――風、穏やかなハリケーン。
歪んだ風が歪んだ彼を包み込む。
一見バランスが取れているようだが、所詮は傷の舐め合いでしかない。
――第4章「歪み」 - 休
ピンポン、というドアホンの音で目を覚ました。……うーーん、よく寝た。居眠りマイスターの俺の体感によると、六時間くらいは寝ていたと思われる。寝汗が酷い。どうやらまた悪い夢でも見ていたようだ。
訪問者を出迎えるために体を起こそうとする。しかし頭が重く体は怠く、ここから玄関まで歩くのはなかなか骨が折れそうだ。
ならばと、ここから返事をしようと声を上げてみる。しかし喉は渇き熱を持ち、嗄れ気味の小さな声が搾り出されるだけで、ドアの向こうの来訪者には届きそうもなかった。うーん、どうしたものか。
「……反応が無いわね」
「ただの屍と成り果ててたりして」
「縁起でもないこと言わないでください、部長。――あ、やっぱり新聞受けの裏にありました」
「でかしたケロ子ちゃん!」
「それって犯罪じゃないの? ケロ子」
「大丈夫です。無用心な名執先輩がいけないんです。それじゃ開けますよ」
家の中の静かな空間が、ドアの向こうに立っている訪問者たちの賑やかな声を伝えた。
「……犯罪だっつの」
玄関のドアがゆっくりと開かれる。あ、マズい。こんなところで横になっていたら、一見留守かと思われてしまうかもしれない。こうなったら這ってでもベッドから出なくては――。
で、そうして這いずった俺は、ベッドから豪快に転げ落ちたのであった。敷き布団が引きずられ、その上に乗っていた目覚まし時計が床に叩きつけられ大音響を発した。
「いっ……てぇ……」
落ちた際、顎を強打した。この落ち方で舌を噛まなかったのは幸運だったと言える。頭がくらくらする。俺は逆立ちの出来損ない、あるいはフンコロガシに似た姿勢で身動きが取れなくなってしまっていた。
「……由利也クン、何やってんの?」
首の痛みに耐えながら上を見上げると、そこにいたのは(言うまでもなく)立松 イズミその人だった。……このアングルだと、その、彼女の短いスカートの中身が、ですね……。
「や、やあイズミ。……悪いけど起こしてくれないか」
「はいはい。じゃ、手伸ばして」
あきれたような、はたまた母性を感じさせるような。そんな表情を浮かべながら、イズミは情けない格好でじたばたしていた俺をベッドへと戻してくれた。
「要するに、ただの風邪なのね?」
「ま、まあ、要されてしまうとそうなってしまうな……」
現在俺の体を襲っているいくつもの症状を、臨場感たっぷりに事実比3割誇張して伝えたところ、一言でバッサリと切り捨てられてしまったのであった。
「――よかった。まったく、何なのよあのダイイングメッセージみたいなメール。本気で心配したのよ?」
無邪気な悪戯をした子供を咎めるのに似た、和やかな説教。どうやら余計な心配をかけさせてしまったようだ。
「ごめん。朝は本当に余裕がなかったんだ。なんというかもう、死ぬんじゃないかと思ったくらい」
「それは単になっちゃんが風邪慣れしてないからでは?」
「……む、的確なツッコミ」
俺を『なっちゃん』と呼ぶのは現時点でこの世に一人しか存在しない。台所で何かの作業をしている角 寧子さんである。
「あれ? 俺、角さんに風邪の話したっけ?」
昨日のことなのに自信が持てない。どうでもいい(と自分で判断した)ことはあっさり忘れてしまう質なのだ、俺は。
「今日学校で名執先輩の話をした時、泉先輩が私たちに話してくれたんですよ」
俺を先輩扱いする人間は、現時点では一人しか思い当たらない。角さんと同じく台所で包丁を振るっている遠東 香早生ちゃん、人が呼ぶはケロちゃんである。
そして何やらケロちゃん→イズミの呼称が『立松先輩』から『泉先輩』に変わっているのは、苗字で呼ばれるのがあまり好きでないイズミが、無理やりそう呼ばせるようにしたのだろう。
「なるほど。この三人にはうっかり重要なことを喋ってはいけない。どこかにメモしておこう」
「どうぞご勝手に。そうは言っても、もうとっくに3人とも由利也クンにまつわるオモシロイお話をたくさん知ってると思うけどね」
「……う」
既に勝敗は決していた模様。この3人が敵に回ったら、勝てるわけなどないのだ。
「はい、なっちゃん」
制服の上にエプロンを着た角さんが俺に差し出したのはオレンジジュース……ではなく、皿に盛られた梨。器用にも皮がうさぎの耳型に残されている。
「あ、ありがと、角さん」
「いえいえ。お礼ならケロ子に。私がやったのは半分に切るとこだけで、後は全部あの子ですから」
……あんたほとんど働いてないじゃんか。
「ありがと、ケロちゃん」
「いえ。お礼を言われても困ります。この梨、先輩の家の冷蔵庫から見つけたものですし」
え。あ、見舞いの品じゃないのね。そうだよな。見舞いに持ってくるならリンゴだよな。道理でおかしいと思った。
「それにしても……」
イズミが何かの存在を疑うような様子で部屋中を見回している。シャクシャクと梨を齧りながら。
「大きすぎる冷蔵庫といい、ネコが着てるエプロンといい、怪しいのよねえ……」
「ん? なになに?」
猫の意匠が施された黒いエプロンを着たネコが、興味深げに耳をぴょこぴょこと動かしている。……器用だな、角さん。
「つまり…………由利也クンには同棲相手がいる!」
「え、ええぇぇぇぇぇ!?」
「な、なんだってー(棒)」
驚嘆の声を上げたのは、意外にもケロちゃん。とっくに知ってるだろうに、何が「ええー!?」なものか。――と、言いつつも、誰より驚いていたのは他ならぬ俺だったりする。
「へえ、よくそれだけのヒントで解ったもんだ」
「……ぇ?」
冗談のつもりだったらしく、遅れて驚いてみせるイズミ。その顔が可愛くて、梨が美味い。略してナシウマ。
「3年前までここで叔母さんと一緒に住んでたんだよ。もちろん今は一人暮らしだけど」
「あ、そういえばそんな話をお兄ちゃんから聞いた気がします」
ケロちゃんの兄貴――遠東 和輝と俺が交流を持つきっかけとなったある事件。実はそれが三佳さんと別居するようになったきっかけでもあったりする。
「ここで二人暮らし? ちょいと狭すぎやしませんかい?」
そう言って目を光らせるは、ネコ。……こっちはもちろん比喩。
「鋭いな。実はそれには秘密があるんだが……ここでむざむざバラすつもりは無い」
「――何勿体ぶってんだか」
……誰か今、俺を嗤ったか? ……いや、マジで誰ですか? 怖いからやめてください、ギリギリ聞こえるくらいの小声でボソっとそういうこと言うの。
「ま、元気そうで何よりだわ」
「ごめん、みんなには迷惑をかけたな」
うーん、面目ない。まあ、今のこの状態は完全に空元気なんだけどさ。
「本当です。心配して損しました」
……え、そこまでですか?
「それじゃ、私らはそろそろ帰るとしますか。部屋に女の子が三人も居たら色々大変で寝られもしないでしょうよ」
「そりゃ寝られないけど……なんだ、その『色々大変』って」
「わかってるくせに。くすくす」
――よかった。角さんが、いつもの角さんで。
「先輩、イカガワしいことしてる暇があったら、その分寝てくださいね」
「……きみは何を言っているんだ」
最近のケロちゃんはどこか俺に冷たい気がするが、今日は特に冴えてるなあ。俺は気付かぬうちに彼女に何かヒドいことでもしてしまったのだろうか。
「じゃあ、お大事にー」
「泉先輩、後はよろしくです」
「任せときなさい。二人とも気をつけて帰りなね」
こちらに手を振り、玄関のドアへと消えていく角さんとケロちゃん。それを見送る俺。そしてイズミ。
…………ん?
「いや、待て。おかしいだろ」
「ぇ? おかしいって、何が?」
まったく、白々しい。もう慣れてきたな、こういうノリ。
「さあさ、お前もおとなしく家に帰りなさい」
「嫌よ」
ツーンとした態度。えと、なんで?
「……私まで帰ったら、誰が風邪ひきの由利也クンに夕食を作ってあげるのよ」
……あー。えーと、うん。びっくりだ。びっくりしたし、びっくりするくらい嬉しい。
それと、そっぽを向いて頬を染めている姿が可愛すぎる。夕飯には早いけど、最高の調味料たり得る。
「冷蔵庫の中身、好きに使っていいわよね。食欲はある?」
「あ、うん」
恥ずかしくて口に出せないけど、ありがとう、イズミ。――あ、そのエプロンは三佳さんや角さんサイズだから、きっとイズミには大きいと思うぞ。