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Crime de l§e-maj∃s⊥ au secφnd sa femme ―III

C'est bien fait !



――eternite - 3-3

 二十代も残すところ僅かとなったある日の夕暮れ、気まぐれで入った地元の小さな喫茶店で、俺は彼女と偶然の再会を果たした。



 その喫茶店は初老の男が独りきりで経営している、客足の少ないこぢんまりとした店で、俺が中学生の頃からここにあったと記憶している。

 高校生の頃にとある用事で頻繁に利用していたのだが、それの反動とでもいうべきか、もう十年近くも利用していなかった。

 その日俺がその店に立ち寄ったのは、くだらないきっかけがあったのみであり、ある種本当に全くの偶然であった。


 俺が店に入ると、彼女は昔と変わらぬ長い焦げ茶色の髪を真っ直ぐに下ろし、カウンター席で独りコーヒーを飲んでいた。

 その後ろ姿を見た時、あの頃の彼女がそのまま現れたかのような錯覚に苛まれたのを覚えている。俺の記憶の中で小さかった少女は、その時も――俺との身長差で言って――小さいままだったからだ。


「――     さん?」


 俺が他人行儀にその背中に声をかけると、思ったままの姿をした彼女が振り向いた。


「――■■クン? あなた、■■クンよね?」


 柔らかそうでボリュームのある茶色の髪。黒々とした睫毛に守られた、ほんの少しだけつり上がった目。ギリシアの美神を思わせる形の良い鼻。彼女の人の善さを象徴する、微笑を浮かべた口元。

 あの頃から少しも変わっていない――いや、少し柔らかみを増した彼女が、確かにそこにいたのだ。




「まさかこんなところで貴方に会うなんて、思いもしなかったわ」


 会話を交わしてみて初めてわかったのは、それでも当然彼女は丸っきり当時のままではないのだということ。

 当時の彼女はまさに勇猛果敢、猪突猛進。立てば芍薬座れば牡丹。しかし一度奮い立てば全ての悪を薙ぎ倒す、俺にとってまさにヒーローのような存在だった。

 しかしその時の彼女はどうやらその美貌に適ったお淑やかさというものを身に付けたらしく、もはや文句のつけようがない完全な女性へと進化を遂げていた。


「野暮用で訪れたついでに、懐かしの故郷を歩いて回ろうと思ってね」


 彼女と話していると、汚れ果てた自分がまるで(ゆる)されたかのように思えた。


「つまり貴方は、今はどこか遠くに住んでいるってこと?」


 しかしそれは錯覚。ただ彼女が俺が汚れてしまったことを知らないから、そう思えるだけだ。


「いや、家は電車で二駅の所。だけど、その距離って思ったより遠いんだ」


 確か、その時だったと思う。彼女が一瞬だけ驚いたような顔を見せたあと、何かを悟ったような笑みを浮かべ出したのは。


「私も貴方と同じよ。じゃあ、きっとこの店(ここ)にいる理由も同じね」


「……今日が、小学校の同窓会の日だから?」


「やっぱりだわ」


 だけど違うのだ。


「君は――いや、君も……出ないのか。同窓会に」


 同窓会は、一時間前に近くの料亭で始まっている。


「当たり前でしょう? 貴方、私たち(・・・)の小学校時代のこと覚えてる?」


 もちろん。当時も、そして今も、あの日々を忘れることはない。思い出したくない、消してしまいたい記憶こそ、頭の奥底にこびり付いて離れず、やがてある日突然現出するものだ。


「――ああ。俺のせいで君を本当に辛い目に合わせてしまった」


「そうそう、あの山口って男子が本当に下衆な男で……って、何で貴方がそれを知っているの?」


 俺の運の尽きはそこで口を滑らせてしまったこと。辛かった思い出を茶化し、笑い飛ばすことが可能だったのはその瞬間までだった。


 俺は洗い(ざら)い話した。中学での“あの”事件の時、俺と山口との間に何があったのか。

 つまりそれは、彼女が山口とその仲間から性的ないじめを受けていたことを既に俺が知っているということを、カミングアウトするということ。


「そっか……。私、貴方には絶対に知られたくなかったんだけどな」


「ごめん。だけど恨むなら山口の奴を恨んでくれ。……俺だって聞きたくなかったんだ」


 聞きたくなかったことを訊いてしまったから、暴力を行使した。まるで道理に適っていない。あの瞬間から、俺という人間は崩落を始めたのだ。


「……そうね。そうよね」


 久しぶりに会って、輝かしく成長した彼女を見ることができたというのに。十余年経ってもまだあの屑は俺を縛り付けているのか。


「――私、さ。情けないことに、あの頃からずっと男性不信なの」


 そして、縛られているのは俺だけではなかった。

「自分にこんなヒドイことをする男という生き物は、なんておぞましいものだろうってね。今考えると、きっかけは本当に可笑しい。だって、中学に上がってからは散々女の醜いところを見続けたっていうのにね。きっと私は、それだけアイツに体を触られたのが恐ろしかったのよ」


 俺は「想像すること」を放棄することでその苦しみから逃れることができたが、当の彼女はもちろんそうはいかない。体に、心に、ヤツの腐りきって発酵したヘドロのような呪縛が纏わり付いているのだ。


「そんな苦しい状況の中でね、唯一私にも救いがあったの。それが――――貴方よ、■■クン」


「――俺?」


 俺の救いであった彼女。そして俺もまた彼女の救いであったことを、俺はその時まで知る由もなかった。


「そう。私は勝手に貴方を神聖化していたの。唯一私の味方(・・・・)であった貴方に、私の描く英雄像を投影していた。彼は私の救世主。信じ続けていれば、いつかきっと彼が私を助けてくれる。この状況から救いだしてくれる、ってね。ごめんなさい、本当に勝手な話。だけど、小学生・中学生の私はまだ幼かったし、か弱い女の子だったのよ」


 彼女が極力ソフトに伝えようとするその話からは、当時の彼女の悲痛な心境が読んで取れた。


「そして中学二年生のあの日、貴方は本当に私を救ってくれた。ううん、私のためかどうかはわからないけど、確かに私にとって最大の悪である山口を消し去ってくれたわ。その時は本当に嬉しかった。本当に、本当に。祈り続けた心は貴方だけを捉えていたし、芽生えたばかりの性欲は貴方に抱かれたがっていた」


 それは、告白。当時の彼女から当時の俺への。熱心な信奉者から父なる神への。


「だけど貴方は、そのまま私と言葉も交わさないままどこかへ行ってしまった。連絡先の一つも知らせないままに。――どうして? 私を取り巻く悪はアイツだけじゃない。むしろその頃にはアイツは私などには興味を抱きすらしなかったというのに。……そうして、私は貴方を呪ったわ」


「呪った?」


「ええ。結局貴方もアイツと同じ男性でしかない。気まぐれで私を弄び、立ち際に濁りを残し飛び立っていってしまう迷惑な(からす)。……そう。その後より激しさを増した女子からのイジメと、新たに始まった男子からのイジメに、私は耐えられなかったの」


 俺は何一つかけるべき言葉を見つけることができなかった。

 彼女が(まと)う『柔らかさ』だとか『お淑やかさ』だとか――――くだらない。あれはそんなものではない。遠巻きに眺めればそう見えるだけ。実際は信仰に(やぶ)れた尼のそれでしかなかったのだ。


「そう。それで今の今まで男性不信。そうしていつの間にか二十九にもなってしまったわ。どうしていいのか、未だに検討がつかないの」


 ()を思い出すとせめぎ来る、締め付けるような胸の痛み。その時それがついに限度を超えた。俺の心をとうとう打ち砕いてしまったのだ。


 俺は――――今一度彼女を救いたかった。

 救う――――つもりでいた。

 ……本当に?


 『彼女を救いたい』。しかし、その時の俺の中にはそれと背反するいくつもの俗悪な感情が(ひし)めいていた。


 彼女を救いたい。|彼女をもっと(おとし)めてやりたい。

 彼女を救いたい。|彼女をもっと苦しめてやりたい。

 彼女を救いたい。|彼女をもっと深い泥沼へと。

 彼女を救いたい。|彼女を(なぶ)ってやりたい。


 彼女を救いたい。|彼女をオレのモノにしたい。


 どれが本当の俺で、どれが抑圧できる些細な邪悪だったのか。

 わからない。当時も、今も。




 当時二十九歳の俺がとったのは、とにかく頻繁に彼女と顔を合わせること。俺たちは曜日を決めて喫茶店へと足を運び、“当時”のこと、“今”のこと、とにかく他愛もない話を繰り返した。




 全ては彼女を救うため。|全ては彼女をオレのモノにするため。




 俺が決断を下したのは、彼女とその関係を続けて半年が経過した頃だった。


挿絵(By みてみん)














 携帯電話のアラーム音が過去の虚像を断ち切る。


 またこの夢か。

 紛れもなく、これは悪夢だ。俺は何度この一連の夢を見続ければいい?


   『消してしまいたい記憶こそ、頭の奥底にこびり付いて離れず――――』


「くっ……」


 頭を掻き(むし)ろうとした時、少しずつ自由が効かなくなってきている体が軋んだ。


 大体、どうなっている? 何故あの夢の中では彼女の名前が思い出せない?


「イズミ――――!」


 そうだ、イズミだ。久方ぶりに彼女の声を聞きたい。彼女の声を聞けば、それだけで心が安らぐ。

 目の前に彼女がいるのにその名前を呼ぶことのできない悪夢から、俺を解き放ってくれる。


 今は、もはや顔を合わせることすらままならない状況。幸い電話だけは通じる。声だけ、せめて声だけは。


 焦る気持ちを抑えて、携帯電話のアドレス帳からイズミの番号を探し出し、ダイヤルする。


 悟られてはいけない。絶対に。

 俺の体は既に徐々に崩壊を始め、精神にも異常をきたし始めている。

 それを、悟られてはいけない。


 電話が繋がる。


「……もしもし、何の用?」


 ぶっきらぼうな返答。当然だ。俺は彼女に信用されてはいるが、嫌われている。


 俺は平静を装い、要件を手短に伝える。言うまでもないが、内容は完全に出任せである。


「……それ、本当?」


「ああ。間違いない」


 嘘に塗れ過ぎた俺は、もはやその全てが嘘で出来ている。口からは虚言。身分は偽り。もしかすると、心さえもとっくに腐り果てて形を留めていないのかもしれない。


「……わかったわ。なるべくすぐに行動に移す。それでいいわね?」


「ああ。頼む」


 そうして、別れの言葉も無しに電話が切られる。


 ああ――――――――、これだけで俺はまだ生きていられる。

 彼女の声が、イズミの声が、電話機を通して聞こえるということだけで。



 朝日の差し込まない暗がりで迎える朝さえも、それだけで赦罪(しゃざい)に満ちた一日の幕開けと化す。

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