――舎、独りの朝が崩れる予感。
「お腹が空いて、目が覚めた」。いつだったか、そんなCMが流れていた気がする。
そんなに嬉々として語るような状況ではないだろう、と当時ツッコミを入れた覚えがある。
――最悪の気分だ。
昨夜、空腹を誤魔化すために布施への見舞い品として買った饅頭をつまんだのがまずかった模様。
空きっ腹にこってりした餡子の相性は最悪で、思わず食べたことを後悔した。
それでいて空腹を紛らわすという目的も果たせず、結局三時間の睡眠で目が覚めてしまった。普段より一時間以上も早い。
居間のテレビを点け、洗面台へ行き顔を洗い歯を磨く。居間からは「ロクジサンジュップン、ロクジサンジュップン」という声が聞こえてくる。彼からこの時刻の時報を聞いたのは何年ぶりだろう。
髪留めを外すと、うざったい前髪が下りてきた。いい加減切ろうかと思うが、学校から帰ってからは髪を切る気分には到底ならない。
ああ、もちろん誰かに切ってもらうなんてことは論外。あれは時間と金の大幅な無駄だ。
今週の土日は終わってしまったし、来週末切るとしよう。週末が忙しいとどうにも調子が狂う。
寝間着を脱ぎ、素肌にワイシャツを着る。綿百パーセント。ポリエステル製は色々と擦れるから着たくない。
スラックスは夏用の薄い生地の物を履く。ベルトはスーパーで三ケタで売られていた軽くてひたすら地味な物を。靴下はもはや定番と化した踝までの長さ。
着替え終わって一休み。くしゃくしゃの長袖のワイシャツはズボンの中には仕舞わず、邪魔臭い袖も思いっきり捲る。
非常に怠い。朝食として機能する食品が全く残っていないので、どこかで朝食を取らなくてはならない。幸い今からならある程度の余裕を持たせつつどこかで買い食いをすることができる。学校の近くのスーパーに寄る時間もあるだろう。そっちの方がコンビニよりか安く済むはずだ。
学校用のカバンを用意し、リモコンでテレビの電源を消す。学ランを羽織って、玄関で靴を履く。ドアを開けて、閉めて、鍵を閉める。廊下を歩きながら、だらだらと上着のボタンを閉める。
眠くて怠くて仕方なくても、体が勝手に動いてくれる。便利なものだ。その調子で全てを全自動化してしまいたい。
階段の下で俺を待っていた愛車に、挨拶もせず跨る。整備不良。言われたな、そんなこと。
キーコキーコと、まるで公園のブランコのような音を立てて進む。学校に早く着いてしまうのは面倒だと思ったけど、わざとゆっくり漕ぐのもこれまた面倒に思えた。
結果として、いつもと大体同じペースで学校付近までやってきてしまった。
金曜の反省からカバンではなくポケットに入れるようにした携帯電話で、時刻を確認。まだ大分余裕がありそうだ。今学校に行けばバスケ部や野球部なんかの、わりかし熱心な部活が朝練習をしているかもしれない。確かバスケ部は少なくとも去年までは朝は自主練習を行っていたはずだ。
そのまま学校を過ぎ、スーパーを目指す。そういえば、あそこは朝から営業しているんだろうか?
到着。客の姿こそ見えないものの、店は開いているようだった。俺はこの店をてっきり地元の小規模なスーパーマーケットだと思い込んでいたのだが、どうやら某有名チェーンの系列のようで、看板の隅には「24H」と書かれていた。何故だか少し哀しくなる。
入り口から少し離れた駐輪スペースに自転車を停める。俺の愛車の他には店員の物と思しきビッグスクーターと、――赤のストリートファイター。
直後、鮮明に思い出される昨日のあの光景。
小柄な体を、その官能的な形状のボディが包みこむように収める。フルフェイスから覗く瞳。
控えめにエンジンが吹かされる。ハンドルを握る繊細な指。
LEDヘッドライトの鋭く直線的な白い光が行く先を照らす。照り返しでもう一度、瞳。
ゴキゲンな駆動音を響かせ走り去る。フルフェイスから垂れた揺れる二本の髪束。
「……まさかな」
彼女の物ではないだろう。アレで登校しているはずがない。
その赤い機体をまじまじと眺めてみる。昨日は比較対象が無かったせいで勘違いしていたようだが、隣のビッグスクーターと比べると幾分小さく見える。
もしかしてバイクの中ではわりと小さめな部類に入るのかもしれない。だとしたら彼女のように小柄な女性が乗るのも……いや、無理がある。
カツ、カツ、カツ。店の入口の方から足音が聞こえてくる。まさか、いやまさかとは思いつつも、その可能性を否定できないでいる。
どうする? 足音はどんどん近づいてくる。もうすぐ角を曲がる。そうすれば、俺はその音の主と顔を合わせることになる。
眠く鈍く怠い頭がパニックに陥る。あろうことか、俺はその場を急いで去り、建物の陰に逃げ込んでいた。
「……ふぅん?」
聞き覚えのある声。きっと気のせいだ。
声の主はその場を動こうとしない。まるで俺がここから出てくるのを待っているかのように。
しばらくして、エンジン音が聞こえた。昨日聞いた、音量を抑える改造がなされたエンジンの鼓動。それも多分気のせい。
一瞬、走り去っていく赤いバイクが見えた。昨日と同じ、赤いフルフェイスのヘルメット。昨日と違う、下ろされた後ろ髪。
風に煽られ、はためく赤のチェックのスカート。入江に立つ波のように、不規則に揺れるブラウス。
「――――イズミ」
間違いない。イズミだ。もう誤魔化せはしなかった。――何故俺は彼女を避けたんだろう?
眠れなかった昨夜、あれだけ病的に望んだイズミとの再会。
――ああ、わかった。
俺は「また明日、学校で」イズミに会いたかったんだ。
スーパーで袋詰めされた焼きそばパンと、パックの牛乳を買った。
学校、もとい駐輪場に向かって自転車を漕ぎ出す。片手で焼きそばパンを持ち、適当に頬張りながら。
パンを食べ終わったら、今度は牛乳。白みがかった半透明の細いストローは、牛乳が通る間真っ白になる。そんなどうでもいいことが、今もやっぱりどうでもよかった。
早くイズミに会いたい。ハハ。自分でも可笑しくなる。何だって言うんだ、この気持ち。
こんなにも胸が苦しいのに、きっと本人を目の前にしたらまたぶっきらぼうないつもの俺に戻る。
おかしい。これが本当に俺なのかどうか、自分でもわからなくなる。
夜の空気のせいだと思っていた。遠く、梅雨入りを予感させるあの湿った風が、俺の心をズタズタに斬りつけ、人恋しさをいたずらに弄んでいるのだと。ちょうど、毎年この時期そうであったように。
この乱心が、どうかイズミに伝わりませんように。昨日のように自然に、何でもない仲として平穏にやっていけますように。
それが本当に俺の願いなのか、自分でもわからない。
学校から少し離れた駐輪場に着く。「一時利用」スペースは既にほとんど満杯だ。この時間にもなると、通勤通学の学生・おばちゃん・サラリーマンが挙ってここに停めに来る。
というわけで、この駐輪場を利用するのは俺のように定期利用を申し込まなければなかなかに難しい。――少なくとも、自転車では。
俺は自転車のそれよりも使用率の低いバイクの「一時利用」スペースに赤いスポーティなバイクを見つけ、独り胸を高鳴らせていた。
ここから学校まで続く道は、途中で古宮駅から学校への道と合流する。そういうわけで普段は古宮高の生徒で溢れかえった道を歩かなくてはならない。
しかしこの時間ならば話は別。まだホームルームの開始時刻までは三十分以上もあるし、学校が開放され朝練習が開始される時刻からはもう三十分以上が経過している。この時間に登校する生徒は稀だ。
俺は柔らかな朝の日差しだけを感じながら、一本道を早足で歩いていった。
ぬかった。睡眠時間の不足した頭がとんだ計算ミスをしてくれた。
俺は今、誰もいない教室を、一番後ろの自分の席から茫然と眺めている。
綺麗に列を描いている机の中には、脱ぎ捨てられた制服が乗っているものもちらほら見受けられる。部活動に励む生徒の机だ。
イズミの席にはもちろん服は無いし、ついでに今日のうちに動かされた形跡も無い。
彼女は今、きっと体育館でバスケ部の練習を眺めていることだろう。 そこにはイズミの他にも角さんが居るし、きっとケロちゃんも居る。
……それでもそこに行く勇気が持てない俺は、相当情けないと思う。
仕方がないので、寝る! ああ、眠い。眠すぎる。
腹は満たされずとも、朝の微弱な食欲は既に満たされてしまった。
そうなれば、この体が次に欲するのは完全に不足している睡眠。当然のことだ。
大丈夫、ホームルームの時間になればイズミともこの教室で会える。――ああ、なんてポジティブ。
おやすみ。誰に言うでもなく、呟く。返事をもらえないのには慣れている。
ふと、中庭を見る。
桜はとうに、散っていた――――。