――虚、「だいじょぶ、心配ないよ」。
シトシトと霧雨の降り注ぐ中を、一心不乱に駆ける。
歩いてきた道を逆戻り。ゆっくり歩いて三十分なら、死ぬ気で走ればどれくらいだろうか。
ここからあのマンション――イズミの待つ場所まで。
――――包帯、薬。怪我。襲われた。
「くそっ……!」
イズミが今どういう状態にあるのか。それくらいは訊いておけばよかった。
救急車を呼んでいないうえ、俺に手当の道具を持ってこさせるくらいだから、そう大した怪我ではないのかもしれない。
いや、そうであってほしい。そうでなくちゃ、困る。
重みのある白い革製のバッグを雨から庇いながら、濡れたアスファルトの上を少しの躊躇もなく全速力で走る。
いくら俺でも転びはしない。そんな時間は無い。だから、転んでなんていられない。
「角さん――――!」
「あ……なっちゃん!」
時刻は午前零時を回り、すっかり明かりも疎らとなった二対の塔。
グラッドガーデン西棟エントランスホール出入口の前で、彼女は透明のビニール傘を差して俺を待っていた。
「イズミは!?」
情けなくも絶え絶えの息で、なんとか尋ねる。
「今は自室に。ほら、早く行ってあげて!」
語気を強めた角さんの黒いポニーテールが揺れる。
「容態は? 俺は、行って何をしてやればいい?」
「多分、起きてると思う。怪我の手当を手伝ってあげて。これ、家の鍵。これでエレベーターが動くから」
差し出された、意外と小さな手のひらから鍵を受け取る。
「サンキュ、角さん」
「それじゃ、私はこれで帰るから。イズミのこと、頼んだよ、なっちゃん」
そう言って、俺に向けて柔らかな笑みを浮かべる角さん。
「え? あ、ああ」
ゆっくりと遠ざかる、ツギハギだらけの黒いカットソーを着た少女の姿を見送る。
一緒に来ないのか? と思ったが、もう夜も遅い。家族と暮らしている角さんは、そう遅くまで外出してもいられないのだろう。
――――っと、早くイズミの所に行かないと!
オートロックを解除されたエレベーターが、二十四階に向かって静かに動き出す。
黄みがかった弱い照明に照らされた、エレベーターとしては少々大きすぎる密室の中に、当然ながら俺一人。
文字盤の示す数字の移り変わりだけが、俺の体が今上向きに移動しているのだということを教えてくれている。
十階を超えた辺りで、その室内に背後から光が差し込む。
振り返ると、寝静まった古宮の新興地域の夜景がガラス越しに見えた。
「昏い……な」
すっかり昏くなった街並みの中で、不眠症の街灯や信号機の光だけがぎらりと輝き続けている。いつの間にか普及した、LED電球の白い光。はっきり言って、あれは目障りだ。
文字盤が「20」から「21」に移る。もうすぐだ。もうすぐイズミの部屋に着く。角さんが言うには、そこで彼女が俺を待っているという。
静かな室内で、心臓だけがドクドクと高鳴っている。
イズミは本当に大丈夫なんだろうか? 角さんの様子からすると大丈夫そうではあるが、そうは言っても本人の姿を確認しなければ安心はできない。
文字盤が「24」を差す。
密室はやはり音を立てず静止し、ゆっくりとその片開きのドアをスライドさせた。
深夜、薄暗い廊下。エレベーターを出て正面の案内板に従い、2406号室を探す。
あった。廊下の突き当たり、「立松」と表札を掲げた部屋を見つける。
ドアホンを鳴らし、返事も待たず角さんから預かった鍵を差し込む。開いたドアから光が漏れる。
スニーカーを脱ぎ散らし、雨に濡れた靴下で家に上がり込む。
と、電気が点けられている居間に置かれたソファーの上。横になり、小さく縮こまった少女の姿が眼に入る。
「イズミ――――!」
駆け寄る。上気した顔。汗と雨でしっとりと濡れた髪。全てのボタンが外された長袖のブラウス。
見ると、ブラウスの左腕部が赤く湿っている。裂けた袖の内側で出血しているようだ。同様に、大きく露出した左腿部からも出血が見られる。
「ゆ、りやクン……?」
イズミがその小さな体をゆっくりと起こす。その際ブラウスの開け放たれた両裾が踊り、その内側の下着を思いきり露顕させたため、目のやり場に困ってしまう。……が、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「遅いよ……まったくもう……」
「イズミ、怪我……っ!」
上体を起こしたため、ツツ、と左腕から鮮血が滴る。
「あ、これ? だいじょぶよ。一応止血したから……」
そう言って袖を捲ると、傷口には三枚の絆創膏が乱暴に貼られていた。無論その乱雑な処置の隙間からは依然血が漏れ出している。
よく見ると、床に置かれたグレーと黒のボーダーのカーディガンは赤黒い血に塗れている。その隣のチェック柄のスカートも、おそらく……。
「包帯と消毒薬、持ってきてくれたんだよね?」
「あ、ああ。カバンならここに……」
墓地に置き去りにされた白い革のカバンを、およそ七時間ぶりにその持ち主に返却する。
「ありがと。あそこに置きっぱなしにしてたこと、全然気づかなくて」
信じがたい話だが、それほどまでに動揺していたということだろう。実際俺だって、一時間もあのまま茫然自失としていたわけだし。
カバンの中から取り出したバスタオルで濡れた髪を拭き、そこで俺が同じく濡れ鼠になっていることに気付き、もう一つバスタオルを取り出して俺に差し出してくれた。
「イズミ。その怪我のこと、詳しく聞かせてくれないか」
左腿の傷口に消毒薬を塗りたくり、包帯を巻いていくイズミ。その表情は一見涼しげだが、頬を紅潮させ、額には珠のような汗を浮かべている。
「襲われたのよ。街中でね」
「それは聞いたけど、誰がそんなことを――」
左腕の絆創膏を剥がし傷口を露顕させると、そこから真っ赤な血が滴り落ち、床に敷かれたカーペットに染みを作る。イズミは苦悶の表情を浮かべ、額から汗を垂らす。
「そんなの決まってるじゃない。――――“大人”よ」
「“大人”!?」
傷口が消毒液と血の混じった絵の具のような赤で滲み、イズミが歯を喰いしばる。
「ええ。この時間ともなると、この辺りも人通りが少なくなるから。狭い路地で待ち伏せを食らってこのザマよ」
腕の傷は左腿よりも深いらしく、包帯を巻く前にガーゼを乗せるのだが、すぐに血で赤く染まってしまう。
「まさか、抗戦したのか!? FDも無いのに!」
「だから、その時になってそれに気付いたんだってば……。びっくりしちゃった。カバンからFDを取り出そうとしたら、カバン自体が無いんだもの」
苦々しげに左腕の傷を眺めるイズミ。どうやらその時に負ったということらしい。
「仕方がないから、蹴りを数発入れて怯ませてから撒いたわ。ちょっと反撃は食らったけど……」
左腿に巻いた包帯には、少しだけ血が滲み始めている。
「相手は確かに“覚醒者”だったのか?」
「間違いないわ。自惚れじゃないけど、“溺者”相手ならこんなに貰わないもの」
イズミが苦笑する。それは今のこの、手負いの状態にある自分への嘲りのようにも見える。
「そして、間違いなく古宮高校に潜む“大人”よ」
「どうしてわかるんだ?」
そしてまた苦々しい表情で笑う。
「制服、着てたのよ。貴方がいつも着てるのと同じやつをね」
しばらくして。イズミは再びソファーに横になり、静かに寝息を立て始めた。
「……イズミ。お前は一体、俺の姉とどういう関係なんだ?」
結局起きている間に問うことのできなかった疑問を、穏やかでない寝顔に向けて囁く。
返事は無い。代わりに吐息が放たれる。
「はぁ……、はぁ……」
終始漏らされる吐息は熱を帯びていて、顔は熟した林檎のように赤く、首元や額には汗が滴っている。
起こさないよう細心の注意を払ってその額に手を当ててみると、思ったとおり熱を持っていた。いつかイズミが言っていた、体を動かした後は体温が上がりっぱなしになるという体質によるものだろうか。
風邪による発熱ならば逆に体を温めるのが得策だが、こういう場合はどうすべきなんだろう。
「はぁ……、はぁ……」
なおも苦しそうに悶えるイズミ。――――もう、見ていられない。
台所を拝借して、ビニール袋と氷水だけを使った簡単な氷嚢を作り、イズミの額に乗せる。
「んっ……」
ぴくりと、つま先を震わせる。真っ直ぐに伸びた長い足は、腰の下でローライズの白いショーツに元に接続されている。
「……まずっ」
意識してしまう。開け放たれたブラウスの裾から覗く、リボンの付いた白いブラジャー。くびれた腰。健康的なおヘソ周り。
イズミは俺にそんな風に体を見られていることなど露知らず、先程より落ち着いた吐息を微かに漏らし、すやすやと眠っている。……ダメだ。このままじゃ本当にマズい。
挑発的なイズミの姿態の誘惑から気を逸らすため、彼女が眠りに就く前に交わした会話を反芻する。
『つまり、もう私の顔は敵に割れてるってこと』
と、物憂いげに語るイズミ。それも当然だ。
『相当マズいんじゃないか、それって。しかもこうして家の近くで待ち伏せして襲撃してきたんだろ?』
『ええ。……憎たらしいことに、向こうは私を殺す気じゃなかったわ。警告ってやつね。これ以上関わったら殺す、とでも言いたいみたい』
はぁ、と溜息を吐く。FDを持ちあわせていなかったとはいえ、相手にしてやられたのが悔しくてたまらないようだ。
『気を抜いたら殺されるわ。学校に居る時でも、家に居たとしたってね』
『……だよな。どうするんだ? 敵が統率された組織だっていうなら、もう「詰み」に近いぞ』
するとイズミは、熱に紅潮し汗を浮かべながらも不敵に笑ってみせ、
『私に考えがあるわ。襲撃を防ぎ、襲撃された時のリスクを最小限に抑える妙案がね』
俺の目を見つめると、更にもう一段階頬を綻ばせた。
「ん……。――おはよ。私、どれくらい寝てた?」
ソファーの上でイズミがもそもそと動き、額に乗っていた氷嚢を手に取り不思議そうに眺めている。
「一時間とちょっとくらいかな。もう大丈夫なのか?」
「だいじょぶよ。雨も……止んでるみたいね」
どうやら、イズミにはこの部屋に居ながら外の雨音を聞き取るほどの聴力が備わっているらしい。まあ、それくらいの能力は持っていてもおかしくはない。
「じゃあ、ちょっと準備してくるね」
「ああ。傷口、開かないように注意しろよ」
「だいじょぶ、だいじょぶっ」
そうして、私室へと去って行くイズミ。心なしか、その声は愉しげに弾んでいる。
『……本気か?』
『いくら私でも、この状況で冗談は言わないわよ』
頬を膨らませて怒るイズミ。
『でも、なあ……。それはちょっと、倫理的にマズいんじゃないか……?』
イズミの言う「妙案」は、少々ブッ飛んだものだった。
『じゃあ、他に何か案があるの?』
『……無いけどさ』
『ならいいじゃない。私がいいって言ってるんだから、由利也クンは余計な心配しなくていいのよ』
強引に言いくるめられる。こういう時に「自分が優位である」ということをさりげなくも強気に振ってこれるのには尊敬する。
『でも……』
『決まりね。そしたら私、今から少し眠らせてもらうね。私が起きたら出発。それでいい?』
『……了解』
抗っても埒があかないし、イズミの案は俺にとってもすごく魅力的であることに間違いはないのだ。……ない、のだが――――
「おっけー、準備完了!」
見ると、首元の開いたシフォン地の白いチュニックの下に黒いショートパンツを履いたイズミが、普段持ち歩いている白い革のカバンに加え、それよりも二回りほど大きい赤のボストンバッグを担いでいた。……しかし、
「それで、足りるのか?」
二つのカバンを合わせても、容量はそう大したものではないはずだ。
「もう。だいじょぶよ。制服だって三セットも入ってるしね」
この人の収納(?)技術には、ツッコミを入れる方が野暮というものだと悟る。
「じゃ、行こっか。――――由利也クン家」
つまりイズミの言う妙案とは。
「さよなら我が家っ」
……イズミが俺の家に住む、ということだった。