――虚、「だから何も……」。
密閉された「本の空間」とも言うべき図書館の室内に、副流煙の場違いな濁った臭いが漂う。
「あの、三佳さん。こんな所でタバコはやめません?」
「ん……もうちょい」
頬杖を付いて咥えた煙草から煙を垂れ流している三佳さんが、目線を逸らしたまま応える。
デスクの上、右肘の辺りにはステンレスの灰皿が置かれている。……どうして図書館に灰皿があるのか。
「まさかアンタが図書館に調べ物しにくるような真面目クンだとは思わんかったよ」
「はぁ、そっすか」
おざなりに応える。
親代わりとも言える叔母のあられもない姿を眼前にすると、どうしていいものかわからなくなってしまう。
「――さて」
三佳さんが煙草の先を灰皿にグリグリと押し付ける。
「見ての通りだ」
薄い茶色の瞳が真っ直ぐに俺の目を見つめてくる。
「見ての通りって……」
「立松電器で働いていると言ったな。あれは嘘だ」
「いやいや、嘘ってことはないでしょう。俺、職場に電話したことも……」
「わからないヤツだな。とっくに辞職したと言ってるんだ」
苛立たしげに、とうに火の消えた煙草を折れ曲がるまで擦り付けている。
「辞職?」
「ああ。クビだと言われる前に辞表を出した。アンタにもわかるだろう? 病人の看病をしながらあんな多忙な会社で働けると思うか? 『毎日昼には退社させてください』が通用すると思うか? ……まあ、そういうことだ」
そう捲し立て、三佳さんはL字に変形した煙草を口惜しげに見つめ始めた。
「『そういうことだ』じゃないです。どうして何も相談してくれなかったんですか」
「アンタが絶交のような物腰を見せていたからじゃないか」
「う……」
何も言い返せない。実のところ、別居を初めてすぐの頃には三佳さんからかかってきた電話を無視したことさえあったからだ。
「仕事を辞めてから、もう随分とここで働いている。とあるコネで、資格やら審査というものを誤魔化して働かせてもらっているものだから、あまり口外はしていただかないでもらいたいね」
「…………」
そう言われても、困る。
「それで、何の用だって?」
「え、ああ。古い新聞を読ませてもらいたいんですけど、ここにあります?」
「古い……? どの程度?」
「四年前です。四年前の、五月」
それを聞いて、三佳さんは微かに眉をひそめた。
「――なるほどね。ああ、あるよ。ちょっと待ってな」
図書館の奥へと消えていく三佳さん。白いシャツに黒のタイトスカートというその格好は、OLとして働いていた時と何一つ変わらない後ろ姿をしていた。
「お待ちどう。これでいいか?」
デスクに、累々とモノクロの紙の束が積まれる。全国紙から、地域の回覧板じみたものまで。日付は全て四年前の五月十六日~二十四日。つまり、そういうことだ。
「面白いものに興味を持ったな。叔母さんも一緒に見ていいか?」
冷ややかな目で見つめられる。「四年前の五月」。それだけで、伝わらないはずがないのだ。
「えっと……」
たじろぐ。まったく、こんなつもりじゃなかったのにな。
はぁ、と溜息を吐き、眉間を右手の二本の指で弄りながら三佳さんが語り出す。
「最初に言っておくがね。そんなものに真実なんざ書かれていないぞ」
「え?」
「……何でもない。ああ、さっきのは冗談だよ。そんなものでよかったら、どうぞお好きに穴の開くまで読んでいってくれ。無論、独りでさ」
席を立ち、再びカウンターの奥へと消えていこうとする三佳さん。
と、立ち止まってこちらを振り向き、俺に言う。
「私だって、何も知らないからな」
そうして自嘲的で悲しげな笑みを残し、去って行った。
本棚に囲まれた低いテーブルで新聞の束を崩す。
姉の事故は、いくつかの新聞に記事として書かれていた。
とはいえ扱っていない新聞も多く見られ、載っていたとしても中程の片隅に簡潔に概要だけが書かれているだけというのが大半という始末。
事件の概要はこうだ。
五月十五日夜、当時大学生だった名執 亜依が教育実習で訪れていた高校の校門を出た際、偶然通りかかったバイクが彼女をはねた。彼女はその後、翌早朝に遺体となって発見された。検死の結果、未明に死亡したことが判明。
バイクを運転していた人間はそのまま半壊のバイクに乗り逃走。翌日夕麻川の土手にて乗り捨てられたバイクが発見される。指紋等、犯人の痕跡を思わせるものは残されていなかった。
以上。
「――――ふっ……ざけんなっ……! こんな馬鹿げた“事故”があるかっ……!!」
どこの新聞社も、文章の細かな違いはあれど伝えている内容はほとんど同じ。
はっきり言って酷過ぎだ。
隠蔽にしても、こんなおざなりな記事で姉の死が誤魔化されてしまったということに、行き場のない怒りを覚える。
新聞の束をめくる。めくれどめくれど、続報は一切見当たらない。唯一見つかったのは、事故があった高校の校門に植えられていた木が事故のダメージを受けていたためどこかへ移植されたという、区が発行している新聞に載せられたちっぽけな記事。それ以外に“事故”に関連するような記事は一つとして無かった。
「そういうわけさ。アンタの姉の死は単なる交通事故だったらしい」
コーヒーの入ったマグカップが二つ、テーブルに置かれる。
「……三佳さん」
「私だって、最初は疑ったよ。だけどね、現場を見た人誰に聞いても交通事故だったって言うんだよ。警察も、学校の関係者も」
そんなの、信じられるわけがない。
「三佳さんは……それで納得したんですか」
「納得、か……。私は、初めから納得していたのかもしれないな。ただ、負い目があったからそれを誤魔化したかったのだろう。キミの姉にあそこを勧めたのは私だからな。教育学部生は原則母校に実習に行くらしい」
「そんなの、全っ然関係無いじゃないですか。三佳さんも、あの学校に通っていたならわかるでしょう? ――――あそこで、交通事故なんか起こるはずが無い!」
コーヒーを啜る三佳さん。閉じられた瞼はどこか物哀しげだ。
「行ったこと、あるのか。桜塚に」
「……今日、行ってきました。山の上に学校だけが立っている。そんな場所にバイクが偶然通りかかるなんて、ありえると思いますか?」
「職員や生徒だったかもしれない」
「それなら犯人は一瞬で割り出せるでしょう!」
「……さあ、どうだかね」
啜る。
「三佳さん!」
カップがテーブルに置かれ、三佳さんが俺の顔をじっと見つめてくる。
「――とにかく。私は何も知らないし、知る術も持っていない。だから交通事故だったと納得している。……それを疑うのなら、他を当たってくれ」
「……わかりました」
引くしかない。こうなれば後は体力の回復を待って直接イズミを問い詰めてみるまでだ。
「新聞、探してきてくださってありがとうございました。失礼します」
席を立つ。と、
「待て待て。これをまた私独りで片付けろというのか? 薄情な男だなアンタは」
引き留めを食らう。そりゃそうか。
「手伝います。それならまずコーヒーから頂くことにしますね」
「そうしてくれ。せっかく淹れたのに手付かずで返されるのは悲しいもんだ」
再び椅子に座り、カップのコーヒーを啜る。
……苦い。
「これ、ブラックじゃないですか」
「何か入れた方が良かったか?」
「うーん……。どうせならエスプレッソとかカプチーノとか、俺が好きなの淹れてくれればいいのに」
俺の返答を聞き、三佳さんが笑う。
「可笑しいヤツだな、キミも。図書館でカプチーノを頼むか。そもそも図書館にコーヒーメーカーやら灰皿が置いてあることにツッコミを入れてくれよ」
呵呵と、本当に可笑しそうに笑う三佳さん。馬鹿にされるのは悔しいが、その笑顔が今日初めての心からの笑顔だったので、よしとしよう。
「アンタの学校に鳴瀬 斗環子という教師はいないか?」
新聞の束を棚に押し込みながら、三佳さんは聞きなれない名前を口にした。
「そうか、いないか」
「その鳴瀬って人がどうかしたんですか?」
「さっき桜塚の話が出ただろう。そいつは私の後輩でさ。桜塚で教師をやってたんだ。最近連絡が無いから、今頃どうしているのかとね」
「ふむ。機会があったら担任やらに聞いてみますよ」
「いやいや、そこまでしてもらうほどじゃないんだ」
新聞を全て仕舞い終える。
「さて、済んだな。悪いな、手伝わせてしまって」
なんて、全く悪びれてなどいない顔をして言う三佳さんは、やっぱり人をいぢめるのが好きな人なんじゃないかと思うのだが、多分間違っちゃいないだろう。
「三佳さん。……三佳さんは、ずっとここで働く気ですか?」
「ん? どうだろうな。館長が許してくれるなら一生ここで働いてもいいかと思っているが」
「ダメですよ、そんなんじゃ。こんな客も職員もいない場所じゃ、誰とも出会わないじゃないですか」
結局俺が居る間に、他の客や三佳さん以外の職員は一人として現れなかった。こんな場所でひたすら暇のまま過ごすなんて、三佳さんにそんな辛い思いはしてほしくない。
「……ははーん」
だが、三佳さんは俺の思いを汲み取ってくれているとは到底思えない反応を見せた。
「さてはアンタ、私に早く男を作れと言いたいんだな」
「……はぁ?」
いや、そういうことにもなるけどさ。
「残念だけどそれは聞けない。私はもう結婚などする気もゼロだからな」
「……っ!? それはまた、何で?」
聞き捨てならないぞ、それは。
「私ももう三十四だ。貰い手がいない」
「いや、そんなことないでしょう!」
美人だし、何でも卒なくこなせるだけの技量があるし、貰い手なんていくらでもいるはずだ。
「どうかな。……言ってなかったかもしれないが、実は私、男性恐怖症なんだ」
「……え?」
「さっき言った後輩ってのが、高校の時に年上の男性から酷い目に合わされたのを見ていてね。それからというもの、年上の男というものがどうにも苦手なんだ。年上といっても当時から見た年上だから、今の同年代の男も含めてさ」
「……まったくの初耳なんですけど」
「言いたくなかったからな。正直、前の職場だって辛かったんだ。男の過半数はオッサンなわけだから。今のこの職場は、ある意味私にとって理想の環境なのかもしれないな」
自らを蔑むような、どこか諦めの色が窺える冷笑。
「でも……! 結婚しないなんて、そんなのダメです」
俺は、大切な家族であるこの人には幸せになってもらいたい。
「――――じゃあ、キミが貰ってくれるか?」
「……え?」
今まで聞いたことのない、女性的な色気を漂わせた、艶っぽい三佳さんの声。
「キミと私は三親等以内だ。残念だが正式な婚姻はできない。しかし養ってくれることはできるだろう?」
「えっ……と……」
三佳さんは何を求めているのだろうか。一緒に暮らせる家族? 配偶者としての夫? それとも……人の温もりを与えてくれる、恋人?
予想だにしない“返し”に、情けなくたじろいでしまう。
「――なんて、な」
ふっ、と三佳さんが哂う。
「年上や同年代が駄目だからって、キミくらいの若い男は私のようなオバサンは求めちゃいないのさ。……って、どうした。思い詰めたような顔をして」
そうして、俺の顔を覗き込んでくる三佳さん。今の俺は一体どんな顔をしているのだろう?
「おいおい、まさか間に受けたんじゃないだろうな。もしかしてアンタ、私のこと……」
「三佳さんのことは好きです」
「……なんだって?」
狐に抓まれたような顔。やっぱりこの人、高校生の頃から時が止まってしまっているんじゃないか。そう思ってしまうような、幼い表情を三佳さんは見せた。
「幸せになってほしいし、できることなら俺が養いたい。三佳さんは、大切な家族ですから」
本心を告げる。と、三佳さんは一変、母性に満ち溢れた表情を浮かべる。
「――そうか、ありがとう。……なんだか照れくさいな。ふふ」
照れくさい、か。自惚れかもしれないけど、俺にはその笑顔がとても幸せそうな笑顔に見えたのだけど。
「キミにそれだけ愛してもらえているのなら、まだ私にも若い男と出会うチャンスだってあるのかもしれないな。……あ、冗談だぞ?」
「はは、わかってますって」
この人には、いつもこんな風に笑っていてほしい。そう、思った。
図書館を後にする。時刻はいつのまにか三時半。携帯に連絡は無いけど、イズミはもうとっくに起きていることだろう。急いで戻らないと。
帰りながら考える。イズミに掛ける第一声は何だろう、と。
「……って、第一声は『ただいま』だろう。馬鹿か俺は」
まずは声も掛けずに勝手に家に置いてけぼりにしたことを謝らなくてはならない。
それから、直球で姉との関係を訊いてしまおう。懸念などしている場合じゃない。
姉さんはほぼ確実に、“大人”関連の事件に巻き込まれ、殺された。あの新聞の記事の不自然さからして、間違いないだろう。
今日見てきたばかりの、あの県立桜塚高校の校門付近の風景を思い浮かべる。
あんな場所で交通事故など起こるはずがない。曲がりくねった、急な坂。その上に学校だけが在る。そもそも誰が何の用事で夜の学校を訪れるというのか。
気が付くと、いつの間にか大通りに出ていた。歩道には緑の葉を付けた街路樹が等間隔で延々と並んでいる。
街路樹、か。そういえば、その事故には校門の側に立っていた木が巻き込まれたとも新聞に書いてあったっけ。
まったく馬鹿馬鹿しい。そんな仰々しい事故を起こしてピンピンしているバイクって、何モノだよ。しかも桜の木だ。あんな太い木がダメージを受けるくらいって――――
桜の、木?
何で俺はその木が桜の木だったと知っているんだ? 記事に書いてあったか? ……思い出せない。
思い出せないのに、何故か俺はそれが桜の木だったという確信を持っている。
「――――あ」
思い、出した。その確信を、どこで得たのか。
思い出して、しまった。
自転車を全速力で走らせる。
今日俺が見た桜塚高校の校門には、桜の木は無かった。当たり前だ。桜塚高校のシンボルとも言えるその桜の大樹は、四年前にどこかへ移植されていったのだから。
だとしたら。昨日にも一昨日にも、去年にも一昨年にも、桜の木がそこにあるはずがないのだ。
自転車を乱暴に塀に立て掛け、錆びた鉄の階段を駆け上る。コンクリートの廊下を走り、端から二番目の部屋のドアに鍵を刺し、回す。
ドアを開けて靴を脱ぎ散らし、部屋に入る。イズミは――――いない。
だとしたら、彼女はまだ三佳さんの部屋に居るのか。
壁に取り付けられたドアのノブを回す。鍵はかかっていない。
勢い良くドアを引き寄せると、ベッドの上で毛布を掛けたまま上半身だけを起こした格好で本を読むイズミの姿が目に映った。
「わっ。どうしたの? そんなに慌てて……」
イズミの髪から微かにシャンプーの匂いが漂っている。少し前にシャワーを浴びたらしい。シャンプーは俺が使っているものではない。きっとあのカバンに詰めて持ち込んだ物だろう。
「おかえり、由利也クン。ね、どこに行ってたの?」
何故か少し照れくさそうな笑みを浮かべるイズミ。
偉そうなことを言ったけど、俺の第一声は「ただいま」ではなかった。
「イズミ。――――お前、何者だ?」