄目人間なことよ。
「って、もうこんな時間? 由利也クン、ご飯どうしよう?」
壁にかかった時計を見るなり、ぐきゅるると腹の虫を鳴かせたイズミが、顔をほんのり赤く染めながらあたふたしている。
……本当に、俺は正気を保っていられるのだろうか。先が思いやられる。
「寝てる間に作っておいたよ。あんまり時間なかったから何の捻りも無いカレーだけど、いいか?」
「あ、ほんと? ありがと、由利也クン」
実のところ、カレーなんてまともな食事にありつけるのは、今俺の目の前で満面の笑みを浮かべているパジャマ姿の女の子が炊飯ジャーのセットをしてくれたからだったりする。
もしご飯がなければ、せいぜいミートスパが関の山。ひょっとしたら菓子パンが夕食になっていたかもしれない。
「そういえばイズミ、昼は食べたのか?」
あんなに時間がかかるものと思っていなかったとはいえ、完全にほったらかしにしてしまったわけで。
「ん、チョコスティックパンを何本かいただきました」
「オーケー、それならよし」
再びどこかでぐきゅると虫が鳴いたけど、気にしないことにしよう。さて、夕飯だ。
この部屋――二○五号室の居間/食堂は、俺の部屋にある。そういうわけで、食事をする際はこうして二人がこっちの部屋に集うことになる。
ちなみに隣の部屋は完全にただの個室だ。今までは三佳さんの、これからはイズミの。
「これ、美味しい! 由利也クンが作ったの?」
「作ったというか……残念ながらただのパックのルー。一番メジャーなアレの、緑のパッケージのやつだよ」
テレビからは、ゴールデンタイムに入る前のニュース番組の天気予報が流れている。どうやら、これからしばらくは晴れ間が続くとのこと。
「緑って中辛でしょ? 嘘、うちで作るより全然美味しいよ。何か隠し味とか入れてない?」
「あー」
そっか、それか。うちでは入れるのが当たり前すぎて、もはや隠し味だとは思っていないのだけど。
ちなみに、黒とか白とかピンクとか色々ある内の、白と黒がくっついたやつを使うのがうちでの定番となっている。
「何、その微妙な反応!? なになに、何入れてるの?」
「んー、面白そうだから試しに黙っとこうかな」
「むぅぅ~……イジワル」
いつにも増して会話が弾む。いつもよりいくらか幼くみえるイズミが本当に楽しそうにしているので、釣られて俺もすごく楽しくなってくる。
そして思った。もしかしたら、イズミも普段家では独りで食事していたんじゃないかって。
「ねえ、当番とか決めようよ」
皿上のカレーライスを三分の一くらいまでに減らしたイズミが言う。
「当番……料理とか洗濯とかか?」
「せ、洗濯は任せられないけど……。料理以外にも、ゴミ出しとかさ」
「ゴミ出し……は、その時々で適当にやればいいんじゃないかな。料理以外に何かあるか?」
「んー……掃除はそれぞれ自分の部屋をやればいいよね。二人とも学校だからそんなに汚れもしないだろうし……。そしたらやっぱり料理だけだね、朝と夜」
「だな。イズミは朝ちゃんと食べる方?」
「ぇ? んーと……食べはするけど、トーストとかコーンフレークで済ましちゃうかな」
「俺も朝はそんな感じかな。菓子パンとか。それなら料理も夜だけで足りそうだなあ」
「あ、あのさ、由利也クン。ちょっと提案があるんだけど……」
「ん? どした?」
「夜ご飯は由利也クンが作ってくれない? 私は、その……昼、作るから」
「昼?」
「だから、その……お弁当」
「……へ?」
「だ、だってさ、うちの学校食堂なんて無いじゃない。毎日買って食べるつもり?」
「今まではほとんどそうしてたけど……」
「だめだよそんなの、うん! だからさ、私が……その……由利也クンの分まで作ってあげる。……ダメかな?」
「…………」
「うぅ……ダメ?」
「……ごめん、あまりにも驚いて心がどっか行ってた」
「もう!」
そんなこんなで食事当番が決定。その後は二人ともほぼ同時に食べ終わり、こうして使った皿を洗っている。話し合った結果、食器はその都度二人で洗うということになった。しかしまあ、流し台が狭いため、頻繁にイズミの肩が俺の体に触れ、その度に俺は心臓を高鳴らせているという前途多難な状況である。
それからしばらく。さああ、と風呂場から水音がする。イズミがシャワーを浴びているのだ。
ちなみに入浴の順番についても話し合ったのだが、お互い照れ合い譲り合いで埒があかず、今日のところはなんとかイズミに先に入ってもらえることになった。またしても先が思いやられる。
浴室でシャワーを浴びているイズミのことを考える。……ああ、いやらしい意味でなく。
今までもわりかし親しくやってきたつもりだったが、理由はどうあれやはり同棲するともなると照れが生じると同時に一気に打ち解けることができた気がするのは、はたして単なる俺の思い違いだろうか?
夕飯の時の楽しそうな笑顔は、今に到るまでのどの瞬間よりも無邪気で輝いていた。風呂の順番について話あった時は、俺がイズミの家族であると認められたような錯覚すら感じた。
だからだろうか。イズミと姉さんが重なって見えるのは。
姉さんの、甘え症でいつも俺にベタベタくっついてきたところとイズミの無邪気さが似通っているのかもしれない。……単に俺が女性と接し慣れていないからというのもありえなくはない話だ。
何にせよ、姉さんとイズミはどこか似ている。俺が小学生だった時――中学・高校生だった頃の姉さんに。
「由利也くーん、バスタオルどこー?」
浴室からくぐもった声が聞こえてくる。
「あ、悪い。脱衣所の棚の上だー」
「ありがとー」
数メートル越し、そしてガラス戸越しの声を張り上げての会話。イズミがもうすぐ上がるみたいだし、俺もそろそろ風呂の準備をしよう。
と、ふとあることを考えてしまう。タオルを探しているということは、イズミは今脱衣所で一糸まとわぬ姿で立っているというわけで。……いかん。それはマズい。つい想像してしまったイズミのその姿は、背丈のせいもあって極めて犯罪的であった。
「あれ? どしたの由利也クン、顔真っ赤にして」
脱衣所から出てきたイズミ。黒いキャミソール(下着ではなさそうだ)を着て、下はスウェット地のハーフパンツを穿いている。
「ナ、ナンデモナイデスヨ?」
ベタすぎるくらいにカチコチになってしまう俺。本当に情けない。ごめんなさいマジで。
……はぁ。常にこんな状況下に置かれていたら、いつか本当におかしくなってしまいそうだ。
シャワーを浴び終え、居間でソファーに座ってテレビを観ているイズミに合流する。
「あれ、早かったね。カラス?」
「まあ、カラス。髪も切ったばっかだしさ」
イズミの隣に腰を下ろす。
目の前のテレビの画面には見覚えのある俳優が何人も映っている。そうか、もうドラマをやるような時間か。ちなみに内容はさっぱりだ。暗い屋内のシーンばかりで何がなにやら。
「イズミ。明日から、どうする?」
「明日からって、学校?」
「それも含めて全部。結局、“大人”に関するヒントは得られたのか?」
んー、と唸るイズミ。テレビの中の俳優が激昂しているようなので、傍らに置かれていたリモコンで音量を数段階下げる。
「襲われたことは、仕方ないから“彼”に報告したわ。無事を祝われたけど、情報は特に無し。これはもしかしたら地道に情報収集するところから始めなきゃならないかもね……」
「そうか……」
俺とイズミが、ヤツらが行動を起こすのではと睨んでいる体育祭まで、もう一週間を切っている。地道に割り出していくにはあまり時間に余裕が無い。はっきり言ってしまえば、“彼ら”の情報頼みということになる。
「具体的にどう行動していくかは、明日の放課後までに考えておくわ」
イズミの言動の影には、「それまでに情報の提供があれば……」という淡い期待を感じる。それも仕方ないと思う。なにせ手がかりは先週見つかった僅かなEPDの欠片だけなのだから。
「それじゃ、私そろそろ寝るね」
「え、……もう?」
まだ午後十時を過ぎたばかりだ。イズミはわりと早寝するタイプなのだろうか。俺は知らない。そういえば、食事だとか睡眠だとかいう生理的な話題を深く話し込んだのって、今日が初めてかもしれない。
「うん。なんだかまだ本調子じゃなくて、横になってた方が少し楽なんだ。……ごめんね、ほんとは由利也クンともっとお話していたいんだけど」
「いやいや。話ならいつでもできるし、辛いなら早く寝た方がいいさ」
「……ん。ありがと」
イズミはすくりと立ち上がり、壁のドアを通って隣の部屋へと消えていった。
残された俺は特にすることもなくなってしまい、無造作にチャンネルを回し適当なニュース番組に合わせる。
『まずはプロ野球です。東北――』微塵も興味の沸かないスポーツニュースをぼんやりと眺める。
イズミがこの部屋を去ってから、気付く。壁一枚ってのは、存外分厚く感じるものなのだと。
『本日、サッカー日本代表が南米の強国――』クラッカーをつまみながら、徒然にテレビを流し見し続ける。手元にあてる酒は無い。当たり前だ、俺はまだ未成年なのだから。……イズミはどうなんだろう?
そうして思考を彼女に傾けた矢先、
「由利也く~ん……」
壁の向こうから微かに俺を呼ぶ声が聞こえてきた。あまりの興味の無さからスポーツニュースの音量を下げていなかったら、その声は聞こえなかったかもしれない。そして、ついにリモコンでその息の根を止めてやった。
ドアをノックする。「どうぞー」と、時間帯の割に元気な声。……寝るんじゃなかったのか?
「ごめん由利也クン、忙しかった?」
夕方と同じように毛布に包まって頭を枕に乗せ、やや細長いロールキャベツのようにベッドの上に転がっているイズミ。
「忙しいわけがないけど……どうした、何かあったのか?」
すると、まるで眠くなさそうなぱっちりと冴えた目を輝かせ、
「……眠れなくてっ」
照れ笑い。語尾に星マークが付いてそうなくらい声を弾ませて言うようなことか、それ?
「……電気点けっぱなしだからじゃないのか」
俺が天井に取り付けられたシーリングライトから伸びた紐を掴もうとすると、
「あっ、ち、ちがうってば! それが原因じゃない、よ! ……たぶん」
毛布から飛び出てベッドの上をぴょんぴょこ飛び回り始めた。到底そうは見えないが、もしかしたら天井に手を伸ばそうとしているのかもしれない。
「じゃあ何だ、また……その……一緒に布団に入れとでも言うのか」
と、イズミの体が一瞬ぴくりと跳ね、それからぺたとベッドの上に座り込んだ。
「…………由利也クンがどうしてもそうしたいって言うなら……」
もじもじと体を縮ませ顔を紅潮させるイズミ。
「ま、待て! 『どうしても』とも『そうしたい』とも一言も言ってない! 早まるな!」
「ぇ? そう? …………………………………………………………残念」
「……何か言ったか?」
「ううん、何も」
本気で過ちを犯しかねんので、人の純情を徒に弄ぶのはやめていただきたいものだ。
「――で。結局俺にどうしろと?」
生憎俺は幼少期の記憶が無いため、子守唄なんぞ歌えないのだが。
「私……由利也クンのお話が聞きたいな」
「……俺の話?」
「そ。由利也クンのお話」
言い方からすると、会話をするという意味ではなく、所謂ストーリーテリングをしろと言っているようだ。
「……ええと、どんな?」
「んー。じゃあ、今日由利也クンの叔母さんが言ってた話が聞きたいかな」
三佳さんが言ってた話? あの人はただ終始俺をからかっていただけな気がしたが……。
「『女に騙されて酷い目にあった話』」
「ぶっ!!」
思わず、何も含んでいないはずの口からナニカを噴き出してしまう。
「……イズミって意外と悪趣味?」
「ち、違う、違うわよ違います! ……だから、その出来事のせいで私を……、……って言うから……」
「え? ごめん、聞き取れなかった」
「もうっ。それは置いといて、単に興味があるだけ。人に聞かせられないほど恥ずかしい話なの?」
「そこまで恥ずかしくはないはないけど……」
少々、後味の悪い話ではある。
「ならいいじゃない。ね、いいでしょ?」
「いいんだけど、本当につまらない話だぞ?」
「いいから、いいからっ」
少なくとも、ベッドの上であぐらをかいたまま、そわそわと胸を踊らせているイズミを満足させてやれるほどの話では絶対にないと断言できる。まあ、聞き手本人が望むのなら俺は別に構わないのだが。
「さて、どこから話せばいいかな……」
回顧、十六歳の夏。
加納 沙耶香。
順風満帆の俺の充実高校生活を完膚なきまでにぶち壊してくれた、あの女のことを想う。