――篭、篭絡された篭者は篭写しの末に篭城す。
しん……と、雨が降り続いている。
『彼は誰にでも優しかった。照れ屋で口数が少ないからなかなか言葉にしないけど、いつも他人を思いやっていた。……そんな中、彼は角にだけは積極的に優しさを見せた。』
綿貫はそこで、重い溜息をつく。
『つまりね。彼は角 寧子にホレてたの。……彼自身、それがわかっていたのかはわからないけど。』
庇からひたり、ひたりと雨水が滴り落ちる。
『角はそれを、わざと知らんぷりした。彼の気持ち、判ってるくせに……!』
『……そうね。私、その相談を受けたことがあるから。』
イズミの言葉を聞いて、満足気に――――溜息をついた。
『でしょう? あとは知っての通り。彼と角の間は全く縮まらなかった。当然っちゃ当然。だって、片想いだし。』
「片想いは実らない」と、彼女は言う。
『この先の話も知ってるのかな、センパイは。』
『軽音楽部の――――高峰、真美。』
『――――くす。』
『なんだ、全部知ってるんじゃない。……そうよ。彼は、どこからともなく現れた高峰 マミに奪い去られたのよ。』
そうして、壁を殴る音。
『わけがわからなかった。わたしでも角 寧子でもなく…………高峰 マミだぁ……?』
もう一度壁を殴る。
『もう……ね。腹が立って腹が立って仕方なかった。何をしてても怒りが込み上げてきて、どうしようもなかった。これもわたしの――――いや、角の無力のせい。』
『――――あはは。』
『そうよ。見ず知らずの高峰 マミに思いを馳せるより、わたしは身近な角 寧子を呪った。お前のせいだ。お前が彼の気持ちに応えてやらなかったから――――』
『――――ぎり。』
『――彼は別人になってしまった。』
布施 悠二は“大人”高峰 真美にEPDを投与され“溺者”となり、彼女からの暗示を受け自我を失った。
『許せなかった。「布施 悠二」の仮面を被ってのうのうと「彼」の生活に入り浸る“ニセモノ”が。そして――――それに気づかない、角のヤツにもね!』
再び壁が殴られる。音からすると、個室を区切る厚ベニヤの仕切りが破けんばかりの力で。
『……寧子は気付いていたわ。ただ…………気にも留めなかっただけ。』
『――――ハ。』
『そっか、そっか。そうでしたか。そりゃーーーそーっすよねぇぇ。自分への気持ちに気付いていても、知らないふりをするよーーぅなヤツでしたもんねぇ、アイツは!』
再度、轟音。ベニヤが軋む音が混じる。
『…………わたしは! わたしには! ――――「布施 悠二」が、必要だった。』
消え入りそうな声で独白する。
『わたしは、ニセモノに縋った。似ているだけの別人でしかない、「布施 悠二」の偽物に。』
『――――カランカラン、カラン。』
『――――――カコン。』
『…………っ! あなた!』
『んんんん…………!! ぁ、はは、くす、んっ……、あは、クス。クスクス、クスクスクス……。』
綿貫が再び変貌する。
『クスクスクス。心地ワルかったけど、キモチよかったんだぁぁあぁぁぁ? クスクスクスクスクス! ね、わかる? 解る? 相手は彼の皮を被ったバケモノ。ね、ケダモノ。セックスの仕方なんか判らないはずの彼の体で、ね? わたしをブチこわすように責め立てるの! お前なんか壊れてしまえ! お前の望み通り、「布施 悠二」がお前をコロしてやる! って!! ねぇぇぇ、わかる? わかる!? その屈辱! EPDでアタマをぶちコワされた後、心まで、ねえ! わかる? ココロがさあ! 水ビタシのカサブタみたいに剥げ落ちてイクの! 金属のナイロンダワシみたいなガサガサのヤワラかいスポンジで、こう! がしがしがしがしがしがしガシガシガシガシって! ココロがよ? わたしのココロが、ハンドルにコビり付いた手アブラみたいな扱いで、ゴシゴシゴシゴシゴシごしごしごしごし…………!! クスクス、クスクスクスクスクスクス!!』
それはもう、誰かに向けた言葉ではない。
毀されてしまった彼女の、悲鳴。
『――――クスクス! がり、がりがりがりがり。』
『んんんっ…………! は、ぁぁぁぁあぁあっぁぁぅぁぁぁぁっっっ…………!! ねえ、センパイ? ねえ、ねえぇぇぇえ?』
『何かしら? 綿貫さん。』
あくまでに冷静に応じるイズミ。それは、彼女がEPDを憎んでいるからに他ならない。
『クスクスクスクスクスクス! ――たかみねマミ。クスクス。シんだね。』
『……正確には死んでないわ。私たちが、この学校から排除しただけ。』
へぇ、という呟き。
『――――がり。』
『じゃあさ。クス。「布施 悠二」はどうなったのかな? クスクス。ねえ。シんだ? シんだの?』
一呼吸置いて、答える。
『あなたの言う「ニセモノ」は死んだわ。彼はまだEPDを投与されて二週間以内だったから、体内からEPDを全て消滅させることができた。……だけど、元の彼には戻らない。EPDが宿主の脳に与えるダメージは深刻だから。一番被害を受けるのは記憶野だけど、人格にも多少の変化が生じるケースもあるわ。』
『――――がり。』
『ありがとうございますタテマツ先輩。わたしバカだからむつかしい話はよくわからないんだけどさ。』
静寂。雨音。
『そっか、そっか……。』
しゅる、と洋服の擦れる音。
『やっとみつけた。「布施 悠二」をコロした人間。』
刹那、爆音と綿貫 麻実の狂笑が左耳に響き渡る。
『クス、クスクスクス! 言ったよねわたしさぁ! 「布施 悠二」にセーエキいっぱいクワされたってさぁああぁあぁああぁぁぁぁあああぁぁ!』
EPDと共に他人の体液を摂取することこそ、“溺者”をその者の“従者”とするための契約行為なのか。
――――綿貫 麻実は。単なる“溺者”でしかない布施 悠二の従者で。
ずっと――――――彼の敵を探していた?
「マズい…………ッ!!」
先程の轟音は、おそらく綿貫 麻実が個室のドアを蹴破った音。
だとしたら、イズミが危ない!
「イズミ――――!!」
女子トイレのドアのノブを、引き千切る勢いで思いきり引き寄せる。
「由利也クン――! 今はダメ!!」
イズミの制止は、コンマ数秒遅かった。
「クスクスクス! 卑怯なアナタのことだから、単独じゃないと思った――――!!」
俺の目に映ったのは、崩れたドアの近くで膝を抱えて蹲るイズミと――――
――――廊下の一番奥で、
二基の「お茶タンク」を両手に持ち狂ったように呵う、半裸の綿貫 麻実――――!!
「これね、これね! ミズ入ってなくても重いんだよ? 知ってるよね? クスクスクスクス!!」
廊下は想像した以上に幅が狭く、あのタンクを投げられたら逃げ道は無い。
負傷したイズミと、十分な間合いを確保できている俺に対して、余裕の嗤みを浮かべている。
「クソ……っ!!」
こうなったら、もう――――
「イズミ!」
足を抑えながらも、よろりと、体を起こすイズミ。
「な、なに? 由利也クン、早く逃げ――」
「……悪い――――――
――――あそこまで走れるか?」
「――ぇ?」
――――相手が動く前に斃すしかない。
胸のポケットからネジを一本取り出し、手に馴染ませる。
余裕はない。綿貫はすぐにでもアレを投げてくる。
だから――――動きは一連。
右手で左胸からネジを引き抜き、そのままの勢いで体を右回転させる。
その場でステップを踏む。それが助走。
右腕に体重を乗せて体を飜廻す。
そして、瞳が綿貫を捉えると同時に右肘を振り抜く。
狙うは――――左脚だ。
人差し指と中指で摘んだネジを手首を使って投擲る――――!!
「ぅ、あ、……え?」
同時に。
「――――どこ見てるの?」
イズミが地を蹴る。その右手には確殺のファイアー・ドライヤー。
豹の如く低姿勢で廊下左いっぱいを駆走るイズミ。
逆側からは俺の放ったネジが迫る。
両手に持ったままの武器。
追い詰められた綿貫の咄嗟の判断は――――
「まずはこっちッッ…………!!」
当然、走り来るイズミに向け右手に持った方を投げつける。
身体能力を強化された「人外」だけあって、綿貫はすぐさまモーションに入る。
右手に全力を込め、イズミ目がけて――――
――当然、
「つぅッッ…………!!!?」
――読めている、よな?
俺の放った螺子が、綿貫の左脚付け根・腰付近端擦れ擦れを穿つ。
――両手に物を提げた姿勢からでは、そこは動かない。
綿貫の右手を離れたタンクは、勢い良く地面に叩きつけられ、反動で宙へ舞い上がる。
――――潜行り。イズミが迫る。
「くっ…………!」
左手を振り上げ、残ったもう片方でイズミに叩きつけようとする。
が。
「――――遅いっ」
それより疾く、その腕にFDが撃ち込まれる。
「ぐぅッ…………!?」
その傷みにより、綿貫の左手からタンクが落ちる。
両手持ちでFDの“発砲”を行ったイズミは、そのまま右手を滑らし、スカートのポケットからバッテリーを取り出す。
――――装填。
組み伏せ、馬乗りになる。
綿貫の負傷箇所は左脚、左腕。
加えて逆半身を押さえつけられては――――もう為す術はない。
勝負はついた。
「――あーあ。負けちゃった」
全てを封じられた綿貫が、その体に跨るイズミに向けて呟く。
「これが二対一の力だよ。ったく、二人で掛かってくるなっつの」
枯れた喉が奏でる、不慣れな男口調。
イズミは依然無言のまま、右手に持ったFDを綿貫の右胸に突き付け、左手で綿貫の唯一自由の利く右腕を押さえつけている。
「わたしさ、判ってたんだよ。自分がヒトじゃないモノになっていってるの」
イズミは応えない。
「日に日にさ、自分が自分じゃなくなってく感じ。ああ、わたしもあのニセモノみたくなるんだって」
応えは無い。
「だから、死のうと思ってた。悠二のいない世界なんて、何の価値も無いんだしね」
応える者がいないなら、それは独白でしかない。
「ずっと、死ぬ場所を探してた。願わくばこの学校のどこかで死にたいって。すごい愛校心でしょ」
独白は続く。
「それで見つけたのが、ここ。誰も来ない、わたしだけの場所」
流れていく。懺悔の言葉が、ゆっくりと。
「そう思ったらさ、なんか、こう……無性にシたくなったんだよね、アレ」
螺子が外腰を掠めた箇所から、ゆったりと。とめどなく。流れる赤い血。
「……不思議なもんでさ。独りでシてると、思い出すんだ。カレとシたこと」
血に乗せて、なおも流れ続ける。
「アイツはニセモノで、彼じゃないのに。思い出すんだよ、悠二の温もりをさぁ……」
透けた血が流れる。
「だからさ。シてる時は、『わたしは生きていてもいいんだ』って思えてた。だけど――――もう限界だったんだよ」
とめどなく。「彼」のため、「わたし」のため。
「ありがとう、タテマツ先輩。それと、ナトリ先輩も」
この場には。
その言葉に頷くことのできる人間はいない。
「さあ、“撃”ってよ。わたしを――――殺してよ」
「自分」の「シ」を受け入れた彼女に対し、イズミは――――
「――――ごめんね」
一言だけ餞の言葉を添えて、弾鉄を引いた。