――故、死別による離別。
崩壊とは、それまでに積み上げてきたものが崩れ落ちるということ。
――第6章「崩壊」
生い茂った樹木の纏う深緑が、昨夜の名残を滴らせる。受けた濃苔は燻った匂いを放つ。
中途半端に整備された丸太の階段は、泥を被りあわよくばと俺の足を滑らそうとする。
イエネコの如く飼い慣らされた獣道。低い山を登る。ここからでは住宅街しか見下ろせない。
薄暗い森と、すぐ下を疎らに通る自動車。都会でも田舎でもない場所。
とはいえ、視線を前に向け続ける限りはここがどこか遠くの僻地のようにも感じた。
それももう二年ほど前までの話。俺はもう、この道にもだいぶ既視感を覚えるようになった。
ここはJR線で古宮駅から四つ。野口の隣駅である『津久山駅』から徒歩十分ほどの地点にある、その名も津久山。駅の名称になるくらい、この辺りじゃ昔から名の知られた山だ。
だけれども、標高は低いというのに山道は急勾配で、暗くてジメジメしてて、虫も動物も居ついていないという、一つとして魅力の無い山だったりする。
唯一の利用価値として、山の頂上には枯れた寺が一つ建っている。ただ、それだけ。
時刻はもうじき午後三時。右手に抱えたビニール袋からは、むせ返るような百合の花の匂いが漂っている。
明け方に床に就いた俺は、昼過ぎに再び目を覚ました。
計十五時間以上もの睡眠を摂ったことで、体も頭も気持ちの方も、昨日のことが遠く感じられるほどの落ち着きをみせていた。
久々にゆったりとした朝食……もといブランチを摂り、外出用のカバンに財布と「あれ」だけを突っ込み、外が少し寒そうだったので薄手のパーカーを探して羽織り、家を出た。
本当は五月十六日――先週の金曜日の予定だったのに、あんなことが起こったせいでだいぶ遅れてしまった。あいつ、怒らないかな? ……大丈夫だよな。
あいつの好きだった百合の花がこの五月に手に入ると知ったのは、たしか二年前のこと。
あの年の五月十六日は稀に見る土砂降りで、仕方なく今日と同じ五月二十四日にここに来たんだっけ。
この津久山周辺では梨の促成栽培農家が多く、市内のスーパーに五月梨を極少量出荷している。カガクとは無縁そうに見える農家という職業こそ、実は一番最先端のそれの恩恵に与っているらしい。
まぁ、それはいいとして。
その梨の促成栽培を生業としている農家の中で、副業として花屋を営んでいる家がある。なんでも、今年で二十いくつだかになる娘さんのワガママだとかなんとか。
言うまでもなく、その農家が五月に百合の花を咲かせているというわけだ。
「ふぅ……」
低い山の潰れた頂上。ようやく風景が開ける。
目に映るは、朽ちかけの寺と空を覆う曇天。開放感の欠片もない。
今年も、さっさと俺の仕事を済ませてしまおう。
『今日、行くんだろう?』
三佳さんから電話が掛かってきたのはたしか、トーストの焼け具合を見んとオーブントースターを覗き込んでいる時だったか。
「え。俺、言ったっけ」
『いつもの五月十六日にアンタ、学校で揉め事起こしたって言ってたじゃないか』
「あー……言った。言いました」
『だろう。その日に行けなかったなら、代わりは今日だろうと思ってね』
まったく。この人は、こと俺の行動に関しては無類の勘強さを見せる。
『どうだ? 当たってるだろう』
「ドンピシャです。母さんと呼ばせてください」
『冗談。――――で。私とその母さんからの連絡なんだが……』
「……母さんから?」
『今年もよろしく。私らの分までね』
「……ああ」
期待させるなよ、まったく……っ。
『そう落胆するな。快方には向かっているんだから。そうそう、今日は花の話をしたよ』
「花の話?」
『そう。ちょうど今、庭の薔薇が綺麗でね。乙女の語らいってやつさ』
「……随分と危ない橋を渡るんですね」
『真っ赤な薔薇だ。連想はしまい。赤とピンクというのは、やはり全くの別物だよ』
そっちじゃない。……まぁ、いいか。大丈夫だったのならそれでいい。
「くれぐれも気を付けてください」
『心配するな。アレとの付き合いは、キミよりよっぽど長い。っと、そろそろ切るぞ』
「仕事、頑張ってください。それじゃ」
『ああ。次はもっと明るい話をしよう』
そう言って、電話は切れた。
桃色をした百合が三輪、手提げ袋の中で揺れる。
四年前。名執 由利也の母であり、名執 三佳の姉である名執 汀は――――崩壊した。
死んではいない。脈も自立呼吸もあれば、意識もあるし欲もある。
白身魚のフライを好んで食べ、焼き鳥のレバーとネギは取り除いて皿に寄せるという。
綺麗好きで、毎日四度のシャワーを日課として欠かさない。『髪は女の命』を信条として、その手入れには一片の抜かりを見せないそうだ。
白人男性を好み、テレビではいつも洋画チャンネルを観ている。まったく。閉経を迎えた体で何をしようというのか。
一度、三佳から今のあの人の写真を見せてもらったことがある。
垂らした墨のような黒髪。血の気の薄い白く透る肌。今年で四十四歳とは思えない艶っぽさだった。
あの人は、あの日から本当に見違えた。
あの日――――
「あの日、あんたが死んでからだ。名執 亜依」
悼みが曇天を湿らせる。
無体。灰色をした無個性な石の角柱。
――――波乱つ。
捧げられた白百合。置かれたままの桶と杓。見覚えのある膨らんだ白いカバン。
まさか。
駆ける音。慌てて振り向く。
揺れる、二本に結わかれた焦茶色の髪。
ボーダー柄のカーディガン。赤黒チェックのスカート。
立ち尽くす。
遠い、遠い、遠い――――
尚も立ち尽くす。
追わなければとわかっていながらも、去る彼女の背中を見送ってしまった。
「どうして、お前が」
項垂れる。見失った影の遠さに。
揺すぶられる。遠く近い、不可視の縁の存在の可能性に。
「イズミ――――」
乾いた石の群れに、蒙い嘆きが孤谺する。