――籠、彼女らを集わせるもの。
――夢か、それとも。
「あ、いたいた。香早生、あいつは――――って」
角さんだ。
――今、耳に届いている声か。
「せ、せんぱい……」
ケロちゃんだな。
――目が開くまで判断がつかない。
「角さん、ちょっと手伝ってもらえます?」
――――誰だ?
「……わかりました。香早生、一緒においで」
「寧子、香早生ちゃんいた? ―――― っ!」
お前、遅いって。
――ああ、これは今じゃない。
「悪い、イズミ。カバンの方よろしく」
――思い出した。
「――わかったわ」
……中身、見るなよ。
――そう、これは。
「――――つーか、触んなって」
「うおぃッ!?」
夢が示すとおり、今まさに俺のカバンはまさぐられようとしているようだった。
ただしイズミによってではなく、三日ぶりに顔を合わせた坊主頭に。
「寝言かぁ? ったく、ビビらせんなよな」
そう、俺の右斜め前。カバンにすぐ手が届く位置に、席を離れた芳邦 健が立っている。
眠い頭が急速に状況把握を開始する。
「芳邦。今、何時だ?」
俺は二時間目の前にはイズミに起こされることになっていたはずだ。なら、今はまだ一時間目の途中か?
「今? 四時間目だよ。星野先生が風邪引いたらしくて丸々自習時間。もうすぐ終わりだけどな」
……なんだって? それじゃ、俺は国語の時間を寝過ごしたってことじゃないか。
まったく、イズミはどうして起こしてくれなかったんだ。と、教室前方、真ん中列前から三番目の席を見る。
「…………」
「珍しいだろ? あの立松嬢が居眠りなんてさ」
上半身を小さく縮こませ、肩を静かに上下させているイズミの姿。その周りでは、テニス部三人娘がクスクスと笑いながらそれを眺めていた。
――ああ、そうか。あいつは今朝、俺を起こしに来た。つまり、俺よりも全然早く起きていたってことになる。なら、ああして寝てしまうのも無理はないと言える。
だけどさ。あの子にならまだしも、いけ好かない国語教師にまでイズミの寝顔を見られたと思うと、悔しくて仕方がない。俺だって、一度も見たこと無いのに。
「……起こしてくる」
「やめとけって。そんなことしたらお前、あの三人に本気でからかわれることになるぜ。ただでさえ、一緒のタイミングで寝てたってことで怪しさ全開だってのに」
……あー。それは面倒だ。イズミに低俗な噂が付き纏うって時点で、吐き気がするほど拒絶感。
「……チャイムで起きてくれるかな」
「もう八回鳴ってるけどな」
カカ、と笑う芳邦。そうか、イズミも朝のHR前には寝てたのか。だとすると、いくらかの生徒が人気の無い教室で俺とイズミが揃って寝ている姿を見たということになる。
……はぁ。
「でも、あれだろ。どうせ昼になったらヤツが来やがるから」
「ヤツ――角さんのことか?」
そういえば、こいつは何故か角さんを敵対視しているんだっけ。
「おう。あの化け猫ヤロー、毎日のようにここに来っからなぁ」
「お前さ。なんでそんなに角さんのことキツく言うんだ?」
こいつには遠慮なんかいらんだろう。直球で疑問をぶつけてみる。
「ヤツとは古い縁なんだよ。因縁ってやつだ。ま、お前にゃ教えてやんねー」
ケタケタと笑う。こいつはほんと、いつでも可笑しそうにしてるな。幸せなヤツだ。まったく。
「それよりよ。お前、なんで学校休んでたんだよ? もしかして彼女」
「違えっつの! しつこいヤツだなお前も。風邪だよ、風邪」
ちょっと声を張り上げてしまったせいで、高峰の席の前に座るおかっぱの女子生徒にギロリと睨まれる。
「へー。その割には髪なんか切ってきたんだな」
見るからに髪なんかには無頓着そうなこいつが触れてくるなんて、やっぱり切りすぎたか。
「体調が回復してから自分でささっと切ったんだよ。って、どうでもいいだろ、そんなこと」
「どうでもいいっちゃどうでもいいな。んで、それ昨日か?」
どうでもいいと言いつつ、何故掘り下げる。
「そうだけど、何でだ?」
「いやね。お前が休んだ初日、面白いことがあってさ」
なにやら笑いを堪えている様子の芳邦。何だ? こいつ笑いの沸点が低そうだから、どうせたいしたことじゃないとは思うが――――
「なんと。バスケ部が早上がりしたんだよ。そんなことって、そうそう無いぜ?」
ケラケラケラと大笑い。――ああ。何を言わんとしてるのかわかったら、イラっときた。
「……黙ってろ。黙ってろよ? 余計な波には立ってほしくないんだ」
「はー、そっすかそっすか。やっぱモテる男は違いますなー」
からかわれ慣れてないから、こういう時どういう返しをしたらいいのかわからない。笑えばいいのか? ……いや、違うよな。
「ざっけんな、絶対黙ってろ。大体俺と角さんは別に――!」
しまった。
「おや、なんか誰かさんの名前が出ましたな。誰、誰? お前と誰が何だって?」
「違えって言ってんだろ! ったく、お前は俺をからかえれば何でもいいのか?」
「――さっきから煩いんだけど。自習時間くらい黙っててくんない?」
先ほど俺をガンを付けた女子が、とうとう痺れを切らして注意しに来た。
「っと、悪い。気を付ける」
俺の返事を聞いて、再びの鋭い視線だけを残して去って行く、
「……つかさ のりこ、だっけ?」
「お、よく知ってるな。ガリ勉組の名前なんて」
……いや、お前が教えてくれたんだ。
「うぃーすっ。来ましたよー、なっちゃん」
四時間目終了のチャイムが鳴ると共に、臙脂色のジャージを着た角さんが教室に入ってきた。
「来やがったなっ!」
芳邦が身構える。
「や、角さん。あれ、着替えたんじゃなかったっけ?」
「着替えましたよ? これ二着目です。正確に言うと四着目だけど」
ジャージからジャージに着替えたのか。……というか。部のやつならまだしも、学校指定のをそんなに持ってるのは何故だ。
「ネズ子は…………あれあれ、まさかあの子寝てる?」
「そのまさかだよ。角さんちょっと起こしてきてくれるか?」
テニス部三人娘は、それぞれそのまま自分の席で弁当を開け始めた。つまりは未だイズミを囲っているってことだ。俺では到底近付けない。
「リョーカイっす。あ、ケロ子が来たら教室に入れてやってください。あの子、下手したらドアの前で尻込みするかもしれないんで」
「おー、わかった」
……なら、一緒に来ればいいのに。
それにしても、今朝見た部活中の角さんと普段の角さんはまるで別人だな。あの熱血キャプテンが、今は昼間の野良猫のようにふやけている。オン・オフのスイッチが効いているって感じか。
そういうところも、前部長である和輝の特徴をしっかり受け継いでいるといえる。
ふと視線を彼女からそらすと、ファイティングポーズをとったまま動かない芳邦がそこにいた。
「ガン無視……だと……」
哀れ、芳邦。くじけるな。
「ほら、起きる」
角さんがイズミの肩を揺する。
「……んー? ……んん。…………、………………」
頭を起こしたかと思えば、再びそれを机に下ろしてしまった。
「こらこら、寝ない寝ない。ほーら、もうお昼よ」
「…………ふぇ? にじかんめ? わたし、ゆりやクンおこさないと……」
「ゆりやクン」に反応して、三人娘がクスクスと笑う。
「……角さん、そいつの頬を思いっきりつねってやってくれ」
寝ぼけコントはもうこりごりなので、いたずら猫に指示を出す。
「ガッテン承知の介。くすくす」
ネコがニヤリと笑う。
「っ――――!? いたっ! いたたたたたたたたた! いたっ、いたいって!」
俺の席からではよく見えないが、どうやら角さんはかなり力を入れてつねったらしく、あれだけ寝ぼけていたイズミが途端に飛び起きた。それを見て、三人娘は更に笑う。
「おはよ、イズミ。あんたが居眠りなんて珍しいね」
くすくすと笑う角さん。
「ぇ? 私、寝ちゃってたの? …………」
俺の方へ振り向くイズミ。彼女が起こすはずだった俺は、もうとっくのとうに起きている。
「あ…………ごめんっ、由利也クン!」
「あー、いや。それはいいからさ」
早く――――そのぼさぼさの髪を整えてくれ。可笑しくて仕方ない。
と、後ろからくす、という小さな笑い声が聞こえた。
「――入っといで、ケロちゃん」
「けろっ!?」
気付かれていないと思っていたらしい彼女は、珍妙な声を上げて跳び上がっていた。
一方、
「これが、人のモテ期っていうやつか……」
芳邦はそう呟いて、前の扉から廊下へと歩き去っていった。その手には弁当。昼休み、野球部は毎日昼食がてらミーティングをする決まりになっているらしい。
そうして三日前と同じように、俺の前には四つの机が並べられた。
「それにしても、なっちゃんの風邪が長引かなくてよかった。うん」
それぞれが弁当を食べ始めた時から続いていた「今年の“五月梨”について」の話が終わった頃。特大のクリームパンを頬張りながら、角さんが急にそんなことを言い出した。
「ほんと。昨日一昨日のニャン子の不安定っぷりったらなかったものね」
コンビニ弁当のきんぴらゴボウを割り箸でつっつくイズミ。
「ちょ、そんなことないってば!」
半分が欠けたクリームパンを右手に持ったまま、あたふたと両手を動かす角さん。珍しいな、この人がこうも取り乱すなんて。
「ごめん、心配かけて」
俺はプラスチックのスプーンで冷めたグラタンを掬って食べている。
ああ、そうそう。なんとこれは今日の昼食の準備をしていないであろう俺のために、イズミが朝のうちに買っておいてくれたものなのだ。
「あ、いえいえ。そんな……」
照れ笑いをする角さん。この笑顔が見られたら、芳邦だって彼女にキツく当たったりはしないだろうに。
「そうね。由利也クンが復活してくれて、ようやくニャン子も元通りになってくれたって感じ」
既に空に近い弁当容器の上で箸を迷わせているイズミが、嬉しそうに言う。
「いえ、部長は全然元気じゃないですよ?」
何事もなさそうにそんなことを言ってのけるのは、中身を食べ終わった黄緑色の弁当箱を閉じ、両手を合わせるケロちゃん。
「ごちそうさまでした」
「ちょっと。ケロ子、それどういう意味?」
元気が無い、と言われた本人自らが文句をつける。
それに、ストロー式の水筒でお茶を飲むケロちゃんが応える。
「どうもこうも無いです。部長はもうちょっと私や泉先輩、名執先輩に甘えても良いと思います」
あれだけ大きかったはずのクリームパンをぺろりと平らげた角さんがそれに反論。
「十分甘えてると思うけどなぁ? これ以上頼ったら、私ゃ堕落しちゃうよ。ベルフェゴっちゃう」
茶化す角さんに対し、ケロちゃんはやれやれといったジェスチャーで返す。
「誤魔化さないでください。……昨日だって、私たちを付きあわせといて結局何の相談もしてくれなかったじゃないですか」
「だからー。相談なんか無いってばさ」
延々と繰り広げられる角さんとケロちゃんの不思議なやり取りの横で、俺とイズミは顔を見合わせ、お互いに首を傾げることしかできなかった。
そして、そうこうしているうちに昼休み終了のチャイムが鳴る。
「それじゃ、私らはこれで。二人とも、放課後の部活も今朝くらい早めに顔出してくんなましー」
くすくす、といつもと変わらぬ様子で去って行く角さんに対し、何も言わず教室を出て行ったケロちゃんはやはり何か思い詰めている様子だった。
「何か知っているのかもね、あの子」
「かもしれないな」
だけど、ケロちゃんは勘が良い子だからあまり探りを入れすぎるとマズいことになるかもしれない。ここは聞き出すチャンスを待つべきだ。
「――さてと」
机を片付け終わる。さあ、憩いの昼休みは終わった。
あとは――――
「寝るんでしょ? おやすみなさい」
お、そうそう。俺のことがわかってきたじゃないか。
腹が膨れたことに、俺の体に残留していた眠気が刺激を受け――――――
落ちる。
そして目を覚ました俺を、無人の教室が出迎えた。
「あれ?」
壁にかかった時計を見ると、時刻は既に午後三時を回っている。そう。部活開始時間はとっくに過ぎてしまっているということだ。
教室中を見回しても、イズミの姿は見当たらない。もしかして、なかなか目を覚まさない俺を置いて、先に体育館へ行ってしまったのだろうか。
机の右側にかけておいたカバンを手に取って教室を出ようとした時、
「あ、由利也クン。起きてたんだ」
廊下から、イズミに声をかけられる。その手にカバンは無い。振り返って見てみると、イズミの机の上に彼女のカバンが置かれていた。
目覚めてすぐとはいえ、そういう重要な情報を簡単に見落としてしまう俺の注意力の欠如は如何なものかと思う。
「イズミ。どこ行ってたんだ?」
「ん、福住先生のところよ。体育祭実行委員の関係のプリントを取りに行ってたの。寝てた貴方は聞いてなかったと思うけど、帰りのHRで連絡があったのよ」
それはそれは。でも、多分だけど…………その連絡は朝のHRでもされていたんだと思う。うん。あ、いや、あくまで予想だけどさ。
「それって、この前集まった時言ってた『次の招集』についてのプリント?」
自分の席にカバンを取りに向かうイズミに問いかける。
「ううん。それはもう昨日終わったわ。――あ。その時の内容もこのプリントの内容も、ぜんぜん大したことじゃないから、次に集まりがあった時に伝えるわね」
そうだな。今はバスケ部のことだけを考えていなくては。
「次の集まりって、いつ?」
「んー、来週の初めだったかな」
よいしょ、とカバンを背負うイズミ。……FDをはじめ、あれだけ色々な物が詰まっているはずなのに、はたから見ると至って普通のカバンに見える。
「じゃ、行こっか」
カバンを見つめていた視線が、ふとイズミの視線と重なる。
「おう」
行こう。角さんと、ケロちゃん――――そして、綿貫 麻実が待つ体育館へ。