――由、you&us。
「三佳さん!? どうしてここに?」
「どうしてって……ここはまだ一応私の部屋だろう」
お見合いをしていても埒があかないとみたのか、三佳さんは部屋に上がりこみ、上着を脱いで壁のハンガーに掛けた。
「それに、アンタには言ってあったはずだろ? 今度、置き忘れたモノを取りにここへ来ると」
「へ? いつですか?」
昼に会った時にはもちろんそんなことは言っていなかったし、最後に電話で話をした――つまり昨日にも、やはりそれらしきことは言っていなかったと思う。
「さて、いつだったかな。まあ、アンタが忘れているだけで私は確かに伝えたよ」
コキコキと音を立てながら首や手首、肩などの関節をほぐすストレッチをしている三佳さん。図書館司書というのは相当体に悪い仕事のようだ。
「あ……えっと……」
三佳さんに挨拶をしようとするも、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせているだけに終わっているイズミ。
「ふむ。君がコイツの彼女さんか。自惚れ屋で人を小馬鹿にするのが趣味なイヤな男だが、それでもよかったら仲良くしてやってくれ」
「な……っ!?」
「由利也クンはそんなんじゃありません!」
「えっ?」
驚いた直後に、続けてまた驚く羽目になった。イズミが初対面の三佳さんの軽いジョークに対して本気で突っかかってみせたからだ。普段余裕綽々を装っているイズミからは想像できないような剣幕。
「あ……ご、ごめんなさい。私……」
「いやいや構わんよ。そうか、君は相当この男にお熱のようだね」
次いで邪気の無い含み笑い。あるいは本当に嬉しいのかもしれない。俺のそばに女性がいる、ということが。
……だけど。
「三佳さん、俺とイズミはそういう関係じゃ――」
「ほぉら、またそうやって誤魔化す。ええと、君。名前は?」
「た……イズミです」
立松、と言いかけて止めた。学校で名乗らなくてはならない場合以外は極力「立松」とは名乗りたくないのかもしれない。
もっとも、元立松電器本社商品開発部企画課課長の三佳さんに向かって「立松」を名乗ってしまっていたら、色々と面倒なことになっていた可能性がある。今回はグッジョブだ。
「イズミちゃん。コイツはそういう男なんだ。何か不都合なことが起こったら、二度目が起きないように神経質になる。女にも一度騙されて痛い目にあったことがあってね。君を頑なに彼女だと認めようとしないのも、多分それじゃないかと思うね」
「なるほど……」
「って、本人が居る前で勝手に精神分析するのやめてくれませんか」
「当たっているのだから文句は無いだろう?」
くく、と笑う三佳さん。……やれやれ。この人とまともに言い合いをするのは、はっきり言ってただの時間の無駄だと思う。
「それで三佳さん。この部屋に置き忘れた物って何なんですか?」
すっかりくつろぎモードで床に座り込み、今にも煙草に火を点けようとしている三佳さんに問う。
「ん。そうか、そういえばそれが目的だったか」
三佳さんは身構えた状態では社会人としても一人の大人の女性としても非の打ち所のない完璧な人間なのだが、一旦気が緩むとそこは名執家の人間。……まあ、お察しのとおりということだ。
ちなみに姉さん――名執 亜依も三佳さんに似たタイプだった。ああいうスイッチのオンオフがはっきりしている人が教師になっていたら、さぞかし有能かつ生徒に好かれる理想の先生になれていたことだろう。
……何故かここで、現担任――福住 梓先生の顔が浮かぶ。いやいや! あの人はいつもいっぱいいっぱい過ぎて、見ているこっちがハラハラしてしまうような、駄目ではないが残念な教師じゃないか?
と、三佳さんがベッドのイズミをちらりと見てから、小声で言う。
「――――泊めたね?」
ビクリと、背筋が跳ね上がる。
「いやいや、いいんだいいんだ。むしろそういうことは若いうちに色々と経験しておくべきとも言うしね」
「ち、違いますって!! 神に誓ってそんなことはしてません!!」
「いちいち大声を上げるな。彼女、起きちまうぞ?」
ベッドでは、毛布に包まったイズミがすぅすぅと穏やかな寝息を立てている。やはり体力はまだ十分に回復できていなかったらしい。俺と三佳さんがしばらく言葉の売り買いを繰り広げているうちに、彼女は一人、くたりと静かに眠りへと落ちていった。
「俺を刺激するようなことを言った三佳さんが悪いんじゃないですか」
「はは、相変わらずの傲慢だ。彼女の前ではそんなんじゃないんだろう?」
「だから――!」
「はいはい、悪かったよ。……で、だ。もしかして、彼女をここに住まわせる気なのか?」
……っ!
「どうして、さっきから――」
「そんなことが判るのかって? そりゃ、あんな荷物が置いてあるからに決まっているだろう」
三佳さんが、咥えた煙草(未点火)で部屋の隅を差す。そこにはイズミが持ち込んだ赤い大きなボストンバッグが置かれて……いや、無惨にとっ散らかされているというのが正しい。開け放たれたチャックからは、黒いレースの下着がだらしなく頭を垂れている。
「……あー」
「アンタの彼女さんもなかなか面白い人間みたいだな、くく」
含み笑いだったはずのものが、咥えた煙草のせいで漏れ出してしまっている。
「まあ、私は構わんよ。今更アンタとまた同棲を始めるということも無いだろう。叔母と彼女なら、彼女と住む方が良いに決まっているよな、くく」
「……煙草、火点けないなら一旦離したらどうですか?」
彼女との同棲だとか如何わしい言い方をされるのはどうでもいいとして、狙われているイズミを匿う場所としてこの部屋を使わせてもらえるというのなら、それは俺たちにとって非常に都合の良い話だ。……断られたら、狭っ苦しい俺の部屋で二人で暮らさなければならないところだったと思うと、心臓が潰れそうになる。
「それで。俺がイズミをここに泊めてると思ったからここに来たんですか? いつからESPになったんだあなたは」
「ああ、悪い。まーた話題が飛んでしまったな」
咥えていた煙草(いまだ未点火)を、二本の指でくるくると回してみせる三佳さん。気が抜けていても無意味に器用なものだから、いちいちコンプレックスを抱かざるを得ない。
「写真をとりに来たんだ」
「写真を撮りに……?」
「おっと、撮影じゃないぞ。奪取しに来たんだ、この部屋から」
「……はあ」
……もっと良い言い回しはなかったのだろうか。普段の三佳さんなら、洒落た感じで英訳でもしてみせたことだろう。もしかしたら仏語訳や独語訳かもしれない。
「この部屋に写真立てが無かったか? それに入ってるはずなんだが……」
「写真立て……鏡台じゃないですか? もしくは棚……」
「お、あったあった。ちょいと、それ取ってくれないか」
俺が言い終える前に、三佳さんは既に鏡台の隅に置かれていた写真立てを発見していた。つまりは、俺に尋ねる前から大方の予想はついていたということだ。もっとも、普段の三佳さんであれば俺に尋ねるまでもなく……って、いい加減ベタ褒めするのはやめようか。
写真立てに収められているのは、三佳さんが前の勤め先の社員旅行で香港に行った際の写真のようだ。中央に写っている体格は良いのに痩せぎすの男……もしかしてこの人がイズミのお義父さんである、社長の立松 洋三だろうか?
「……あー、あー。そっちの写真はどうでもいいんだ」
俺の手元から半ば強引に写真立てを奪取する三佳さん。と、裏側のカバーを外し、中から写真を取り出す――――二枚。
「ほら。こっちが私の宝物だ」
手渡されたのは、二人の女子高生が写った写真。もちろんカラー写真だが、少し古ぼけて色褪せている。
女子高生は二人とも見覚えのある黒いセーラー服を着込み、うち一人は何か黒い筒のような物を抱えている。これって……。
「高校の卒業式の時の写真だ。覚えてないか? この時のこと」
「……いや、さっぱり」
それを聞き、ふっ、と静かに笑う三佳さん。
「まあ無理もないさ。この時キミはまだ三歳の赤ん坊だからね」
「それじゃあさすがに憶えているはずないですね。俺、はっきりとした記憶があるの四歳の頃からですし」
恐ろしいことに、三歳以前の記憶は一片足りとも残っていないのだ。まるで、四歳の時に俺が生まれたかのように。
「そうか……。この写真は姉貴――キミのお母さんが撮ってくれたものでね。その隣にはキミのお姉さんが居たんだよ。当時九歳かそこらだったはずだ。その割にはしっかりした子だったね」
当時のことをありありと思い出せるらしい三佳さんに、俺は嫉妬した。俺もその場に居たと彼女は言うのに、まるでその実感を持てないことが、もどかしく悔しい。
「二人のうち、もちろん卒業証書を持っている方が私だ。それで、もう一人の方――」
背丈は三佳さん(当時)と同じくらい。黒い髪をおさげにした、大人しそうな女の子だ。その表情は紛れもなく笑顔なのだけれど、その奥にはどこか悲しげな感情が見て取れる。卒業証書を持っていないということは、つまり。
「私の二個下の後輩だ。そいつが、昼に話した鳴瀬 斗環子だよ」
のちに桜塚の教員になったという、現在身元の知れない後輩。
「自分で言うのもなんだが、私らは本当に仲が良くてね。ただの先輩後輩には収まっていなかったと言っても過言ではないな」
三佳さんが、彼女にしては珍しい照れ笑いのようなものを浮かべる。
この写真に写った鳴瀬 斗環子の笑顔の裏の物哀しさは、先輩を見送ることへの寂しさから来るものなのだろうか。
「私と鳴瀬――斗環子が高校時代に住んでいたのが、他でもないこのアパートの、この部屋、そして隣の部屋なんだよ」
「この、へんちくりんな構造の二部屋に?」
このアパートは見た目もただのボロ屋だし、家賃も普通、設備も普通の至って平凡なアパートなのだが、一つだけ変わった点がある。
それが二○五号室――つまりこの部屋だ。正確にはこの部屋(二○六号室)と隣の部屋(二○五号室)を合わせた二部屋。本来別々なはずの二部屋が、壁に設けられたドアを通じて繋がり、一つの部屋と化しているのだ。
「む。へんちくりん言うな。私が頼み込んで工事してもらったんだぞ」
「……は?」
「だから、私が後輩と一緒にこのアパートに住むにあたって、大家に頼んで部屋をくっつけてもらったのだと言ってるんだ」
突拍子も無い話。それを三佳さんはさも当然のように話してみせる。……当たり前だ。だってそれは、彼女が実際に行ったことなのだから。
「他にも色々と当時の名残はあるぞ。例えば、今キミの彼女が寝ているベッド。あのダブルベッドだ。あれは私が斗環子と遊ぶために買ったものを、マットレスだけを換えながら私が長年使い続けてきたもので、あとあの鏡台は――」
「……いや、もうお腹いっぱいです」
……ダブルベッドで遊ぶって、何だ? つまりそーゆー関係だったというのか? 「ただの先輩後輩に収まらなかった」って、そーゆーことなのか!?
「む。そうか。まあ、そんなこんなでこの部屋の家賃は一部屋分だ。つまり今も満額払い続けているということになる。存分に使ってくれ」
「いや、ちょっと待った。三佳さんあんた何か今不穏なことを言わなかったか?」
「ん? 家賃のことか? さっきも言ったとおりここの大家と私は顔見知りだから、遠慮することはない」
……んー。しかしここの大家さんは二十年近くもの間、三佳さんのせいで損をし続けているということなのでは?
ま、いっか。
「さて。写真も取り返したことだし、そろそろ私も帰ることにしよう。若い二人の時間を侵す権利は、私には無いからな」
何やら詩的な言い回しで誤魔化しているが、要するにまた俺をからかっているだけだ。
「それにしても、あのダブルベッドもついに世代交代の時が来たか……。もしキミのお姉さんにパートナーができたら譲ってやるつもりだったのだがなあ」
「……そーゆー如何わしいジンクス憑きのモンだったのか、あのベッド」
そして、姉さんに「パートナー」と、さりげなく広い表現を使うのはやめてくれ。あんたの話のせいで如何わしい想像をしてしまうから。
「……こうやって、色々なものが次の世代へと受け継がれていくんだな」
ノスタルジーに浸りたいと言わんばかりに、惜しげに部屋全体を見回す。そして、粗方見回した後、手に持っていた煙草を床に置かれたゴミ箱へと放り投げた。
「邪魔したね。それじゃ、元気で」
「三佳さんこそ。用があったら、いつでも気軽に電話してください」
仕事のことで三佳さんが悩んでいた時、家族であるはずの俺は彼女を助けてあげられなかった。今も後輩――鳴瀬 斗環子の行方の問題に悩まされているようだし、今度こそは力になってあげたいと思う。
「ありがとう、キミは本当に私の救いだよ」
――ばたん。
と、玄関のドアが閉まり、
――がちゃり。
と、鍵が閉められた。
「ん……ぅ……」
毛布に包まってミノムシじみた格好をしているイズミが微かに唸る。もうじき目を覚ますのかもしれない。
先ほどの三佳さんをなぞるように、部屋中を見回す。
台所が取っ払われた分隣よりも幾分広い室内。古ぼけた鏡台、多分元・化粧台。小説や漫画や専門書……十色のジャンルの本が詰められた本棚。その隣には小物や、何故かボトルシップなんかが置かれた棚。芋虫が転がっているダブルサイズの木のベッド。そして、壁に取り付けられた、ぼろぼろのドア。
俺の記憶の中で「三佳さんの部屋」だったこの部屋が、たった今「イズミの部屋」となろうとしている。
それは一時的なものかもしれない。だが、さっきの三佳さんの訪問は確かにその引き継ぎの儀として機能した。俺にとっても、彼女たち二人にとっても。
次にイズミが目を覚ました時から、改めて俺たちの同棲生活が始まる。
それまでは……と、名残を惜しむ。
ゴミ箱に捨てられた一本の煙草。薄いピンクの口紅が僅かに残されたその煙草に、とうとう火が灯ることはなかった。




