――風、優しさのパーフェクト・ストーム。
台所から、大蒜、生姜、唐辛子の匂い、それからイズミの微かに口ずさむ歌までもが俺の元へ届く。
「――まぃわーるど すぴにん あぅと ぉぶ たぃむ♪」
それもそのはず。今俺が横になっているベッドと台所とは、そう何メートルも離れていないのだ。
「――うぉんと さむばーでぃ すとっぷ みー?」
何を作ってるんだろう? 匂いからすると中華料理っぽい気がするけど。
「――あぃ めぃびぃ るーずぃん まぃうぇい♪」
……ていうか。
「――うぃる ゆー めぃくぃ らぃっ?☆」
……ノリノリだなぁ。
「――てぃく ざ ぺぃん あうぇい♪」
……いい加減こう言うのも飽きたけど、
「――ひぃぁみぃ☆ ぁず ぁぃ くらーぃ♪」
――可愛い。ヤバい。もうね。勘弁してください。恋心が脳内で暴走しそう。
っと、携帯が鳴ってる。電話みたいだ。えっと……ん。三佳さんから?
「――もしもし」
「でぃぷ いんさぃごぉーぉぉぉー♪」
「ちょっと静かにしてろ!!」
「はぅっ!?」
やべ 、思わず怒鳴ってしまった。電話中だってのに!
「……あ、えーと、ごめん三佳さん。こっちの話……なん、だけ、ど」
「……………………」
受話器の向こうからはただひたすらに沈黙だけが流れてくる。
「……えーと、もしもーし」
「……………………」
……どうしたものか。
「――わきゃんないどぅーー あぃ あすく♪」
流れる沈黙。ボリュームを下げてなお歌い続けるイズミ。
「…………もしもし?」
居るよな? 三佳さん。もしかしてカバンの中で勝手に俺に電話がかかっちゃったとか?
『――――静かにしてろと言われたから黙ってたんだが、もういいか?』
ひぃっ! (案の定)お怒りでいらっしゃる!
「はいぃ。叔母様に向かって大変な失礼をしてしまったことを深くお詫び――」
『なんだ、元気そうじゃないか。やっぱり学校はサボっただけみたいだな』
「――申し上げ……え? 学校?」
何で三佳さんが、今日俺が学校を休んだことを知ってるんだ?
『ああ。アンタの担任とやらがわざわざ私のところまで電話をかけてきてね』
福住先生が? 何やってんだ、あの人。
『まったく、高校生が一日無断でサボったくらいで保護者に電話するかね、普通。あの面倒臭さ、どこかの誰かさんを思い出したよ』
「……えーと、俺ですか?」
『想像に任す。とにかく面倒だから、むやみに学校をサボらないでくれ。サボるなら言い訳の1つでも考えること』
「了解しました。――――って、俺サボったわけじゃないんですけど。立派な風邪引きさんです」
『そうだと思って電話したんだが、声を聞く限り病人とは思えないのはどう言い訳するんだ?』
うーん、自分では声は枯れ気味だと思うんだけど、さすがに電話越しじゃ伝わらないか。
「友達が見舞いに来てくれたから、ちょっとテンションが高いだけです。空元気ですよ」
とはいえ、高揚する気分に引きづられて、不思議と体調の方も善くなっていってる気がする。
『友達、ねえ……』
「(ともだち、ねぇ……)」
「うわっ!?」
驚いて当然。いつの間にか俺のすぐ傍まで来ていたイズミの唇の動きが、受話器越しの三佳さんの訝しげな声を完全にトレースしていたのだ。
『どうした?』
「いえ、なんでもないっす」
ベッドで横になっている俺の顔から十センチほどの距離に、姿勢を低くしたイズミの愉しげな顔がある。まったく。料理は放っておいて大丈夫なのか?
『――女子だろう?』
「ッ……!?」
途端に体中から冷や汗が噴出す。
「な、なな、何を根拠にそうおっしゃいますのですか……!?」
『いや、アンタに風邪の見舞いに来てくれるような友達がいたかな、と思ってね』
いやいやいや! 和輝はもちろん風邪の見舞いになんか来てくれないだろうけど、その妹のケロちゃんや角さんはまさに今日見舞いに来てくれたぞ? って、あれ? ケロちゃんや角さんは友達だけど女子で……。ん? 女子≠友達? イズミは友達じゃないよな。 ……ん?
混乱を始めた思考はもう収拾がつきそうにない。
と、傍らのイズミが口をパクパクさせている。何だろう? えーと……。
「(か・の・じょ! か・の・じょ!)」
「……ああ、『かのじょ』」
――――しまった!
『ん、急に素直になったな。――ふぅむ……しかしよもやアンタに彼女が出来るとはね』
「あ、えと、いや、その……」
詰んだ。完全に詰んだ。
『前に話していた子かい? 今も隣に居るんだろ。息遣いが聞こえる』
それは息遣いじゃない。チシャ猫の如くニヤついているイズミの、荒々しい鼻息です。
『邪魔して悪かった。それじゃごゆっくり』
「ああ、違う違う! えと、さっきのは三佳さんを軽くからかおうと思っただけで――」
『苦しい言い訳は結構。ああ、そうだ。近いうちに家に行かせてもらうよ。私の部屋に置き忘れた物があってね。それだけだ。じゃ』
「ちょ、三佳さん――!」
ツー、ツー。用事を口早に済ませた三佳さんは、そのまま俺の返事も待たずに即座に電話を切ってしまった。
「……どうするつもりだよ」
一応、イズミに向かって問いかけてみる。まぁ無駄だろうけど。
「さぁ? で、三佳さんて誰なの?」
「――――――」
もはや咎める気にもならない。
「叔母さんだよ、さっき話した」
「ああ、なるほどね!」
合点がいった! ということを、大袈裟なジェスチャーで示す。噺家か、お前は。
「ついに保護者公認の仲……ふふふ」
「……やめい」
ふと落とした視線に、手中の携帯電話の画面が映る。
[不在着信あり:古宮高校]
あ。
「ふふ、ふふふ……」
かかってきたの、何時だ? ……09:32。一時間目が終わってすぐか。
あちゃー。この時間には完全に寝入ってしまっていた。三佳さんの元に電話がいったのも、おそらくこれのせいだろう。
ちなみに、学校からの連絡が俺の私用携帯にかかってくるのはこの家に固定電話が無いからで、その他の連絡先として実家、そして緊急連絡として三佳さんの携 帯番号を学校に知らせてある。
実家には昼間は婆ちゃんと母さんしかいないから、多分誰も電話には出ないだろう。だからって仮にも「緊急」連絡先に電話する か? 福住先生よ。
「一応かけ直しておこうかな。わざわざ電話してくれた三佳さんにも悪いし」
「ふふふ、ふふふふふふ……」
「イズミ、また電話するからちょっと黙っててくれ」
「ふふふ……ぇ? ああ、はい。“また”黙っとくわね」
その場で正座を始めるイズミ。
「……いや、とりあえず台所に戻ってくれないか」
きっと“また”さっきみたいに俺を誘導催眠する気に違いない。
「むぅ。わかったけど、冷めちゃうから早く済ましてよね」
――なるほど。そういうわけだったのか。
「ごめん、超特急で済ませる」
せっかくのイズミの手料理。出来立てで食べたいのはやまやまだが、電話するのを後回しにすると、おそらく俺はまたすっかり忘れてしまうだろう。面倒事は、これ以上増やしたくない。
リダイヤルボタンを押す。そういえば、今の時間に学校に誰か居るんだろうか?
――そう思ったのとほぼ同時に、電話が繋がった。
「あ、もしもし。三年四組の名執ですけど……」
『わかってますよー。もう、遅いじゃないですか。待ちくたびれちゃいました』
代わってもらうまでもなく、受話器の向こうには件の担任、福住 梓先生が居た。
『まぁ、そのおかげで久しぶりに名執くんの叔母さんとお話できて楽しかったですけどねー』
……楽しかった? まったく、何を言い出すかと思えばこの人は……。ついでに、向こうは相当面倒臭がっていたような。
「ああ、そういうわけで風邪引きました。心配かけて申し訳ないです。まだ本調子じゃないんで明日も休むと思います。それじゃ」
『ふぇ? ああ、ちょっと! 名執くん冷たいですっ!』
その声を聞いただけで、慌てふためく福住先生の姿が目に浮かぶ。
「冗談ですよ。先生もしかして残業?」
『え、あ、はい。体育祭も近づいてきましたし、私の本領発揮ってところです』
ふふん、と胸を張る先生の姿が容易に想像できる。なんでだろ? わかりやすい人だからかな。
ちなみに福住先生はその童顔に似合わず、今台所からこちらを睨んでいるちびっ子とは比べ物にならないほどのボリュームを誇っていたりする。何がって……ねえ。
「そっか、大変だと思うけど頑張って。あ、だからって頑張り過ぎて風邪引かないでくださいよ?」
『大丈夫ですよー。ああ、やっぱり名執くんは優しいです。どっかの憎たらしい眼鏡とは大違い……こほん』
……ん? 今、先生らしからぬ言動が聞こえたような?
『それじゃ、一日でも早く治して、学校に来てくださいねー。待ってますよー。あ、もし明日も休むことになったら、必ず学校に連絡してください』
ま、面倒だけどそれくらいはした方がみたいだな。
「了解。それじゃ」
『はい。お大事に』
終話。
「――また女」
電話は出来る限り早く済ませたというのに、何を不満そうな顔を浮かべているのかと思えば、そんなことを言い出したのだった。
「何を言い出すかと思えば……」
それを受けて、わざとらしい膨れっ面。まったく。
「聞こえたもん、女の人の声!」
「台所から聞こえたのかよ。耳良すぎだろ」
「良いもん、耳!」
ふぅむ。そう来たか。
「いやいや待て。電話の相手の声が聞こえるくらいなら、俺の『三年四組の名執です』とかその辺りも聞こえてるはずだろ」
「あ」
一R 開始二十秒TKO。なんだか今日の俺は冴えてるようだ。
「――ささ、早く食べよう。冷めちゃってないよな?」
「ぇ? あ、うん。今弱火にかけて保温してるとこ」
……いや、危ないってそれ。――ま、いいか。おかげで熱々のイズミの手料理が食べられるんだし。
あれだけ重症に感じられた風邪の怠さはどこへやら。本来失われるはずの食欲は、ここ数日で一番の最大瞬間風速を記録していた。