――係、きみもいたのか、天蛙。
「っと、イズミからメールが来てたんだったな」
着信があってから、結構な時間が経っている。本当に、急ぎの用事でなければいいんだけど。
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[件名]無題
[本文]・・・まさか本当にサボらないよね?
14時に調理室、ちゃんと来てよ?
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「まずっ……! 今、何時だ?」
携帯の画面の表示は、14:02。既に二分オーバーしている。完全アウトだ。急いで行かないと。特に必要な持ち物とかは無いよな。場所は調理室か。それなら、幸いなことにここから近い。
「あ、名執くん。帰っちゃったのかと思いましたよ」
「うわ、先生! いや、えーと……帰ってなかったです」
ばったり、担任に出くわしてしまう運の無さ。えーと、イズミと口裏を合わせるための言い訳は……、
「……あ」
「もう、何ですか、『あ。』って」
馬鹿だ、俺。本気でこの人に「保健室に行ってました」が通用すると思っていたのか?
目の前の、白衣を着た福住先生に。
「……やれやれですね。イズミさんは正直に本当のことを言ってくれましたよ?」
「ぁー……そっすか」
イズミも、俺と別れてからそれに気付いたようだ。というか、福住先生。もしかして全部お見通しですか? この人、見かけに依らず頭の回転が早い人なのかもしれない。
「ええ。『名執くんに誘われて、外で授業をサボってました』って」
「……なん……だと……?」
どこが「正直に本当のことを」だ! ……ああ、胃が痛む。
「え? 違うんですか?」
「あー、いや。寸分も違わず正しいですよ、ええ」
……もうそれでいい。HRで堂々とそれを言ってのけたであろうイズミの姿を想像したら、抗う気力も失せた。
「って、先生。俺これから体育祭の係の集まりで、急いでるんだけど」
もう、委員会が始まってから5分と経っていてもおかしくない。
「あ、それならだいじょぶですよー」
なんて、やけに朗らかな笑顔で言ってのける福住先生。
「いや、いくらイズミが先に行ってるからって、大丈夫ってことにはならないでしょう」
「あの、そうじゃなくて」
照れたように頭の後ろを掻いて、言った。
「私が体育祭実行委員の担当教師ですから。遅刻しちゃいました。えへへ」
調理室には各クラスから一人ずつ、合計二十人ほどの生徒が集まっていた。つい二十分ほど前まで調理実習に使われていたため、辺りには甘い匂いが漂っている。砂糖やシロップ、それとフルーツ類の香りが、俺の腹の虫を刺激した。……そういえば俺、昼飯食べてない?
「随分遅かったわね」
俺の横の椅子にちんまりと座っているイズミが、こちらに顔を向けすらせずに、ふてくされた様子で呟く。
「悪い、ちょっと色々あってさ」
「ふーん?」
『はいはい、そうですか』とでも続きそうな相槌が打たれると、俺たちの間に再び沈黙が流れた。結局イズミからのメールに返信を打つことができなかったのも、この不機嫌を招いた一因だろう。……まいったな。
「みなさん、遅れてごめんなさい! 今から体育祭実行委員会を始めます」
プリントなどの準備を終えた先生が、生徒たちに向けて挨拶をした。その先生の横には中肉中背の男子生徒が一人、いやに背筋を伸ばして立っている。きっちりと全てのボタンが閉められた学ラン。ワックスで整えられた黒髪。高すぎる鼻に乗せられた銀縁の眼鏡。
「――では、これより今年度体育祭実行委員の皆に、当日の職務の概要を説明する」
「ふぅん。生徒会長が兼任なのね」
壁に備え付けられたホワイトボードの前に立って演説調で話を始めたのは、生徒会長兼体育祭実行委員長、三島 徹だった。
三島の口から告げられた仕事内容は単純なものだった。各種目を3人ずつで担当し、競技中の校舎の見回り係が二人。各委員、担当した種目でスタート係とゴールテープ係、または審判を分担して行う。騎馬戦や綱引きなどの競技も三人でやりくりするのだが、小規模なので何ら問題はない。
あと、会場放送等は放送委員が受け持つらしく、その他のことは全て生徒会役員、担当教諭が担当するとのこと。
ちなみに、体育祭の運営には、実行委員以上に先生たちと生徒会役員が関わっている。行事の企画は実行委員中心で行うのだが、それも実行委員のうちの有志が四月のうちに既に終えてしまっている。
俺たちには「実行委員」という立派な名前こそ付いているが、結局仕事は当日の競技の進行だけ。それはそれで「“実行”委員」だとも言えるわけだが、「体育祭“係”」と呼ぶのが一番相応しいと思う。
「部活動からの書類の提出が遅れているため、各種目の担当決めは次回の委員会で行う。皆には近日中にまた招集をかける。本日の連絡事項は以上だ」
話し終えた三島は、軽く頭を下げたと思えばすぐに調理室を出て行った。手に持っていたのは書類のようだったが、結局一度もそれへ視線を落とすことなく、終始生徒たちの方を向いて話していた気がする。さすがは生徒会長と言ったところか。
「はい。それじゃ、解散です。次回の集まりについては、日程が決まり次第担任の先生を通して連絡しますね」
三島の話が終わるまでその横でずっと椅子に座っていた福住先生が、立ち上がって号令をかける。そのせいで、どうにも色々とヤツに頼りすぎな印象を拭えない。あの調子じゃ、生徒会の運営も三島独りで行っているんじゃないかと疑ってしまう。
解散の号令を受けた生徒たちが、散り散りになって調理室を去っていく。
「部からの書類って、部活動対抗リレーの走順か?」
そんな中、なんとなく未だ調理室の椅子に座っている俺とイズミだった。
古宮の体育祭の伝統行事、部活動対抗リレー。各部活動がそれぞれ一~三年を一人以上含む四人の走者を選出し行われる。
わが校は部活動があまり盛んではなく、その数も他校と比べると少ない。そのため、なんと文化部からもチームが組まれる。
文化部、そして帰宅部をも含めた総勢十六チームが一レースで四チームずつ走り、更にそれぞれのレースで一位を取った四チームで決勝を行う。
毎年、優勝候補は当然のことながら陸上部。しかし文化部や帰宅部の中に意外なダークホースが潜んでいることも多い。そんなわけで、部活動対抗リレーは、わが校の体育祭の中で一番盛り上がる競技だったりする。
「多分、バスケ部よ。寧子、布施くんにアンカーを走らせる気満々だったから」
通常の走者は一人トラック半周を走るのだが、アンカーはトラックを1周――つまり二百メートル走ることになる。決勝に進出すれば計四百メートルを全力走ることになるので、人選が非常に重要になってくる。
そういえば、角さんと布施は仲が良かったのか?
「正解です。今、大急ぎで代わりを探しているところなんですけど、誰もやりたがらないんですよねぇ」
「あ、香早生ちゃん」
目の前に立っていたのは、きちんと整えられた制服のブレザーの上に可愛いカエル柄のエプロンを着た女子生徒。一年生の学年カラー、赤のリボンを胸に付けている。
「や、ケロちゃん。そういえば五限は家庭科だって言ってたけど、そっか、調理実習だったんだ」
「こんにちは、立松先輩、名執先輩。はい。おかげさまで、なんとかぎりぎりで間に合いました」
『おかげさまで遅刻しかけました』とも言えるな。
「香早生ちゃんも実行委員だったんだ?」
「はい。担任の先生に勧められて。部長には『やめとけ』って言われたんですけど」
「あー、あの子、一年生の時に実行委員絡みで何やら失敗したらしいわ」
へえ、俺が一年生(二回目)の時か。確か、あの年は無理やり障害物走に駆り出されて……。
いや、そんなことはどうでもいい。それより気になるのが、ケロちゃんが持っている紙の包みだ。部屋中に漂う甘い香りが、そこから強く匂っている。中身は何だろう?
「あ、これですか? ふふ、今日作ったクレープです。よかったら食べてください」
ケロちゃんがその包みを半分解いて差し出してきたので、ありがたく受け取る。
視線がそこに向いたのがバレバレだったようだ。ちょっと恥ずかしい。
「おー、ありがとう。なるほど、この匂いはクレープだったんだ。これ、今食べてもいいかな?」
「もちろん、どうぞ」
と、微笑むケロちゃん。包みを解いてより一層強くなったクレープのとろけそうな甘い香りが、まるでそのベージュ色のふわふわした髪の匂いのように感じられる。
「ね、香早生ちゃん。私の分は?」
甘いもの好きらしいイズミが目を輝かせている。
「ごめんなさい、持ち帰りは一人一個だったので……」
「ぶー。ケロ子ちゃんのけちんぼー」
「だから、ケロ子って呼ばないでください!」
「なによー。何でケロちゃんはありでケロ子はなしなのよー?」
「先輩以外は『ケロちゃん』も駄目ですっ!」
「私も一応先輩なんですけどー?」
いやー、このクレープ美味いなあ。もぐもぐ。
「そうだ、名執先輩、立松先輩。三人で種目の担当やりませんか?」
ん、それは良い。知らない人と一緒にゴールテープを持つのは、なかなか気まずいものだ。
「ごめん、香早生ちゃん。私たち、二人で校舎の見回りをやろうと思ってるの」
「そうですか……」
「ええっ!?」
「え?」
思わず俺が上げた驚嘆の声に戸惑うケロちゃんと、じとーっと睨んでくるイズミ。……なんだよ、俺が悪いって言うのかよ。まったく。
「ああ、ごめん。クレープの中にレーズンが入ってたから、驚いて」
毎度ながら、俺の口から出る言い訳は色々と苦しすぎる。
「え、入れませんか? レーズン」
入れる入れる。クレープの具としてはバナナの次くらいにメジャーだよなあ、レーズン。
「そうじゃなくて、下の方に固まってたからさ。てっきり具はバナナだけかと思ってた」
「イチゴも入ってませんでした?」
……そういえば入ってました。美味しかったです。
「あ、ほんとだ! イチゴも下の方に固まってた!」
まったく。これじゃ貶してるも同然じゃないか。はあ。
「そういうわけで、ごめんね、係のこと」
頃合いを見たイズミが話の流れを戻してくれた。
「あ、いえ。よく考えたら、名執先輩って真面目に係やったりするタイプじゃないですもんねぇ」
目を細め、口角をにやりと上げて俺の顔を見つめてくるケロちゃん。そう、この子は和輝のやつから散々俺の話を聞かされているのだ。ケロちゃん本人と遊ぶ時はわりと身の振りには気を使っているんだけど、それも無駄なようだ。
「失礼な。体育祭は毎年結構楽しみにしてるんだぞ。ほら、部活動対抗リレーとか」
「へえ、意外」
「本当ですか?」
二人してそういう反応されると悲しくなるのでやめてください。
「本当だよ。まあ、和輝のヤツが毎年バスケ部チームのアンカーやってたからっていうのもあるけど」
「なんだ、結局それなんじゃない」
「……うるさいな」
あれ、和輝の名前が出たっていうのにお兄ちゃん子のケロちゃんが無反応だ。珍しいな。どうやら、何かを考え込んでいる様子。
「香早生ちゃん、部活行かなくて大丈夫?」
「え、あ、そうでした! 私、もう行きますね」
そっか、部活自体は二時から始まってるんだっけ。角さんが「遅刻だ」って言ってたもんな。
「うん、頑張って。クレープ美味しかったよ」
「由利也クンてば、結局一口も分けてくれなかった……」
「ふふ。今度、家で先輩の分も作って来ますね。それじゃ」
「行ってらっしゃい」
「また明日ー」
弾けんばかりの笑顔を振りまきながら、ケロちゃんは調理室を後にした。……体育館に着くまでに気付くかなあ、エプロンつけっぱなしだってこと。
「さて。私たちも行こっか」
「そうだな。じゃあ俺、教室にカバン取りに行ってくる」
まさか、空っぽなのに盗まれてたりはしないよな。
「カバン? それは帰る時でいいんじゃない?」
「へ?」
帰る時でいい、ってことはつまり。
「まだ帰らないのか? それじゃ、行くってどこへ?」
「グラウンドよ。せっかく野球部が休みで空いてるんだから」
イズミが大きく膨らんだ自らの学生カバンに手を突っ込みながらそう言ったが、残念ながらよく意味が分からない。
「グラウンドって。何をするんだよ?」
すると、イズミがカバンの中からようやく何かを取り出した。革の匂いのする、何か。
……野球のグローブだ。
「キャッチボールよ。ね、早く行こ?」