――風、絶え間ないブリーズ。
「寧子? 別に普通だったわよ?」
「……そっか、よかった」
さっき本人の元気そうな様子を目の当たりにしたとはいえ、不安だったので一応尋ねてみた。『普通だった』。ベストな答えが返ってきてくれて、ようやく心の底から安心できた気がする。
イズミの作ってくれた麻婆豆腐をレンゲで掬う。ずっと横になっていたということもあり、まだ少しだけ頭が重い。
「熱いから気をつけてね」
「うい」
ん。確かに熱い。そして、普段俺が作るよりも若干甘めだ。とろみも抑えめで、具も小さくしてある。もしかして、病人の俺に食べやすいようにとのイズミなりの工夫の結果なのかもしれない。
「あー、でも」
「ん?」
「寧子の話。今日のあの子、普通じゃなかったといえば普通じゃなかったかも」
「む。どういう意味だ?」
どうということはないんだけど、という顔をイズミは浮かべているが、俺にとって今日の角さんの様子というのは何より気になることなのだ。
「何かにつけて『なっちゃんは』『なっちゃんが』――って、由利也クンの話ばっかりしてたのよ」
「ほ、ほぉう? それは単に俺が休んだからじゃないのか?」
何故そこで動揺を見せる、俺。
「それはそうだけど……ちょっと異常というかね。あれは、そうね――――付き合い始めの惚気、というよりフラれて愚痴ってる感じ?」
げほっ、ごほっ!
「だ、だいじょぶ?」
「あ、ああ。大丈夫、大丈夫」
気道に挽き肉が混入した気がするけどきっと大丈夫。けほっ。
「というか、あの人俺がいないところでも『なっちゃん』使ってるんだな」
今日の彼女の様子は大体わかったので、話題の方向を変える。
「使ってる使ってる。あの子も私たちも、もうすっかり慣れちゃったわ」
「へえ……俺はまだ慣れないなぁ」
「そのうち慣れるんじゃない? もぐもぐ」
三佳さんが使っていた赤いレンゲで美味しそうに自作の麻婆を食べるイズミ。結局味付けが甘めなのは彼女自身の好みってだけなのかな?
そういえば、俺はイズミの食べ物の好みについてあまり詳しく知らないな。甘いものが好きなようだけど、だからって即ち中華も甘めが好きだろうっていうのはちょっと短絡的過ぎる考えだ。
「どしたの? 由利也クン。スプーン咥えたまま黙っちゃって」
「へ? ああ、ごめん。考え事してた」
「ふぅん……?」
怪訝そうに俺を見つめてくるイズミ。『君のことを考えていたんだ』なんて言えるはずもなく。
「そういえば、イズミはなんで俺のこと『由利也』って呼ぶんだ? 呼びにくいと思うんだけど」
急いで呼称の話に話題を戻す。
で、「ユリヤ」。親には申し訳ないけど、発音しやすいとは言えない名前だ。まあ当の母さんも、俺がいくつになっても「ゆうくん」なんて呼んでくるわけだから、どうしようない。
「うーん…………聞きたい? 親しみを込めて、ってだけじゃダメ?」
その言い方からするに、何か特別な理由があるらしい。
「そう言われちゃうと聞きたくなるな」
「わかった。…………」
一口麻婆を掬って食べて、再び話を始める。
「もう亡くなっちゃったんだけど、古い知り合いに『ナトリ』って人がいるの。だから、ね」
……ふむ。そんな理由があったのか。
「なるほどな。ごめん、辛い話させちゃって」
「ううん、大丈夫。…………」
「…………」
しばし二人の間を流れる沈黙。時折、プラスチックのレンゲと陶器の皿とが、カツンと音を鳴らした。
「……えっと、それで、その……」
俺の皿が空になった頃合いを見て、イズミがもじもじと話しかけてくる。
「ん? どした?」
「えと……、あの……」
どうしていいものかわからないので、今まで手をつけずにいた、茶碗に控えめに盛られたご飯を一気にかき込んでみた。って、おかゆだこれ。
「ゆ、由利也クン……?」
「はい?」
呼ばれたのでとりあえず顔を向けて返事をする。
「ほっぺにご飯粒ついてる――――じゃなくてっ!」
「は、はあ……」
「あの、その! ……由利也クンって呼んでいい、んだよね?」
ああ、そういうことか。
「いいよ、もちろん。悪い、さっきの話は別にそういう意味じゃなかったんだ」
「もう。私まで由利也クンのことを『なっちゃん』呼ばわりしなきゃダメなのかなって」
「ごめんごめん。あ、ごちそうさまでした。美味しかったよ。久々に美味いもん食った気がする」
「ぇ? あ。お、お粗末さまでした。よ、喜んでくれてよかったわ」
顔を伏し気味に、素っ気無いふうな素振りで応えるイズミ。頬が少し赤いのがこの角度からでも確認できる。ああもう、可愛い。
「ん。飯食ったからかな、またちょっと眠くなってきた」
そのままふらふらとベッドの方へ。こりゃ、少し風邪がぶり返したかもな。
「ちょっと、だいじょぶ?」
「大丈夫、なはず。っと」
横になる。片膝を立て、右手の甲を額に当てる。
「熱、ある?」
「うーん、わからん」
横になった途端、眠気が一層強くなった。瞼が、だんだんと開いていられなくなる。
「――ごめんイズミ、もう寝る。食器は流しに置いといてくれ。起きたら洗うから」
「ぇ? あ、うん。それはわかったけど……」
もう駄目だ。限界。意識がだんだんと――途切れ、途切れ、
「――――おやすみ……」
落ちる。
近くで物音がして、目を覚ます。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
上半身を軽く起こす。玄関でイズミが制服のブレザーを着込んでいるのが見えた。あれ? 来る時、着てたっけ?
「寝てていいよ。鍵は閉めておくから」
学生カバンからバイク用の手袋を取り出している。ああそうか、上着もあそこに仕舞ってたんだ。
「あれ、イズミ……帰るの?」
「――ぇ? あはは、由利也クン寝ぼけてすごいこと言ってる」
む、寝ぼけてなんか……。
「だって、夜に独りで外に出るのは危ないだろ。この辺りは物騒なんだってイズミが――」
「だいじょぶよ。バイクなんだから。“覚醒者”だってバイクより速くは走れないわ」
へえ、そうなんだ。そりゃ、所詮ヒトだもんな……。
「ほら、寝てていいから。おやすみ、由利也クン」
「ん。……おやすみなさい」
カツカツという革靴の靴音。遅れて、カチャリと鍵が閉まる音。
「……また、明日」
体に掛け布団がかかっていることに気付く。なんだ、もうこのまま寝られるじゃないか。
――疾患り者の夜は早い。
そして、過ぎるのも疾い。
「あれ……もう朝か」
雨戸を閉め忘れた窓から、柔らかくも鋭い朝の日差しが入り込んできている。
「よ……っと」
起き上がる。と、立ち眩みにも似た軽い頭痛を覚える。熱は無いし、気分も良いのだけど、体を動かすと頭が痛み、倒れそうになる。参ったな、これじゃちょっと学校には行けそうにない。
枕元にあった携帯の画面で時刻を確認する。今は……まだ七時過ぎか。学校への連絡は何時にいいだろうか。八時半からHRで、その三十分前から職員会議だったっけ?
……もしかして。
携帯を開き、センターキーの▽ボタンを押し、電話帳を表示させる。グループ「その他」、古宮高校。
「リダイヤルからでよかったな」
そんなどうでもいいことを呟きながら、電話をかける。
しばらく待っても、プルルルル、プルルルル、という無機質な音が一定の間隔で繰り返されるだけ。当然か。はは、まさかだよな。
「――――おはようございます、古宮高校職員室です。……名執くん」
「…………っ」
まさかだった。
「やっぱり今日もお休みですか。昨日はちゃんと寝ましたか?」
「あ、ああ。寝たよ、もちろん」
福住先生の声がどこか冷たい。まあ、ただの風邪で2日も休むんだから仕方ないか。
「……えっと、はい。休みます」
「わかりました。お大事に」
もちろん原因はそれだけじゃない。
「先生」
「はい。なんでしょう?」
「徹夜、お疲れ様」
「……はい。ありがとう、名執くん」
それじゃ、と少し弾んだ声の後、向こうから電話が切られる。それにしても、仮にも公務員であるはずの公立高校の教師が学校で徹夜ってどういうことだよ、まったく。
「……暇だな」
時刻は七時半。再び眠る気もしないので何となく台所に来てみたものの、食欲も大して無い。
昨夜の夕食時に使った皿は流しには無く、それを拭くのに使ったらしき布巾だけが綺麗に畳まれて置かれている。
「やれやれ」
いいって言ったのに。ま、あそこで寝た俺が悪い。
「……さて、どうしたもんか」
凝り固まった首を回すと、長く重い前髪が視界を塞いだ。よし、決まりだ。まず手始めにこいつをなんとかしよう。
決まってからは早い。なるべく頭痛を引き起こさないように部屋中から道具を集める。「隣」から鏡台を。棚から散髪用の鋏と掛物を。廊下から、古紙回収用にまとめた新聞のうち一日分を。
さて、準備は整った。あとはこの鬱陶しい髪を思うまま切り刻んでやればいい。
で、完成。今までより人に見られる頻度が高いと思うと、そりゃ慎重にもなるわけで、思ったよりも時間がかかった。
とはいえ自分で自分の髪を切るのにももう慣れたもので、ものの十分で片付いてしまった。テキトーに済ませていたら、その半分の時間もかからなかっただろう。
目の前の鏡に写るのは、いつぞやに似た俺の姿。ま、あれから月日も経ったのだから、そっくりそのままでないのは当たり前だ。
……でも、似てるだけでイラっとくる。鏡の俺を睨みつけたまま、髪を揉みくちゃにしてやった。はは、かっこいいかっこいい。ざまあみろ。
散髪の後処理が終わり食パンを齧ると、ようやく俺に再びの眠気が訪れた。
「さて、寝るか」
薬箱から頭痛薬を二錠取り出し、水道の水で飲む。熱はいい。怠さも許せる。咳もまあ気にならない。だけど、あいにく頭痛は大嫌いなんだ。
ベッドで横になると、昨夜と同じ天井が見える。至極当然。天井が変わるものか。昨夜と同じ?
それどころか一昨日の夜も、その前日の夜も、その前もその前も、ずっと同じ天井を見ているだろうに。なんで今、昨日と同じ天井を見るのがこんなにも寂しいのか。
そして結論。そう、昨日の夜は独りじゃなかった。実に三年ぶりに。
「……毎日ここにイズミが居てくれたらな」
思わず口に出した本音がやたら恥ずかしいものだと気付く前に、俺はもう眠りに就いていた。