――赤、紅に染まる花顔。
教室を包む喧騒が、名執 由利也を叩き起こす。
「――――~~~っ。……あー、よく寝た」
上半身を起こし、おもいっきり背伸びをして独り言。
視線を落とすと、偶然俺のそばを通りかかったらしき女子生徒が、俺を見てクスリと笑っている。
……あー、気まずい。
そうして俺がまごまごしているうちに、小学生と見間違うほどの背丈のその女子生徒は、そのままどこかへ行ってしまう。
……あー、憂鬱。
教室を行き交う、学ラン、セーター。ブレザー、カーディガン。
一応、今の季節は生徒は冬服である学ラン・ブレザーを着る決まりになっているのだが、三年生ともなるとそれを遵守している生徒は少なく、皆それぞれ思い思いの格好をして登校している。
生徒会は体温の調整のためと銘打ち「ある程度の衣服選択の自由」を取り決めたのだが、それによってわが校の生徒の服装は大いに乱れた。
服装の乱れは何とやら。この学校の風紀も、同等に乱れているようだ。詳しくは知らないけれど。
一方、近くにある同じ県立の桜塚高校は制服着用の指導を徹底した結果、偏差値は伸びる一方らしい。
あっちは男子がブレザー、女子はセーラー服。今、三十過ぎの叔母さんが通っていた頃から変わらない、伝統ある制服だとかなんとか。
教室を見回しても、制服の上着まで着ている生徒は少ない。うちの学校の女子制服は決して悪くはないのだけど。
いや、セーラーと比べてみるとどうだ? あれはいいものだ。くっ、やはり桜塚に入っておくべきだったか? と今更の後悔を巡らせた末。
……緑のブレザーは着たくないな、と真っ黒の学ランの袖に付いた金色のボタンを弄るのだった。
ほぼ空に近いカバンから、コンビニで買ったホットドッグを取り出す。一日のほとんどを寝て過ごす俺の昼食など、こんな物で足りてしまうのだ。
袋の中でべちゃべちゃになったそれにイラっとしつつも、そのまま一口で完食する。
昼食、摂取完了。さて、余った時間に何かしておくことはあるだろうか?
……トイレ、かな。これからまた、午後の授業を全て寝て過ごすのだから。備えあれば憂い無しというやつだ。
教室は賑やかだ。「部活組」が、それぞれ机をくっつけ合って談笑しながら昼食を摂っている。
「ガリ勉組」も、それ同士での付き合いもあるらしい。
わりと目立つ空席は、他クラスの部活仲間の所へ行っていたり、はたまた静かな図書室に勉強をしに行ったりする生徒の席だろう。
そんなクラスの雰囲気を尻目に、席を立つ。……寂しくなんかないぞ。うん。
俺が目の前に立った時、教室の後ろのドアがひとりでに開いた。
まったく、いつの間に自動ドアになってたんだ。……とかいうボケが脳裏に浮かんだがスルー。
視線を戻すと、そこには一人の小柄な女子生徒が立っていた。
「――――あ」
「ぇ?」
……当たり前じゃないか。俺が開けたんじゃなければ、ドアの向こうにそれを開けた人がいる。自分で言ったばかりだろう。自動ドアじゃないんだからさ。
しかし。そこを退こうと思うより早く、俺は――――その女の子に見惚れていた。
両肩に乗るほどの長さの、茶色がかった柔らかそうな艶やかな黒髪。
それと対照的な、透き通るように白い肌。
分けられた前髪の下には、細く真っ直ぐに伸びた眉。少しつり目がちな双眸。
長くたわやかな睫毛から覗く瞳は深く黒く澄んでいて。そこには、くっきりと俺の姿が映し出されている。
「……ねぇ」
静止したままだった血色の良い唇が動き出し、甘く澄みきった声を奏でる。
「……そ、そんなに見つめないでよ……。その……恥ずかしいん、だけど……」
「――――あ、」
言い切った彼女の顔が、ほのかに赤みを帯びていく。
背後からは、小さくどよめきの声が聞こえている。
……状況を理解する。俺はつまり。
目の前の女子のことを、この場に突っ立ったまま、ぼーーーーっと見つめ続けていたというわけだ。
「――っ! ご、ごめん!」
慌てて後ずさる。ああ、自分の顔が一気に紅潮するのがわかる。
目の前――一メートルも離れていないところにあるその顔でさえ俗に言う「真っ赤」なのだから、きっと俺は熟れ切ったトマトのように赤くなっているに違いない。
「あ、うん……」
呆気に取られた様子の少女――一個年下のはずだが、どうしてもそれより幼い印象を受ける――。
腰に置かれた左手。指は細く、腕も程良い肉付きでありながらやはり細いうちに入る。
短く折りたたまれた赤と黒のチェックのスカートから伸びる脚は健康的な太さで、微かに垣間見える筋肉の付き方から運動競技の経験を思わせる。
学校指定のブレザーを身に付けずブラウスだけを着ているため、控えめな胸の膨らみが強調されていて――――
「って、何やってんだ俺は!」
気付くと、またも目の前の彼女のことを見つめてしまっていた。
駄目だ。この子の前にいるだけで、まともじゃいられない。
「ごめん、ほんとごめん! それじゃ!」
振り向きたくない背後からは、さっきより勢いを増したどよめき。ああ、鬱陶しい。
彼女の脇を抜けて、廊下に出よう。一刻も早くこの場を去らないといけない。
――――目が合う。
先程よりも、更に近い距離で。
彼女の唇が微かに流動する。言葉。紡がれる。何を。響く。そして。鳴る。
『やっと――――』
――それだけを譫言のように呟き、少女は満足気に笑みを浮かべた。
男子トイレに備え付けられた水道で、少し躊躇したが顔を洗うことにした。
惚けた顔に冷水を浴びせかける。
「なんだったんだ、さっきのは」
あの少女を目にした時、引き換えに俺は世界を完全に見失った。
目に映るのはあの少女だけ。あの少女の全てが俺の頭の中を駆け巡った。
未だ動悸が収まらない。
こんなこと、これまでに経験したことがあっただろうか。
これほどまでに強烈な――――一目惚れをしたことが。
だけれども、俺は彼女を知っている。それは一目惚れであると共に、再会の歓喜。
込み上げてくる胸の高鳴りは、錯覚だろうか。それとも――――
……いや、いい。どうせ考え出したら、前世からの因縁だとかスピリチュアル方面へ妄想が膨らむだけだ。
変なところで乙女チックな名執 由利也十九歳。多分、姉貴様の影響。
さて。
顔に見覚えがあるということは、おそらくクラスメイトなのだろう。だからといって、案の定名前も苗字もわからないのだが。
……あっさり手詰まり。どうしたらいいんだ、俺は。
チャイムが鳴り響く。
携帯電話をポケットから取り出し時刻を確認すると、それは予鈴ではなく本鈴。つまり、もうすぐにでも五時間目の授業が始まるということだ。
まったく、いつの間にそんな時間になってたんだか。
人気の無い廊下を駆け、開けっ放しになっていた後ろのドアから教室に入る。
「――っと」
五時間目の授業担当の教師はまだ教室に着いていなかった。なんとかセーフだ。
先程の情景を焼き付けられた俺の目が、無意識的に“彼女”を探す。
見回しても、目に映るのは見慣れた後頭部の群ればかり。くそ、見つからない。その中には、きっと“彼女”も含まれているはずなのに。
諦めかけた視界の中。ガラリと音を立てて立ち上がる一人の女子生徒。白いブラウス。
ああ、なんで気付かなかったんだ。それで絞れば、条件に合致する生徒は二人しかいなかったのに。
振り向いた“彼女”と目が合う。――――いや。否が応にも合わせられた。
「あ、――――――」
間の抜けた声を上げ、直立不動に陥る。“彼女”はこちらに向かって歩いてくる。
――心臓が脈を打つ。
自分の席のすぐ近くで、座ることもできず立ちすくむ。“彼女”はゆっくりと近寄ってくる。
――心臓が張り裂けて十二柱の肋骨をまとめて吹き飛ばしてしまいそうなほど脈を打つ。
“彼女”が俺のすぐ近くにいる。すぐ近く。半径一メートル。近すぎる。何で。ああ、もう――――
そうして、
「――――ふふ」
耳元に嘲笑を残し、彼女はロッカーから分厚い世界史の資料集を取り出し、再び俺の横を、今度は平然と通り過ぎていった。
教室の各所からクスクスという笑いが上がる。……くそっ。ウブで何が悪いっ。
世界史担当のお爺ちゃん先生こと星野先生が教室に入ってくる。今日は中世ヨーロッパ、フランク王国の発展についてらしい。
シャープペンシルを指でくるくると回し、東北訛りが繰り広げる西洋史に聞き入る。
……ダメだ。退屈すぎる。
本日の出番を全て終えた愛用の製図用シャーペンを学ランの胸ポケットに仕舞い込む。
――聞いてくれ、先生。今日は金曜日。午後の授業は三時間もあるんです。
……つまるところとてもやっていらんないので、毎度のごとく俺は寝ます。
そして、眠気を誘うと評判の星野先生の授業は、もちろん俺にとっても良質の睡眠導入剤である。
俺はカール=マルテルに別れを告げ机に突っ伏すと、深い微睡みへと落ちていった――――。