――籠、彼女らを惹き付けるもの。
「あ、ネズ子。おはよー。――って、後ろのは何様?」
「どうも、俺様です。おかげ様で完治致しました」
軽口で返した後、『何様』が髪を切ったことに対する反応だったと気付く。
「どう? 可愛いでしょ、この子」
にやにや顔を浮かべたイズミが、俺の頬を指で突っついてくる。ええい、やめい。
「うーん、私にゃ判断しかねるなー。くすくす。おーい、ケロ子ー」
倉庫の方を振り返り、そこで作業しているらしいマネージャーの名を呼ぶ。体の動きと連動して黒いポニーテールが大きく揺れた。
「部長、どうかしました? ――あ、泉先輩。それと……えーと…………」
「……いらないから、そういうの」
高校に入学してからのケロちゃんの俺に対する態度は、はっきり言っておかしい! 以前はもっと、こう、……優しかった? まぁそんな感じ。お兄さん悲しくなってきました。
「今日は二人だけ?」
キョロキョロと体育館を見渡すイズミ。その目は、明らかに綿貫 麻実の姿を探している。
「おうよ。うちのマネ共はほんっとやる気無いからねー。ケロ子がいてくれて本当に良かったよ」
前は『どうしてマネージャーになったんだ』みたいなことを言っていた気がするが、それはまぁいいか。
「何か手伝えることとか、あるか?」
七時半からは練習が始まる。それにしては、その準備が整っているようには見えない。
「おー、なっちゃんは見上げた男ですなぁ。じゃあ、タンクに水でも入れてきてもらいましょうか。ケロ子、タンクどこ置いたっけ?」
「うーん、あれはいつも綿貫先輩が片付けてるので……。多分部室、だと思いますけど」
綿貫、という言葉を聞くや否や、イズミの表情が一瞬鋭くなった。
「わかった、じゃあ行ってくるわ」
「あれ、あんたも行くの?」
角さんから当然のツッコミが入る。
「私は水汲みやったことあるし、ドシロートの由利也クンに直々にレクチャーしてあげるってわけ」
「ふた開けて濯いで水入れるだけですけどね」
「しゃらっ。行くわよ、由利也クン」
「お、おう」
俺の腕を掴み、開け放たれたドアに向かってつかつかと歩き出すイズミ。ちょっと、強引すぎやしないか?
「『綿貫 麻実は、部活終了後率先してお茶タンクを洗う仕事を引き受ける』。ケロ子ちゃんに聞いた情報その一よ。」
「はぁ、そうですか」
誰もいない中庭――すなわちテニスコートを縦断して、2人で部室棟へと向かう。
まったく、それを俺に伝えたいがためにあんな赤面ものの行動を取ったのか。
「どうやらその行為の意味がわかっていないようね。もしかして寝ぼけてる?」
「まぁ、眠いといえば眠いな。朝、早かったし」
うむ、丁度いい眠さだ。これなら今から約一時間後、朝のHRの時間からぐっすり眠れることだろう。
「つまりね。綿貫 麻実が、部活終了後に決まって独りきりになっているってわけ」
「なるほど。それは怪しい」
俺たちを見下ろしている二つの校舎からは、人の気配がしない。
部活終了後といえば、今と同じくらいか、それよりも更に人気が無いはずだ。活動を終えた生徒たちはそそくさと学校を後にするし、部活の顧問をやっている教師たちだって、用も無く長居はしない。
「綿貫が先に帰るところを、誰も見ていないって話。部室の鍵はちゃんと閉めてるようだからって、寧子はそこまでそれを問題視してないみたいだけどね」
「へえ。鍵、綿貫 麻実に持たせてるのか?」
部室の鍵を紛失したりすると、色々と面倒なことになるはずだ。角さんはそんな大事な物を預けるほど、綿貫 麻実を信用しているんだろうか。
「ああ、部室の鍵は基本は部長管理だけど、どこの部も出所不明の合鍵が存在してて、バスケ部はそれが何本もあるから。多分二、三年生は全員持ってるわ」
「なるほどな。――んで、バスケ部の場合、出所ははっきりしてるだろ」
「まぁ、そういうことになるわね」
そんなハイリスクなことを平気でやってのけるのは、遠東 和輝の他にいるはずがない。
「ということは。まさか、お前も鍵を持ってるんじゃないよな?」
そう、角さんは俺たちに部室の鍵を持たせなかったのだ。
「冗談。前に渡されそうになったけど、さすがに断ったわよ。ネコが鍵を渡さなかったのは、この時間なら誰かしら部員がいるからよ」
部室棟は、確かに人で賑わっていた。この人の数は、きっとバスケ部員だけではない。チャラチャラしたのはサッカー部。坊主頭は野球部。それから――――
「あれ?」
俺の目に入ったのは、基本的に静かなうちのクラスで例外的に騒がしい、あの三人組。
三人とも制服姿で、朝から何やら賑やかそうにしている。
「ああ、テニス部? テニス部も朝練やってるわよ。八時開始だから、これから登校してきてコートにネットを張ったりするんだと思う。さ、中庭が通れなくなる前にちゃっちゃとお仕事済ませましょ」
「うい、了解」
と、三人娘の一人杉山 零と目が合う。彼女は眼鏡越しの淡褐色の瞳で俺をちらりと見た後、敬礼を思わせるポーズで挨拶を送ってきた。かと思えば、何事も無かったかのように再び久留米 珠月と会話を始めている。
……不思議な女子だ。背が低く、艶やかな黒髪を胸ほどまで伸ばした姿は、まるで日本人形を思わせる。普段そんな印象を抱いたことは無かったのだが。
それはきっと。正面から見ると、人形に似合わぬフレームの細い眼鏡をかけているから。
「あれ? イズミ?」
一瞬目を離した隙に、隣に居たはずの少女はどこかへ姿を消してしまった。
「由利也クーン、こっちだってばー!」
居た。部室棟の真ん前で、大声を上げて俺を呼んでいる。
……やめてくれ。はっきり言って、物凄く恥ずかしいんだが。ほら、あの坊主頭。あいつ、この間芳邦と一緒にいた野球部員だ。あとで絶対芳邦にからかわれるんだろうな。はぁ。
……よし、ヤツが教室に来る前にさっさと寝てしまおう。そうだ、それでいい。
そして、当のイズミは、『聞こえてないの?』とでも言いたげな顔を浮かべている。ああもう。第二声を上げられる前に、彼女の元へ行くとしよう。
「もう、人が目を離した隙にどっか行っちゃうんだから」
……それは俺のセリフだ。まったく。
彼女の足元には、二基のウォーター・ジャグ――角さんに言わせれば「タンク」が置かれている。
「ここで干してたみたい。さ、洗って水入れるわよ。あ、水は部室棟の横の水道からね。そこ以外は鉄が混じりすぎてて飲めたものじゃないから」
部室棟の横の水道。言葉を濁しているが、要するにそれは「トイレの外の水道」でもあるわけで。
「あそこで水を汲むのか。トイレを使った人が出てきたら、思いっきりご対面することになるな」
「そうね。だからかもしれないけど、あそこのトイレを使う人はあまりいないわ。使うとしても、部活動の生徒がここにいない時間帯ね」
「ま、そうなるわな」
俺とイズミは、それぞれ一基ずつタンクを手に提げ、件の水道へと向かった。
「うわっ……重いなぁ、これ」
水で満たされた「お茶タンク」を持ち上げようとして、思わずずっこけそうになる。
「ほんと――――貧弱ねぇ」
対してイズミは片手でそれを持ち、冷ややかな顔をしている。まったく、その細い腕のどこにそんな力があるんだか。
「中庭、通れなさそうだな」
先ほど通ってきた中庭から、木戸 つばめの元気な声が聞こえてくる。今頃はもう立派なテニスコートと化していることだろう。……ちょっとのんびりやりすぎたか。
「仕方ないわね。回り道して行きましょ」
はぁ。こんなクソ重たい物を持って敷地内を半周か。気が滅入るな。
先を行くイズミを追って、渋々歩き出す。
水道へ背を向けた時、後ろでキイとドアの開く音が聞こえた気がした。
「相葉! 西小野! 早く着替えて来い! ――おっ、おつかれぃ。そこ置いといてくれる?」
タンクを持って体育館に着く頃には、すでにバスケ部員がいくらか集まっていた。ちなみに、活動開始時間はとっくに過ぎている。
「だはーっ! 疲れた!」
ようやく数キログラムの呪縛から解き放たれる。なんだってこのタンクはこんなにデカイんだ。もっと小さいのでは駄目なのか?
男女一個ずつじゃないと駄目なんですか? 二個ずつじゃ駄目なんですか?
「さて。練習も始まるようだし、私たち見学者は邪魔にならない所に移りましょうか」
「え? どこに?」
バスケ部は体育館を丸ごと使うはずだ。邪魔にならない所って言ったら、体育館後方に積まれた体操用マットの上と――――
「あそこしかないでしょ。ステージの上よ」
そこ……だよなぁ。
想像する。ステージの上でイズミと二人で並んで座り、練習をしているバスケ部員たちを見下ろしている自分を。――――真面目に練習をしている自分たちを見下すかの如く女子とイチャつく謎の学ラン男を見た、部員からの反応を。
「男子には因縁付けられかねんな……」
ひたすら憂鬱だ。
ちなみに、ステージの上というのは本来マネージャーの居場所らしく、再びあの重いタンクをそこまで運んでいく羽目になった。勘弁してくれ……。
「すいませーん、遅刻しましたぁ」
そうして彼ら/彼女らの熱心な練習風景を眺めて二十分ほど経過したのち、体育館に腑抜けた女子の声が響いた。
髪を明るい茶色に染めたその女子は、上はブラウス一枚、下は極限まで短く折った制服のスカート、肩には奇妙な色使いのリュックサックを提げている。
「――来たわね」
「えっ?」
それまで眠そうに選手たちを眺めているだけだったイズミが、ぽつりと呟く。
「綿貫ー……。マネージャーは何時に来て準備か、わかってるよなぁ?」
角さんは、どうやら部活になると口調が激しくなるようだ。漂う部長の貫禄。だけど、笑ってしまう。
何故かって――――あれじゃ、完全に和輝の口真似だからだ。
っと、そうじゃなかった。
「あいつが綿貫 麻実か……」
染めてから幾分時間が経ち、ところどころ黒くなっている茶髪。右耳に光る派手な銀のピアス。胸ギリギリまで肌蹴た皺の多いブラウス。その首元に、二年の学年カラーであるオレンジのリボンはもちろん付けられていない。
「不良か。イメージ通りだな」
綿貫 麻実は、彼女にまつわる話を聞いた俺が想像した通りの姿をしていた。言っちゃ悪いが、ああいうルックスの人間はロクでもないヤツだ。ああ、偏見で結構。
「ま、若干の事情はあるんだけど……そう思っておいてくれて構わないわ」
「はいはい。それじゃ、今日もタンクに水汲んできますよ。それで文句無いでしょ?」
「生憎だけど、今日はもうそれ済んでるから。あんたの仕事は無い。帰りたかったら帰りなさい」
「ちっ……。なんだよ、人の仕事奪うなよな! ったく!」
角さんと綿貫 麻実の小競り合い。それを俺たちはステージの上から遠巻きに眺めていた。
「あー、今のでわかったぞ」
今の、まるで板についていない男口調。彼女は不良なんかじゃない。
「でしょ? 彼女のあのルックスは、布施 悠二に影響されてのもの。口調だって、それに見合ったものを無理に使っているだけよ」
「なるほどな」
その綿貫 麻実は、外靴を脱ぐこともなくそのままどこかへ去っていってしまった。
「追うか?」
「ダメよ。彼女の跡を付けるのは、仕掛ける時だけ。心配しなくても、この時間に目立つことはしないはずだわ」
時刻はすでに八時。朝の活動時間は八時十五分までと決められているので、もう少ししたら部活動をしていた生徒が校内をうろつき始める。
「立松先輩、水一杯貰えますか?」
髪を短く刈った長身の男子が、俺の横に座っているイズミに声をかける。ついでに、俺のことを鋭い目で一瞥した。
「あ、千葉くん。ちょっと待ってね」
イズミは傍らに置いたタンクの水をプラスチックのコップに注いで、千葉と呼んだ男子に手渡す。
「ありがとうございます。――――――あれ……ぬるいな」
そんな感想を残し、「どうもです」とコップを返してそいつは去っていった。
「ただの水道水だもの、当たり前じゃない。汲んだのだって、もう随分前だしねえ」
不満げにそう漏らすイズミ。
……何かがおかしい。
だって、あの水道の水は元々冷たくなんかなかった。
「放課後はちゃんと時間通りに来ること! 時間厳守は部活の基本!」
朝の活動の終了を告げるチャイムが鳴り、ミーティング。角さんが部長らしく一部のたるんだ部員を厳しく戒めている。ただ、当のそいつらは「りょーかい、りょーかい」だの「角姉おっかねー」だの茶化しているのだが。
「あー、終わった終わった。あいつらどうしてやろうかねぇ?」
首にかけたタオルで体の汗を拭く角さん。学校指定の臙脂色のジャージのジッパーを全開させ、袖を肩まで捲っている。
「お疲れ様、寧子」
「いやいやっ。今日は二人がいてくれて助かったよ。くすくす」
彼女が言っているのは、おそらく俺たちが綿貫 麻実の仕事を奪ったことについてだ。嫌っている相手とはいえ、ああいうことがあって動じていないことに、彼女の肝っ玉のデカさを感じる。
「それじゃ、私らはこれから着替えだから。また昼休みね、なっちゃん。くすくす」
後片付けは既に部員全員で済ませている。すっかり空になったあのタンクも、男子部員が1人で部室へと運んでいった。
そういえば、練習をしていた角さんはともかく、ケロちゃんもジャージ姿だったのは何故だろう。
「寝てたら叩き起しますからね」
「ちょっと待て! 寝てるに決まってるだろ!」
「由利也クン、それは胸を張って言うことじゃないわ」
イズミと共にまばらに生徒が居る廊下を歩き、三年四組の教室へ入る。
教室にはまだ誰も居ず、上に荷物の置かれた机がいくつかあるだけだった。
「さて。問題のバスケ部を覗いてみて、いかがだった?」
俺の斜め前、元・高峰の席に座ったイズミが、そんなことを聞いてきた。
「特に、何も。バスケ部自体は和輝がいた時に見学したことあったしな」
「そうじゃなくて」と唇を尖らせる。
「えーと、角さんはよくやってると思うよ。五月であれだけ部員を統率できてれば、夏までにいい部長になれる」
「それでもなくて」と首を振る。
「あー、綿貫 麻実のことか。……いや、別に何も無いな」
「もうっ! どうしてそんな態度なのよ。真面目な話なんだからもう少しやる気を出してくれてもいいんじゃない?」
……そう言われたってな。
「何で俺が今こうも無気力なのか、わからないか?」
イズミは首を傾げたまま、ただ唸るだけ。
「……わからないなら。イズミは俺のことを全然理解してないよ」
「ぇ……」
心底不安そうな顔を浮かべている。まったく。
「――――イズミ」
「な、なに?」
びくっと肩を震わせるその姿は、やはり小動物だ。
「……二時間目、国語だから。ほっぺたでもつねってくれ。よろしく」
遺言を残し、俺の頭は机へと落下する。
――ああ、そうさ。眠いんだよ! どっかの誰かさんのおかげでな。
イズミがなにやら言っているが、頭はその意味をまるで理解できていない。
徐々に騒がしさを増していく廊下の喧騒と一体化していく。
目を閉じた暗闇に浮かぶのは、いつかの和輝と今朝の角さん。
「――お前の指名、やっぱり間違ってなかったと思うよ」
角さんが昔言っていた。
『私がバスケを始めたのは――――』
――さて、何でだったかな。
意識が途絶える。