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――虚、「ずっとそばにいるから」。

『ごめん、こんな遅くに電話して』


 時刻は午前三時半。


「いや、大丈夫だよ。夜型だから、俺」


 とはいえ、今日は色々あったので既に相当の疲労と眠気がキている。


『それはそれは。で、イズミの具合はどう?』


「傷はそれほど深くなかったから、大事には至ってないよ。ただ、疲労はかなりのものみたいだ」


 先程寝かしつけてきたイズミの様子を思い浮かべる。彼女の家での仮眠の時と異なり、寝息すら満足に立てずひっそりとした眠りについたイズミに、俺は不安を覚えざるを得なかった。


『まぁ、今日は色々あったからねぇ』


「あー……そうだ角さん。もしよかったら、今日何があったのか詳しく教えてくれないかな」


『んー、じゃあざっくばらんに。まず午前。古宮で、あの子と私でお茶しました。以上』


「ふむ」


『その後、用事があるっていうから別れたのよ。暇になった私は野口にいる知り合いの所に遊びに行こうとしたんだけど、そしたら偶然あの子と再会してさ』


「電車の中で?」


『ん? 駅の改札だったかな』


「ふむ、そっか」


 イズミがどこへ向かおうとしてたのかは定かじゃないってことになるな。まあ、それはいいか。


『ちょっとただならぬ様子だったから、いろんなところを回りながら話を聞き出そうとしたんだけど、あの子ちっとも教えてくれなくて』


 それは仕方ない。あの状況はどう説明していいものやら、俺にもわからない。


『結局夕飯も一緒して……えっと、それは遅めだったんだけど。その後街をぶらついてから別れて……一時間くらいした頃かな。イズミの家から電話がかかってきて』


「そっか、携帯無かったんだもんな」


『んん。そしたら、「包帯と消毒薬と――なんとかとかんとか――とを家まで持ってきてくれないか」なんて言い出して。状況はよく理解できなかったけど、とりあえず「薬局はもう閉まってるし、家まで取りに戻ったら往復二時間近くかかるし家から出させてもらえるかわからない」って言ったのよ』


 角さんにそんなことを頼むなんて、よっぽど気が動転していたんだろうか、イズミ。


『そしたらあの子、ちょっと唸った後「じゃあ私の携帯に電話して。多分、今は“彼”の元にあるはずだから。必要な物はカバンの中に揃ってるから」って。それでかけたらなっちゃんが出たってわけ。君たち、よくわからないことになってたのね。あ、無粋な詮索はしないから安心してくだせー』


 そう言ってくすくすと笑う角さん。思わず「あはは」と乾いた愛想笑いが漏れたが、ごめん。そんな笑えるような状況でもないんだ。


『私が知ってることは以上。お眼鏡に適いましたでしょーか?』


 受話器の向こうからカチャリカチャリと細い金属が軋む音が聞こえる。


「もちろん。助かったよ角さん。ありがとう」


 今日一日のイズミの行動、様子はこれで粗方わかった。


『それでなっちゃん。私からも一つあるんだけど』


 はて、なんだろう?


『タメ口、まどろっこしいんだけど。やっぱキツキツだよぅ』


「は、はぁ……」


『タメ口きいてくれって言い出したのなっちゃんだけど、もう許してほしいなー……とか』


 ああ、今日の彼女の様子に違和感があったのはそのせいだったのか。


「ええと、うん。角さんが楽なようにしてくれればいいよ」


『うぃうぃ! ありがとねー、なっちゃん。それじゃおやすみぃ』


「あ、ああ。おやすみ……」


 電話が切られる。

 ……おもいっきりタメ口じゃねーか!




 体に溜まった疲労を少しでも取り除くために、わざわざ風呂を沸かして入ることにした。

 久しぶりに入った風呂は疲れた体には極楽のように心地良く、うっかり浴槽で寝てしまう寸前までいってしまった。



 火照った体にロングTにチノパンという軽装を身に付け、眠る前にもう一度「隣」のイズミの様子を見に行く。


 よほど疲れていたのだろう。イズミは暗い部屋の中に置かれたダブルベッドの左端に小さく縮こまり、寝息も立てず力尽きた仔狐のように背中を丸めていて寝入っていた。

 枕元では額から転げ落ちたシリコン製の青い氷嚢がシーツを湿らせている。もう十分に熱を吸い取ったようで、中の氷は皆溶けてしまったようだった。

 さて、と意を決してイズミの白く美しい額に触れる。どうやら熱は冷め切ったみたいだ。

 なるべく厚めの毛布を掛けてやる。イズミの右手が黒いショートパンツの内側に伸びていたのは見なかったことにしよう。



 この家に向かう道のりで、一度イズミの腿の傷が開き、そこから再び真っ赤な血が溢れ出した。

 まったく、大馬鹿者だ。治りきっているはずがない傷。それを抱えた脚で三十分以上かかる道のりを歩く。――――そんなことを認めた、俺って奴は。


 傷が開く度しばらく立ち止まり、血が止まれば再び自分の足で歩こうとするイズミ。そうしてまた間もなく傷が開く。

 埒があかないし痛々しくて見ていられなかったので、俺は……恥を承知で「背負わせてくれ」と彼女に頼んだ。


 するとイズミは「カバンを?」なんてボケをかましてきたので、俺は渋々「おんぶ」と言い方を変える羽目になった。

 茹で蛸のように真っ赤になりながら、同じくらい顔を赤く染めたイズミを「おんぶ」しての家までの道のり。はっきり言って恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。


 しかしイズミは俺の背中で揺られるうちにぐっすり眠りに就いてしまい、ベッドに寝かせる時に一度目を覚ましはしたものの、それっきりこうして静かに眠っている。



「綺麗……だな」


 微かに開いた小さな口。横向きに寝ているためか、少しだけふっくらとして見える白い頬。まるで赤ん坊のそれのように緩やかに丸められた小さな右の手。(左手は下半身に向けて伸ばされている)

 無邪気の権化とも言えるその寝姿に、何故か俺は「綺麗」という印象を受けた。







 鳥が鳴いている。早朝に鳴き出すあのキジバトの特徴的な(さえず)りではなくて、もう少し遅い時間帯まで鳴き続ける、スズメか何かのチュンチュンというありふれた鳴き声。


 勢い良く上半身を起こし毛布を跳ね除ける。……毛布?

 待て。俺は今の季節羽毛の布団をかけて寝ているだろう。それに俺が冬に使っていた毛布はもうタンスの中に仕舞ったし、三佳さんが使っていた毛布はイズミにかけてやったはず。


 ……まさか。


 そういえば、朝日の入り方がおかしい。どうして「隣」との隔たりの壁があるはずの右側から日が差し込んでくる?

 恐ろしい仮定を頭によぎらせながら、周囲を見回す。

 きちんと整頓された室内。実家から持ち込んだニス塗りの木の洋服箪笥。同じ素材で出来た鏡台。

 今時珍しい十六インチのブラウン管テレビの上にはかなりの量の埃が積み重なっている。

 上半身だけを起こしたまま左を振り返る。そこには、壁。そして銀色のノブの付いたドア。

 仮定が確証に変わってしまった。

 ――ここは俺の部屋の「隣」。隔てている壁に雑に取り付けられたドアから出入りが自由になっている、かつて三佳さんが住んでいた部屋に他ならない。


 今でも三佳さんの私室であることに変わりがないこの部屋で、このベッドで一眠りしてしまった。

 ……問題はそんなことではない。


「んっ……」


 体をぶるっと震わせながら、ごろりと寝返りを打つ仔狐。微かに開かれた両の手のひらが可愛らしい。


 ああ、もう。何をやっているんだ、俺は…………!


 依然寝息をほとんど立てず、疲れ切ったように眠り続けている。

 その寝顔が、たまらなく愛おしい美しい寝顔が、俺の頭が置かれていた枕の方に向いている。


 つまり。眠くて眠くてどうしようもなく判断能力の鈍った俺は。

 イズミの寝ている横に潜り込み、そのまま朝まで寝てしまったらしい。


「……はぁ」


 イズミが先に起きていなくて、本当によかった。隣の部屋を使わせるとはいえ、同棲を始めた途端布団に潜り込むなんて下劣な行為をしてしまった事実がイズミにバレてしまったら、本気で軽蔑されるだろう。あやうく今まで築き上げてきた信頼関係を全てふいにしてしまうところだった。


 そっと毛布から這い出て、手を頭上で組み背筋を伸ばしながら日差しを浴びる。ああ、心地の良い朝だ。図らずも女の子と寝てしまったことがこの爽快感の源かもしれないと思うと、自分の行為を恥じる他なかった。


 壁にかかった、漆塗りの木材で作られた時計を見る。時刻は午前十時過ぎ。

 イズミは依然深い疲れを思わせる脱力しきった顔で眠っている。当分起きることはないだろう。


 同棲。隣の部屋に居候させてやるだけのことだと思っていたのに、間違いから床を共にしてしまったがために相手のことを意識せざるを得なくなってしまった。

 よく考えれば、俺はイズミを狙う“大人(ライヤー)”の問題が解決するまでこれから彼女の側を片時も離れず一緒に行動しなくてはならない。

 だとしたら、これからイズミが起きるまでの時間は俺に残された唯一の単独行動可能な時間ということになる。

 やましいことはないのだけど、一つだけやっておかなくてはならないことがある。イズミに正直に話してもらうためにも。


 俺は……姉、名執 亜依が死去した事件(・・)について調べなくてはならない。

 小さな街で起きた小さな事件だ。インターネットには大した情報も載せられていないだろう。

 ならば、そういうものを調べるなら街の図書館へ出向くのが一番だ。幸い、実家の近くに区立の図書館がある。そこへ行き、事件当日の各社の新聞を読み漁る。

 大きすぎる図書館には逆に置かれていないような「県の新聞」などの小さな新聞こそがキーを握る。もしも“EPD”の絡んだ事件だったならば、それは間違いなく“彼ら”によって隠蔽工作が為されているだろうから。


 消費期限が二日後に迫っていた買い置きのチョコチップメロンパンを平らげ、「出かけてる。何かあったらケータイに連絡してくれ。」との書き置きを「隣」のイズミの眠るベッドの枕元に残し、俺は区立図書館を目指した。

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