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――篭、篭鳥雲を恋う。

 一面濃灰色の雲に覆われた空が、今がいつなのかを曖昧にさせる。

 五月下旬、時刻は五時。湿った空気は肌寒く、太陽を隠された空は暗く沈み。



 ――――カラン、カラン。


 綿貫が体を揺らす度、両手に提げた「お茶タンク」が音を立てる。



 ――――カラン、カラン。


 綿貫の気配が、だんだんと近くなる。彼女は部室棟には見向きもせず、こちらへと歩みを進めている。



 ――――カラン、カラン。


 綿貫は水道へ向かって歩いている。まだ「お茶タンク」を洗っていなかったようだ。



 ――――カラン、カラン。


 悟られないよう、俺たちはプールの陰に体を隠し、息を(ひそ)める。



 ――――カラン、カラン。コツ、コツ。


 綿貫の足音が徐々に大きくなる。



 ――――コツ、カラン、コツ。カラン。


 近い。静寂の中、彼女の革靴が立てる音が辺りに鳴り響き谺する。



 ――――コツ。カラン、カラン。




 ――――コツ、カラン、コツ、カラン、カラン。




 ――――ギイ。



 ――――コツ、コツ。



 ――――バタン。


 ――――――。



 ――――――。



 辺りが再び静寂を取り戻す。蛇口をひねる音も、水が流れ出す音もしない。


「どうやらトイレに入ったようね」


「みたいだ」


 ここと部室棟のちょうど中間辺りにある(くだん)のトイレは、使用率が著しく低い。

 近くにはプールと部室棟しか無いというのに、部室棟には別にトイレが存在するからだ。

 比較的新しく作られたこちらのトイレは確かに幾分清潔ではあるのだが、併設された水道が水飲み場として多くの生徒に利用されているということもあり、わざわざこちらを利用する者は少ない。

 夏の暑い時期、プールが開いてからは水泳の授業の前後に立ち寄る生徒がいるのだが、この5月を含め、そのシーズン以外はほとんど使われていないということになる。


 ――なるほど、人の寄り付かない場所であるわけだ。



 綿貫の気配が完全に消えたことを確認し、イズミが建物の陰から身を出し、辺りを見回す。


「おかしいわ。彼女が持っていたはずのお茶タンクが、どこにも見当たらない」


 ふむ。「音」も、彼女が姿を消すまで絶え間なく鳴り続けていた。俺はてっきりトイレのドアの前に置いたものだと思っていたが。

 しかし、だとすると――――


「トイレの中に持っていった?」


「そうなるわね。……やっぱりおかしいわよ。だって、あのトイレの中には水道は無いんだもの」


 併設された水道は、手洗い用でもあるわけだ。


「だとしたら。何故綿貫はタンクを持ち込んだんだ」


「あのタンクの中身――カラカラ音を立てていたけど、あれはまさか……」


「……EPD?」


 俺がイズミに見せてもらったEPDは、写真・現物ともに極少量だった。タンクの中で音を立てていたのがEPDだったとしたら、それは相当な大きさ、もしくは量ということになる。


「かもしれないわね。何にせよ、不可解な行動であることは間違いないわ」


「……だな」


 生徒の残っていないはずの学校で、独り怪しげな行動をしている。少なからず普通ではない。


 イズミが、コンクリートに置いていたカバンを漁る。取り出したのは……FDファイアー・ドライヤーと、ケーブルのような物――――イヤホン?


「これを貴方の携帯に繋いで、片耳に付けて」


「……? ああ」


 ズボンの左ポケットから携帯を取り出し、平型ジャックをイヤホン端子に差し込む。

 イズミに渡されたイヤホンはモノラル式で、スピーカーが1つだけ付いていた。

 それを左耳に装着する。


「まず、今から私が女子トイレの中に入るわ。中の様子はそれを通して伝えるから、何かあればすぐに入ってこれるように待機しておいて」


 そう言って、イズミが自らの携帯から俺の携帯に電話をかける。


「『聞こえる?』」


 空気を通しての声とイヤホンから流れる声が、コンマ数秒のズレを以て重なって聞こえる。


「ああ、ばっちり」


「オーケー。それじゃ、中に入ったら“集音モード”に切り替えるから」


 そう言って、イズミは綿貫の居る屋外トイレへと歩き出す。

 俺はカバンの中からネジを数本取り出し予備として上着のポケットに入れ、それについて行く。


「くれぐれも音を立てず、声も出さないようにね。私も貴方への呼びかけはしないから、聞こえてくる音から状況を判断して」


「了解」


 屋外トイレの前までやってくる。大きさは公園の公衆トイレほどで、奥に長い形状になっている。

 目の前まで来たが、中からは人の声は聞こえない。どうやらコンクリートの壁は見た目以上に厚く、防音性能に優れているようだ。


 イズミが女子トイレのドアを開け、中へ入る。

 十数秒ほど待つと、イヤホンからザザ、というノイズが聞こえた。


 そしてノイズは徐々に弱まっていき、次第に「周囲の音」を伝え始める。


『――――――――ぴちゃ、ぴちゃ。』


 水音。


『――――カツ、カツ、カツ、』


 イズミの靴音。



『――――ぴちゃ、ぴちゃ。……っ、は……。ぁ……。』


 水音。微かに、誰かの声。



『――――カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、』


 絶え間なく靴音が響く。どうやら建物の中はかなり広いようだ。



『――――ぁ……、ん、は………。』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ。』


 微かに聞こえる声――――嬌声は、水音と連動している。



『――――カツ、カツ、カツ、』



『――――カツ。』


 イズミの歩みが止まる。建物の奥に着いたようだ。

 ――つまり、個室の使用状況を確認し終えたということ。



『――――カツ、カツ、カツ、カツ、』


『――――ぁ……ん……はぁ……、んっ…………。』


『――――ぴちゃ。ぴちゃ、ぴちゃ。』


 尚も嬌声は止まず、むしろ声量を増している。水音も、今までとは違う細かな音が聞こえ始めた。


 それが意味するのは――――イズミが、声の主の元へ近づいているということ。



『――――カツ。』


『――――んっ……ぁ、は……、あ……、ん……、はぁっ……あっ……。』


『――――ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃぴちゃ。』


 イズミが足を止める。響く声と水音は、これまでで最大の音量となった。


『――――あ、は……、ん……んぅ……、ぁ……んんっ…………。』


『――――ぴちゃ、ぴちゃぴちゃ、ぴちゃ。』



『――――――――ふぅ。』


 イズミの呼吸。どうやら、息を落ち着かせているようだ。




『――――――――綿貫さん』


 そして、嬌声の主に声をかける。


『――――ぁ、ん……ふ……ぁぁ、ん……あっ……。』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、』



『綿貫さんっ!』


『――――ぴちゃ。』


 水音が止まり、同時に嬌声も止む。



『ここで何をしているの?』


 敵意を隠し切れない、半ば脅すような声で語りかける。


『――その声、タテマツ先輩。どうしてわたしがここに居ることを知ってるんです?』


『悪いけど、跡をつけさせてもらったわ。――――答えて。ここで何をしているの?』



『――――ぴちゃ。』


『――――何って、んっ……、……ナニ、してるんですけど。……先輩。んっ……、気が散るんで、……はぁ……、帰って、もらえます?』


『断るわ』


『…………へぇ。』



『――――ぴちゃ、ぴちゃ、』


『――――あ、……んうっ……、は……、……ぁ…………。』


 沈黙の代わりに、水音と綿貫の微かな嬌声が響く。


『スポーツドリンクを入れていたバスケ部のお茶タンクが、そこにあるわよね。』


『………………。』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ。』



『中に何が入っているの?』


『………………。』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ。』



『答えなさい。』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ。』


『……ぁ、ん……、なか、み? 別に、んっ、何も入って、ぁ……、ないっ……ぁ……。』


『そう? じゃあ、何でここに持ち込んでいるのかしら?』


『………………。』



『――――ぴちゃ、ぴちゃ。』


『……って、さぁ、センパイ。んっ……。なんでわたしのこと、んっ……、つけて、たんです?』


『あなたの行動が不審だったからよ。』



『――――ぴちゃ。』


『……そうですか。バレないようにしてたんだけど、ダメだったか。』


『ええ、十分怪しかったわ。』



『――――ぴちゃ、ぴちゃ。』


『ハァ……。で、どうしますよ。私の秘密は、んっ……、こんなん、でしたよ?』


『そうね、意外といえば意外だわ。こんな所でそんな事をしてるとは、さすがに思わなかった』


『んっ……、でしょうね。――――で、どうして帰らないんですか? もしかしてセンパイ……、』


『悪いけど、そういう趣味は無いわ。』



『――――ぴちゃ、』


『そうですか。……ぁ、ん……、じゃあ、何でですか? わたし、イクまでずっとこうしてる、と……んっ、思います……んっ……、けど。』


『そう。正直不快だわ。人と話すときくらい手を止めなさい。』


『……んっ、いや、です。……ぁ、んぅっ……』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ。』


 彼女は、依然(おと)を止めようとしない。



『――――ぴちゃ、』


『ん……、……は…………。』


 しばし、水音と彼女の嬌声の混じった沈黙が続く。


『――――ぴちゃ。』


『……ぁ、は…………、…………。』


 水音は変わりなく、しかし嬌声は徐々にその勢いを失っていく。



『……綿貫さん。』


『…………ああ、もう小さくなっちゃった。』


 何かを残念がる綿貫。そして、


『――カラ、カラカラカラ。』


 大量の何かが転がる音。


『ねえ。今の、タンクの中身でしょう? それは何?』


『――――カコ。』


 先程と似た、しかし篭った音。


『んんん……っ! ああっ、ぅん……ぁ……く、ふ、ぁあっ…………!』


 嬌声が突如激しさを増す。


『――あなた。今、何かを口に含んだわね……? 綿貫さん、何を口に入れたの?』


『あ、んんっ……、は、ぁ……く、んんん……ふ、ぁ……んっ、ああっ……!』


『綿貫さん!』


『んんっ、く、ぁ……、はぁ、……これ? 別に、何でもない、です、よ……はぁ、はぁ、んっ……。』


『何でもない物を口にしてそう(・・)なるわけないでしょう! あなたのそれ(・・)は明らかに――――クスリを使ったときのそれ(・・)だわ!』


『んんんっ……!! わ、たし……んっ、くすり、なん……て、もって、ない……んんっ……!』


 彼女の声は、もはや苦しげにも聞こえる。


『そう。――――なら、なおさらね。教えなさい。今、あなたの口に入っている物は一体何?』


 綿貫が口に含んでいる物。……つまりそれは、


『んっ……、あなたには……ん、おしえ、ない……。おしえても、……ぁ、いみ、ない……んんっ!!』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ、』


『こんな、もの、で……、キモチよくなれる、の……、わたしだけ、だか、ら……ぁ、んっ…………。』


 ――――“溺者(ドランカー)”の酩酊(トリップ)切替符号(スイッチ)


 “溺者”は通常の麻薬患者と異なり、そのクスリそのものではなく、あるスイッチによりトリップ状態となる。しかし、イズミが言うには今までそのスイッチが何であるのかは把握できていなかった。

 先程の綿貫の変貌具合は異常だった。イズミがいうように、その様は俺にも麻薬中毒者を連想させた。

 なら、今綿貫が口にしている何かがそのスイッチであるとみて、ほぼ間違いないとだろう。


 だがそれは、同時に――――


『そうね。あなたたち“溺者”は普通の人間じゃない。』


 綿貫 麻実が“溺者”であることを確定させてしまっている。


『……その言い方。何か知っているようですね、わたしの体のこと。』


『ええ、知っているわ。少なくとも、あなたよりはね。』


『――――詳しく……聞かせてもらえる? タテマツ先輩』


 水音も嬌声も、気付けば止んでいた。彼女たちの会話の隙間を縫って聞こえてくるのは、針の落ちるような沈黙。


「雨……」


 辺りを見回すと、漆黒の空から細かな雨が地面へと降り注いでいた。

 幸い、俺が立っているこの場所は建物の(ひさし)の真下で、体やカバンは濡れずに済んでいる。



『その前に一つ。――――あなたをその体にしたのは、布施 悠二ね?』


『…………。……なんだ。センパイ、わたしが何も言わなくても全部知ってるんじゃないですか。』


 綿貫が自嘲的に溜息をつく。


『大体の事情は読めているわ。あなたの口から答えが欲しいのよ。』


 イズミは、「綿貫 麻実は“大人(ライヤー)”あるいは|“溺者”である」と言っていた。

 ……つまり。綿貫が“大人”でない可能性なんて、最初から考慮していたのだ。


『……はいはい。一日に二回も失恋バナシをしなきゃいけないなんて、今日はとんだ厄日。』



   綿貫 麻実は、布施 悠二に片思いをしていた。


『わたしね、この学校に入ったときからあの人のことが好きだった。たまたま見かけたの。彼が放課後バスケットをしているところ。』



『――――ぴちゃ、』


『完全に一目惚れ。顔も、体も、その動きも、仲間と話す彼の声、挙動、ああ――――全部が大好きになった。』



『――――ぴちゃ、』


『んっ……。それで、何としても彼とお近づきになりたくて、バスケ部に入部した。運動はからっきしダメだから、マネとして。』



『――――ぴちゃ、』


『彼は、んっ。そんな下心見え見えのわたしにも、優しかった。ろくに仕事もしないで、ぁ、ん……、他の部員とはまるで打ち解ける気が無い、わたしにも。』



『――――ぴちゃ、』


『それで、思ったのね。ああ、この人もわたしと同じで、スケベな理由でわたしと仲良くしてるんだ、って。ぁ……っ……、じゃなきゃ……こんな露骨に求愛してくるわたしに対して、優しくする理由がないもん。』


『――――ぴちゃ、ぴちゃ、』


『ぁ、だからわたし、んっ、コクハクした。善は急げ、よ。ほら、彼だってわたしのことを欲しがってるに違いない、って。本気でそう思ってた。』



『――――ぴちゃ。』


『断られた。違ったの。彼はそんなんじゃなかった。彼は本当に優しいだけだった。自分まで冷たくしてしまったら、わたしが独りぼっちになっちゃうからって。……わたし、バカみたいでしょ。優しいセンパイ相手に勝手にハツジョウしてた、卑俗な女。』


 水音が止む。


『――でもさ、納得いかなかった。何で? 何でわたしがこんなにもあなたを好きだって言ってるのに。だって、都合いいでしょ? 彼女もいないって言ってた。ならいいじゃない。タナボタでしょ? わたしはあなたが好きで好きでたまらない。付き合ったら、絶対あなた好みの女になれる。それでも断るのか! ……って、怒鳴ってやった。』



『――――ふ。』


『そしたら彼、こう言った。俺は遠東先輩を尊敬してる。俺はあの人のようになりたい。綿貫が俺を想ってくれているのと同じくらいの気持ちで、俺はあの人に憧れてる。バスケットで、俺はまだまだあの人の足元にも及ばない。なのに、今は練習量だって負けてるんだ。本当に勝手だけど、俺はバスケ以外のことに現を抜かしていられないんだ。ほら、キングだってモテモテだけど、彼女はいないらしいしさ。――――だから、ごめん。綿貫の気持ちは本当に嬉しいけど、今の俺ではそれに答えられない。』



『――――ハァ。』


『思わず笑っちゃった。いつも静かで寡黙な彼が、いかにも不器用な口調で、いきなり語り出すんだもん。』



『――――ふぅ。』


『でも、それですっきりした。ああ、わたしはフラれたんだ、って。……だけど、残念ながらわたしの高校生活から「彼」を除いてしまったら、なんにも残らないわけ。だからわたしは、彼の夢――フフ、――キングになるんだって夢を支えることにした。』



『――――ぴちゃ、』


『まずは形からだ、って言って、髪を遠東先輩みたいな茶色に染めさせたりね。それで……、んっ、後からわたしもしれっと同じ色に染めてみたりして。』



『――――ぴちゃ、』


『わたしは……んっ……、それでシアワセだった。だって、そうでなくても彼はいずれこの部の部長になる。だって、同学年は二人しかいないのよ? だったらわたしはのんびりそれを待つだけでいい。彼が――フフ、――キングになったら、もう一度コクハクすればいいんだ、って。気長に構えていたわけ。』



『――――ぴちゃ。』


『……んっ、……ふ、ぁ……、……でもね。ご存知の通り、そのもう一人が癖者だった。』

 



『――――角、寧子。あいつは、彼の優しさを唯一拒絶した人間。』

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